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2010.11.08
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四天王寺.jpg

 

 

太子の謎開封第二部

 

第一章:磯城嶋金刺の宮をめぐる謎

『太子傳記』によれば、太子が10歳の時(敏達10年、西暦581年)に、千嶋夷が攻めてきた際の宮城は、磯城嶋金刺の宮となっているが、実はこの記述は『書紀』の記述と異なっている。

『書紀』によれば、磯城嶋金刺の宮というのは、一代前の欽明天皇の御代の宮城ということになっている。敏達天皇の宮城については、敏達元年のところに「百済の大井に宮を作る」と書かれているのだ。だがこの百済の大井という場所は、いまだ確定されていないのである。

百済の大井は一応、現在の大阪府河内長野市太井に比定されているが、大和の広瀬郡百済(現、奈良県北葛城郡広陵町百済)であると主張する資料もある。

一方、磯城嶋金刺の宮の位置は、現在の奈良県桜井市金屋に比定されている。となると、百済=大和説はまだしも、河内では宮を移すには遠すぎるのではないだろうか。

それに、覚什はこの『太子傳記』を書くに当たり、当然『日本書紀』を踏まえているではずである。となれば、何かしら欽明・敏達の二代にわたり同じ宮が使われていたという史料があったとも考えられる。

この磯城嶋金刺の宮についてはもう一つ謎がある。それは『太子傳記』の中で聖徳太子の生誕地とされていることだ。

通説では、奈良県明日香村にある橘寺(606年太子創建)が、太子の生誕地とされている。これは、この寺地がもと用明天皇の別宮である上宮があった場所とされるからである。聖徳太子の別称である「上宮太子」という名は、太子がこの上宮で生まれ育ったことに由来するといわれている。

だが、この上宮にしても、磐余の池辺雙槻宮とする説もあり、橘寺が上宮所在地であった確証はない。

先に述べたように、磯城嶋金刺の宮が欽明・敏達二代にわたる宮城であったと考えると、母である間人皇女が禁中巡行中に、厩の前で産気づかれたのだから、金刺の宮という記述はそれを踏まえてのこととなる。

実際には、聖徳太子の誕生が同じ宮内で行なわれたとは考えにくいが、太子が『太子傳記』にむ書かれてあるように三輪山の神を氏神としている一族であるならば、やはり明日香村の橘寺よりは、その近辺にあった屋敷で生まれたと考える方が自然ではないだろうか。

 

 

第二章:太子の神統譜と神道成立の謎

『日本書紀』には、敏達10年閏2月に蝦夷が攻めてきて、その首領の名前が綾糟といった記述があるが、『太子傳記』に見られるような綾糟以下6名の名前までは記録されてはいない。

このとき攻めてきた蝦夷の数にしても『書紀』では数千人とされているが、『太子傳記』では3億6万8千730人となっている。この場合の「億」という単位は、現在のように確実なものではなく「非常に多いこと」の表現として使われたと思っていただきたい。よく中国の漢詩に見られる「白髪三千丈」という表現と同じようなものである。

また、『書紀』には、戦に負けた蝦夷が三輪山に向かって二度と攻めてこないことを誓ったという記述はあるが、この一件に聖徳太子の名は一切出てこない。

だが、少し考えてみていただきたい。なぜ蝦夷たちは三輪山に向かって誓ったのだろうか。

三輪山は現在も大神神社のご神体とされ信仰を集めているが、この三輪山に祀られている神は大物主尊(=大国主命)である。つまり大物主尊とは、素戔鳴尊を祖とする神なのである。なぜ蝦夷は天皇家の祖神ではなく、出雲系の神に不可侵を誓ったのだろうか。これは不自然である。

天皇家の祖神は言うまでもなく伊勢の御祭神天照大神である。となれば、三輪山でなくて、天皇の祖神を祀る伊勢に誓わせるべきではないだろうか。

こうした『書紀』の不審な記録を解く鍵になり得るのではないか、と思われる記述が『太子傳記』の「太子の氏神が三輪大明神である」という記述だ。

皇太子(=用明天皇)の皇子である太子がこの戦いに関わっており、その太子の氏神が三輪大明神であるから、祖先に誓いを立てさせたという『太子傳記』の記録は、一応理屈が通っている。

しかし、太子の氏神が三輪大明神だという説は耳にしたことがない。覚什は何処からこの話を持ってきたのだろうか。それと同時に、『太子傳記』が書かれた鎌倉時代初頭において、太子の氏神が三輪大明神、つまり大物主尊だということが違和感なく受け入れられていたのだろうか。

こうした謎の解明は、現時点では未公開史料の開封を待たなければならないが、『書紀』と『太子傳記』を見比べていくだけでも、現在いわれている氏族の神統譜が、決して揺るぎないものではないということがおわかりいただけるのではないだろうか。

筆者は色々な古文献を解読しているうちに、我が国の「神道」というのは「仏教」の導入に伴って形作られたもののような気がしてならなくなった。

日本に仏教が導入されたとき、その仏教に絶対的な価値を持たせ民衆を納得させるためには、それに相対する「何か」が必要となる。その「何か」が「神道」の確立に繋がっていったのではないかと思うのである。

神道を体系づけてその形式が整えられたのは天武天皇(在位673~686)の頃といわれている。この時代の実権を握っていたのは、『記・紀』編纂にも多大な影響をもたらした藤原不比等(659~720)である。不比等は、蘇我一族を滅ぼした大化改新で名高い藤原鎌足の子供とされている人物である。実はこの藤原親子には大きな謎が秘められているのだが、今回は話がそれるので、別の機会にゆずることにする。

それはともかく、私にはこの不比等が生みだした『古事記』(712年成立)と『日本書紀』(720年成立)という二つの文献こそが、神道がさも紀元前以前から連綿と信仰されているものと思わせた張本人だと思っている。それは当時作り上げられた虚像なのではないだろうか。

伊勢神宮が明確に天皇家の祭祀の中心となったのは、天武天皇の時代になってからである。実際に斎王制が取り入れられ、祭祀組織が整備されたのも、実はこの時代なのだ。






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最終更新日  2010.11.08 16:42:20
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