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第一章:年号の創始はいつか 『日本書紀』に登場する日本最初の年号は《大化》である。これは言うまでもなく、皇極天皇の4年乙巳年(645年)6月に起きた《乙巳の変(=大化改新)》を受けて、同年19日に制定されたものである。 だが、『太子傳記』には、大化以前の年号が記録されている。 他に、《大化》以前の年号としては、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘や『伊豫国風土記』の逸文に《法興》という年号があったという記録が残っているが、公式に認められた痕跡がないことから、「異年号」もしくは「私年号」と呼ばれている。 それでも、法興は推古29年(621年)に比定されているので、『太子傳記』に書かれている年号の方が古いものということになる。 『太子傳記』に書かれている年号を本文の内容にそって書き出してみると不思議なことに気がつく。
敏達14年 勝照元年(586 ) 守屋興巌寺を焼く。8月、敏達天皇崩御。 用明元年 勝照2年(586) 9月、用明天皇即位。 用明2年 勝照3年(587) 6月、用明天皇崩御。 崇峻元年 勝照4年(588) 1月、崇峻天皇即位。 崇峻2年 端政元年(589) 日本国を66ヶ国に再編成。 ・ ・ ・ 推古元年 端政5年(593) 推古天皇即位。太子摂政就任。 推古2年 吉貴元年(594) 諸国に国府寺の建立を発願。
通常年号は、新天皇の即位に伴い改元されるのだが、ここに挙げた年号はそうしたセオリーからはずれているのである。 もちろん、年号が行政上不可欠のものとなっていくのは律令国家確立後のことなので、当時の年号が我々の考える年号のセオリーからはずれるのは仕方のないことかも知れない。 だが、それならば、当時なりの改元の理由というものもあったはずである。 この謎を解く鍵は、実は天皇の墳墓様式にあるのではないかと筆者は考えている。なぜなら、最初に勝照という年号が登場するのは、敏達から用明への転換期であるが、この二人の天皇の御陵を調べてみるとその様式は明らかに違うのだ。敏達天皇の御陵は前方後円墳なのだが、用明天皇陵は、天皇陵としては我が国最初の方墳なのである。 この墳墓の違いは何を意味しているのだろうか。 筆者はこれが、政権を握る部族の交代を意味しているのではないかと考えている。用明天皇は欽明天皇の第4子で、欽明天皇とは異母兄弟であると考えられているが、もくかしたらそうした万世一系の天皇家の系図すらも、歴史書と共に後世において作られたものである可能性もあるのだ。 敏達と用明は、それぞれ大和の地で勢力争いを繰り広げた異部族の大王だったのではないだろうか。そう考えれば、墳墓様式の違いも、勝照(=相手をしのぎ、照らす)という年号が用いられたこともすべて納得がいくのだ。
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最終更新日
2011.01.25 16:43:18
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