|
カテゴリ:カテゴリ未分類
第八章:善光寺成立年代
この手紙のやり取りの部分にはもう一つ謎が隠されている。それは太子の命を受けて阿部臣が赴いたとする善光寺の所在地である。 もう一度本文を確認していただきたいが、阿部臣は推古18年(610)2月25日に「信州水内郡芋井の郷に着くと善光寺の如来堂を参拝し」と言っているのだ。 だが、芋井の郷に善光寺が祀られたのは皇極2年(643)のことである。覚什は前半部でそのことを詳しく述べていたにもかかわらず、なぜここに来てこのようなことを書いたのだろうか。推古18年であれば、水内郡芋井ではなく、伊奈郡麻績でなければならないはずだ。(このことについては第四部で詳しく述べている) そう考えると、太子の手紙の最後に書かれていた年号「定居」というのが意味深な気がしてくる。先にも触れたが、推古天皇の治世では「吉貴」という年号が安定して用いられていたと思える節がある。それなのにここだけポンと「定居」という年号らしからぬ年号が用いられているのは、どう考えても不自然な気がする。 そて、ここからはあくまでも筆者の推理に過ぎないが、この「定居」が覚什のメッセージだと仮定したら、次のような可能性は考えられないだろうか。 善光寺はこれまで言われていたように皇極2年(643)に現在の場所(芋井)へ遷ったのではなく、推古18年(610)に太子の力添えにより現在の場所に建立されたのではないか。そして、覚什は、そのことを知っていたので、わざと「定居」という架空の年号を書き加えることによってそのことを暗示した。つまり、「定居元年」とは、「そこに居を定めた最初の年」という意味と考えるのである。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.07.04 14:57:42
コメント(0) | コメントを書く |