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カテゴリ:アメリカ文化を考える
ビジネススクールに入学以来、様々なバックグラウンドを持ったクラスメイトから刺激を受けてきた。 ヘルスケアマネジメントの専攻が始まるとその多様性は医療関係者に広がり、国や制度が違えど同じ志を持った仲間から励みを受けている。 今日授業のあった「Health Economics」のクラスにはハワード大学の大学院で経済学を学ぶアフリカのシエラレオネ共和国出身のAがいる。 彼はワシントンDCの小学校で作文(ライティング)の先生をしながら経済学を学び、医療経済を学ぶためにジョージワシントン大学のクラスを履修しているのだ。 ゆくゆくは発展途上国の医療経済に関わる仕事をしたいという志を持つAだが、現在は小学校の作文課題の採点や添削作業に追われて相当忙しそうだ。 我々にはちょうど一週間後にクラスのペーパー提出の締め切りがやってくる。 でも彼はライティングの先生なのだから論文執筆もお手の物だろう。 私:「大学院生の論文と小学生の作文ってやはり違うもの?」 A:「いや、基本的な構造は一緒だよ。始めにまとめ(Summary)を書いて次に内容(Body)、んでもって最後に結論(Conclusion)がくるわけだからさ」 私:「じゃあ論文が違う点は扱う内容の難しさとか専門用語とか定義、そういったとこかな?」 A:「そう、それが厄介なんだよね~(苦笑)」 なるほど、基本というのはやはりどこまでいっても大切なのだということだろう。 ちょっと話を聞いただけでもアメリカでの作文教育は論理構成の基礎をしっかり教えているのだと感じた。 それに引き換え日本の小学校での作文教育はどうだったかな~。 「感じたことを素直に表現しましょう」 くらいしか教わらなかった気がする(苦笑)。 型にはめた構成の強要は確かに創造力を阻害するのかもしれないが、それでも論理的な文章についてのルールをもうちょっと教えてもいいんじゃないかな。 こんな事を書いてみて、自分がこれまでブログに書いてきた文章の論理的整合性を検証したらえらいことになってそうで怖くなった・・・。(検証の方法もわからないけど) まあ、あくまで気楽な日記ですから! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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