"手紙を書く"
先日観た舞台「LOVE LETTERS」。幼馴染の男女が、50年間にわたり相手に書き送った手紙を舞台上で読み上げる朗読劇。お互い、相手に愛情を持っている。にもかかわらず、気持ちとタイミングとが合わず、恋人同士として過ごす時間は短い。親密に過ごすのはほんの一瞬。それぞれ別の人と結婚し、それぞれの人生を歩むことになってゆく。手紙はその間ずっと、書き綴られてゆく。途中、男が女に書き送る手紙に、次のようなくだりがある。この男は、書くことが好きな男だ。書くことで自分を表現し、そうして表現することが生きていくことだと、そう考えているような男だ。「…手紙を、自分の手で書く。自分のペンで。自分の字で。どこからでもない、自分の中から湧いてくるものを。そうして君に、ぼく自身を送る。(中略) 手紙がぼくなんです。たった一人のぼく。(中略)君はぼくを破き、ぼくを捨てるかも知れない。今日も、明日も。好きなだけ、死ぬ日まで。」(『上演版 ラヴ・レターズ』 A.R.ガーニー著,青井陽治訳 劇書房)手紙がぼく自身、確かにそうかもしれない。ただしそれは、“書いている主体にとっての"手紙『は』ぼく自身、ということだと思う。書いている本人にとって、書いている内容はどうフィクションを用いても結局本人自身、と思う。でもそれが相手にそのまま伝わることはない。相手が受け取る「ぼく」は、ぼくの思う「ぼく」と同じかどうかは絶対にわからない。というか絶対に同じではない(脳が違うんだから)。同様に、読み手の捉えた「ぼく」が、書き手の思う「ぼく」と同じとは絶対に言えない。舞台の感想とは外れてしまうけど人は他人のことをほんとにはわからない、ということをいつも思う。とはいえ、私も誰かや何かに共感することはある。なので、「わかる」という言葉を発する時はできるだけ「・・・ような気がする」と加えるようにしている。だってわからないはずだから。微妙な話をしている時にいとも簡単に、「わかる」と言われるとちょっとびっくりする。が、それがうれしいと思える時もありその時は、「ああ、わかる気がすると思ってもらえたのですね」と変換する。「言わなくてもわかるはずだ」などといわれるといじわる心がむくむくと持ち上がって「言ったとしてもわからないのでは?」と反論したくなる。期待するのは自由だが、期待に応えないのも自由だ。全く個人的な嗜好ですし、社会人としてはいつもいつも実践できているわけではなく、実践しない時に何か悪意があるわけではないですが。だから、受け取り手はいつも自由だ。誤解を恐れる気持ちは書くときの私にもあるけど、何を読み取り何を考えてもらってもかまわないはずだ。「ぼくを破き、ぼくを捨てるかもしれない」というリスクを負うだけではない。書かれたぼくをどう受け取るかは知り得ない、ということ込みだと思うのだがどうもこの男、自分の書いたものは意図の通りに相手に伝わると思ってるんじゃないかという節がある。いただけない、と思いつつそれでも相手に期待してしまうのが恋愛感情なのかもしれないとも思う。それは幻想を含んでいる。そしてそれもまたよし。。。ただこの舞台の場合女の方が男よりずっと感覚的なので手紙に書かれた「ぼく」を簡単に受け取ったりはしない。そんなことを言われるのがまさに「うざったい」といった風に手紙は嫌だと主張する。この女の求めるのは実在の男自身だ。……(しばし考えております) つづく (かもしれない)