8章

昭和30年11月8日、30年間、日陰で6人の子供を一生懸命育て、苦労をし続けた正妻「かん」は、52歳と言う短い一生を終えました。その後、異常事態が起きてしまったのです。なんと自分達の母親の葬式に 妾の女性が出ると言う今では考えられない異例な事態が、子供達は、早くに亡くなってしまった母の事を悔しがり悲しみました。でも、その一方で正妻の葬式に出た妾への驚きと憎しみが交差し、祖父を責め 自分たちには、どうする事も出来ない悔しさで一杯だったと思います。

昭和31年、父が22歳の時、正妻の一年忌が終ってすぐ、その妾である女性は、正妻の後釜に入り子供達の継母になりました。祖父とは、20歳も年の差がある女性でした。
母「かん」が亡くなって子ども達はまだ、亡くなった悲しみとショックから立ち直れないでいた時だったのにもかかわらず、父「源一郎」が妾と結婚、子ども達は驚き、自分達から父親を奪った女性への憎しみと母親を亡くした悲しみと、どうして良いか解らない空しさと悔しさ、口には出せない思いが交差したと思います。母親の葬儀にお妾さんが出、今度は、その女性が自分達の母親になる訳ですから、その継母になる女性が、興行師を父親に紹介してくれ、そのお陰で生活できた事など、子ども達は、知らずに離れて暮らしていた子供達は憎しみ以外、考えつく事など出来なかったのでは無いでしょうか。
でも、その継母が居なかったなら 子供達はどうなっていたでしょう?
「源一郎」は、女遊びをしていた人でした。きっと女子供達はあの時代(昭和初期)です。売られていてもおかしくなかったのでは無いのでしょうか。
その為か、祖父は、子供達に三味線や踊りの習い事をさせたそうです。(その頃の習い事と言うとお琴や書道そういうものしかありませんでした。)
それにわたしが、多くの病院を回れたのも義祖母が、祖父に興行師を紹介してくれ、祖父が、映画館を営んでくれたおかげだとも思っています。

祖父が、再婚した年の昭和31年1月「源一郎」の母「イナ」は自分の息子が子供達と住むようになった事を知り安心したかのように77歳で眠りにつきましました。その8ヵ月後、後を追うように83歳の源一郎の父「留吉」も他界し、7人も居たきょうだいも戦争などで亡くし、残されたきょうだいは、栃木から追いかけてきた弟「定治」ひとりになってしまったのです。

ひいおばあちゃんのエピソード
昭和30年のある日、駆け落ちし日立に来、成功をした祖父に栃木から母危篤の知らせが来ました。7人兄弟の長男だった祖父は、父と急いで、栃木の母親「イナ」の所へ行き、「母ちゃん死ぬな」と、言いながら3万円を持って行ったそうです。その頃の3万円と言ったなら、映画が55円で見られた時代ですから今なら、約100万円位のお金だったのです。そのお金を見たわたしのひいおばあちゃんは、とても驚き、危篤状態を脱し、その後、1年間長生きたそうです。お金の力というのはすごいものです。

その源一郎の両親が亡くなった年の昭和31年、白黒テレビが家庭で普及し始めた頃の事です。
市内で街頭テレビが設置され、まだ、家庭などでは、高価すぎてテレビの買えない時代に 市内で一番、最初にテレビを買い、わたしの家は、近所の人たちが並んでテレビを見に来ていたそうです。
 わたしが、幼稚園に上がる(昭和40年)頃にもまだ、近所の人たちがTVを見に来ていた事がありました。何人かが正座しテレビを見て、拍手をしたりしていたのを覚えています。
 祖父は、良く役者を映画館に呼びました。
昭和33年、父が24歳の時、美空ひばりが映画館に来ました。前にも書きましたが、美空ひばりさんは、昭和23年、祖父が映画館を再建したその年デビューしました。その10年後の事です。

