.,;:.☆,;:'`,;:.門をたたけ そうすれば 開けてもらえるであろう...。

2009/01/09(金)15:30

この子は?

山下公園 地区(19)

山下公園 には こんな 女の子の象もあります 赤い靴ぅ~ 履ぁ~いてたぁ~ 女の子ぉ~♪ の 歌 「赤い靴 履いてた 女の子」 の象 です ランドマークタワー はけ~ん 「赤い靴 履いてた 女の子」 作詞 野口雨情 / 作曲 本居長世 1. 赤い靴履いてた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった 2. 横浜の波止場から船に乗って 異人さんに連れられて行っちゃった 3. 今では青い目になっちゃって 異人さんのお国にいるんだろ 4. 赤い靴見るたび考える 異人さんに逢うたび考える ※ 曲 は こちら インターコンチ・大さん橋 はけ~ん 「赤い靴の女の子は実在していた」と いう話は ご存知の方もいると思います 明治後期に 作詞家の野口雨情は北海道の新聞社に勤めていました その時に 同僚の奥さんから ある女性の話を聞きました。 その「ある女性」の名前は「岩崎かよ」と言いました 「かよ」には「きみ」と名づけた娘がいました この「きみ」が 赤い靴のモデルの少女です 少女は 明治35年 7月に 静岡県清水市で生まれました その後母親は北海道へ「開拓民」として行くことになりました しかし母親は まだ3歳の少女を厳しい自然の北海道へ連れて行くのをためらいました 悩んだ結果 アメリカ人宣教師であるヒエットとその奥さんに 少女を託すことにしました その結果 少女はヒエット夫妻の養女となりました 後に野口雨情が 母親の気持を歌って「赤い靴」を作詞しました いつも元気よく遊んでいたあの女の子が遠い外国へ行ってしまってから 今年で数年になる 今では外国人のように青い眼になってしまったであろう 赤い靴を見るたび 横浜の波止場から船に乗って行ってしまった女の子を思い出す また外国人を見るたびに あの女の子が今は何処で何をしているかを考えてしまう そんな気持を歌ったものです。 明治38年に養女となった少女は ヒエット夫妻に連れられてアメリカへ行くはずでした しかし6歳の時に 少女が結核になっていることがわかりヒエット夫妻は 仕方が無しに 少女を東京都麻布にある鳥居坂教会の孤児院へ預けて帰国しました そして少女は9歳の時に その病が元でこの世を去りました ベイブリッジ はけ~ん 行く事が できなかった 遠い 外国 に 思いを寄せているのでしょうか… 野口雨情 記念館/北茨城市歴史民俗資料館 は こちら 北海道 留寿都村 赤い靴ふるさと公園 の 「母思像」 と 「開拓の母」 記念碑 は こちら 麻布十番 の 碑文 は こちら と こちら 静岡県 日本平 の 日本平の母子像 は こちら と こちら それにしても あの三脚担いだ オヤジ が 気になるなぁ…  (`‐ω‐´)ムカチュク~

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