2章

大正13年、日立製作所総合病院が設立された年、いつも、人力車で旅役者を乗せて走っていた「源一郎」は、前々から芝居小屋や活動写真と言うモノに目をつけていました。
そして、お妾さんを通し、興行師と出会いました。お妾さんは赤線に居たので、興行師の知り合いもいたのです。「いつかは自分もこの日立の地に役者を呼べるような人間になりたい」そう思っていた「源一郎」の転機でもありました。
その年と言うのは、チャンバラの活動写真の全盛期を迎えていて、子供達の間では、チャンバラ遊びが盛んに行われていました。

大正14年12月27日、祖父は、28歳で、人力車を引いていた時に貯めたお金をはたいて、そのお妾さんに紹介された興行師を通し、日立初の活動写真を始めました。その頃と言うのは、芝居小屋はありましたが、活動写真を上映する所は、日立にはなかったのです。その年は、活動写真で、「板東妻三郎」の人気がうなぎのぼりになってきた年でもありました。
芝居小屋の催し物には、旅回りの役者の芝居が主でしたが、時には活動写真や浪花節、或は連鎖劇といったものしかなかったのです。

大正14年その芝居小屋を開業した年は、満州事変勃発の兆しが見えてきて、米穀・木炭が配給制度になっていましたが、それでも、ラジオが始めて放送され「あの町この町」が町に流れ、町には活気があふれて居ました。
そんな中最初の男の子を亡くして、1年間、祖父と離れひとりで暮らしていた正妻「かん」に、長女「イキ子」が誕生しましました。かんは、一人暮らしから解放され、新しい家族を持つ事が出来たのです。
それまで一人ぼっちだった「かん」はその時ほど喜んだ事はなかったでしょう。「かん」にとって生きる希望が出来た瞬間でもありました。

大正時代から昭和の初め頃の娯楽と言えば、芝居や活動写真しか有りませんでしたので、日立には、日立鉱山があって毎月、14日が給料日でその時には、芝居小屋の前に屋台や出店が出ていました。

大正15年、昭和元年を迎えた年に、次女「たけこ」が誕生しました。この年、NHKが設立され、金融恐慌幕開けの気配をさせ始める一年前でした。また、歌人・島木赤彦が日立を訪れた年でも有りました。活動写真では、「紫頭巾」が上映され、東京の銀座には「モダンガール」と言うオシャレな洋服を身にまとい、髪はパーマネントをした女性たちが出始め、多くの人たちは珍しがったものです。この次の年(昭和2年)、県立日立中学校が、今の日立一高の場所に創立され、助川裁縫女学院が設立されたのです。
またその年、大正15年、享楽館と言う芝居小屋ができました。(享楽館は今は、国の文化財になっています。)
大正15年、活動写真は、最盛期を迎えていました。祖父の始めた相賀館に続き、享楽館 栄座 第一劇場(日活) 松竹と五軒の芝居小屋が競い合っていました。また、映画館は、内外装も競い合っていました。周りの芝居小屋は、とてもりっぱな芝居小屋でしたが、祖父の始めた活動写真の小屋は、戦後二階建ての映画館を作りましたが、その頃はまだ平屋立ての小屋だったそうです。

その頃の活動写真とは、無声映画で、杵鞭氏と言って、活動写真の動きに合わせて、吹き替えのように面白おかしく、活動写真にあわせて話す咄家がいました。その杵鞭氏を祖父の弟「定治」が、手伝っていました。祖父の弟と言うのは、栃木から兄を追いかけて日立に来てしまったのです。
ふたりは、この活動写真の為、夢中で働きました。ふたりで大八車を押しながら活動写真のポスター貼りに行き、チンドン屋のカッコをし、チラシくばりなどもしたのです。

その頃の活動写真と言えば、目玉の松ちゃんこと尾上松之助の全盛時代で、彼らの演じる「チャンバラ物」「忍術物」は、コミカルで毎週休みになると子供達は、相賀館にその活動写真を見に来ていました。
昭和10年弁士が解雇を迎える年まで、祖父の弟「定治」は、祖父の営んでいた相賀館で活動写真の杵鞭氏を手伝っていました。その後、昭和になって、戦争が終わってから浅草の舞台で猿回しをしていたくらいなので、それは、コミカルでとても面白い杵鞭氏だったのでしょう。弁士が解雇になってからは、弟「定治」は、しばらくの間、映画館の中で飲み物やお菓子等を入れた箱を紐で首につるし、劇場で「ジュースいかがですか?煎餅いかがですか?」などと言い移動売店をしたそうです。

昭和4年、活動写真や芝居小屋が、繁盛し始め、「大尉の娘」と言うトーキー映画が始めて上映され、多くの人は、映画から声が出るのを不思議がっていました。国産初の交流式ラジオ受信機が出来、街角にラジオが設置され、ラジオからは「ラジオ体操の歌」や「玩具の唄」が流れだした年、三女「千代子」が誕生しました。この年、日本鉱業株式会社が日本産業(株)から独立して創立した年でもありました。


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