わたしの父と母は、その時出逢ったのです。
福島県江名、母は、妹ひとりと弟4人の6人兄弟の長女でした。本当は7人兄弟で、母の兄が居ましたが、昭和15年戦争が始まった時、2歳だった兄・善一は、その頃思うように栄養が取れず体が弱りこの世を去ってしまっているのです。母は、江名港では知らない人は居ない位、名の知れた網元の家で育ちました。が、母親が脳卒中で倒れ、学生の頃から幼い兄弟をおぶりながら家事一切を手がけていました。

エピソード ロカビリー時代
 昭和31年、母は、小名浜の家政女学校に行っていました。
 その頃、日本でロカビリーの全盛期で母は、家政女学校に行っている事もあり、ピンクのレースでワンピースを作りロカビリーの追っかけも少しかじったそうです。 
※ロカビリーは、1954年にサン・レコーズ・スタジオで、エルビス・プレスリーやスコティー・ムーア、ビル・ブラックが「That's All Right Mama」をレコーディングした時に誕生し、その音楽はカントリー・ウエスタンとR&Bの衝突によって確立された。どこまでも「白人的」で、「南部的」なロカビリーの特徴は、しゃっくりするようなヴォーカルと高速のギターだ。なかでも独創的なアーティストとして挙げられるのはサン時代のプレスリーやカール・パーキンス、ジョニー・バーネットのロックンロール・トリオなどである。
※昭和30年日本でも、ロカビリーが流行りだし、平尾昌明 尾藤いさお 山下敬一郎ミッキーカーチス などのメンバーで日本を一斉風靡しました。

昭和32年、ある日、「ねえセイちゃん映画見に行かない?」
母は、家政女学校の友人を誘って『いわき』の映画館に「慕情」と言う映画を見に行きました。映画を見た帰り、『泉』と言う駅で降りないと江名には帰れないのに『泉』で下りるのを忘れ映画の話に夢中になり、1時間喋り続けてしまい、気が付いたなら『日立』と言う駅迄来てしまったのです。
帰るのにお金のない母は、母親の姉の娘(いとこ)が、この「日立の映画館に後妻として嫁いだ」と言う事を母親に聞いていたのを思い出しました。
そして、その頃、日立に映画館が六軒あったので、どこの映画館にいとこが居るのかわからず、駅前のそば屋に行き、尋ねたところ、後妻の入った映画館が相賀館である事を教えてもらい、そこを尋ね、帰りの汽車賃を借りに行きました。そして江名に帰えろうとしたなら、いとこに『今度、美空ひばりが日立に来るので手伝いにおいで』と、言われ、手伝いに行ったのが、父と母の出会いでした。父は、「なんかチョコマカチョコマカ行ったり来たりしている 見慣れない子が居るなぁ。」と思っていたそうです。母は、映画館の手伝いを終えた時、いとこに「ここに丁度、年頃もお前と似合いそうな息子が居るので付き合ってみないか?」と言われました。きっと、いとこも、誰も知らない所にひとり、後妻に入ったので心細かったのでしょう。

その後、父と母は付き合い始め、昭和33年、テレビ喫茶と言うのが出来始め、ふたりは良く、小名浜のテレビ喫茶に行ったそうです。
そして、一年後の昭和34年、母が女学校を卒業すると同時に結婚する事になりました。
でも、母方の親は反対をしました。それはそうです、相手の男性には不満はありませんが、赤線から身請けしてもらい後妻に入ったのが、母の「いとこ」と言う事は自分達の姪っ子が娘の母親になる訳です。それにその頃、いくら世間で認めたと言っても相手の家は、映画館をやっています。その頃、興行師や映画館などにはやくざが絡んでいると言われていた時代でした。それにみんな驚く大家族なので、娘が苦労すると言う事は目に見えていました。
でも、「源一郎」は、結婚を反対していた母の両親を説得し、父と母は、結婚したのです。
祖父は、美空ひばりが日立に来た時、手伝いにきた母を一目見て気に入り、「この子を息子の嫁に」と思ったのでしょう。
父と母が結婚後、祖父は、母を本当の娘のように可愛がりました。何か有ると「チー子、チー子」と親族の中でも一番頼りにしていました。

※その為か、祖父と母の命日は月こそ違いますが、同じ25日なのです。


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