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2007年12月09日
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どうも禅を理解していない人が多いようである。「ただ存在する、ただある」とはどういう意味なのか、勘違いしている人が多いようである。「ただ存在する、ただある」とは、特別なあり方ではなくて、本当にそのまんまなのである。禅僧でも分かってない人が多いのではないか?「ただある」という特別なあり方とがある思う事は迷いというものである。奇麗だったら奇麗だと思えばよいのである。「ただただ奇麗」などと感じる必要はない。奇麗だと感じた分だけ奇麗だと思えばよく、「どのように感じれば良いか」などという問題ではない。死に臨んでは「怖い」と思えば良いのである。「死が怖くない」などと、うそぶく必要はないのである。

日常が即道なのであって、笑いたければ笑い、泣きたければ泣き、怒りたければ怒り、我慢するべきは我慢する。大声をあげるほど楽しければ大声をあげて楽しみ、それが迷惑なら遠慮する。「くそっ」と思えば「くそっ」と思う。それだけのことである。幸せだと思うなら幸せを感じ、不幸だと思えば不幸を感じる。頑張るべき時に頑張って、成功するなら成功するも良し、失敗するも良し、日常が道であれば、悟りの道から外れることはない。悟りの道に入るには頭を剃る必要もないし、座禅をする必要もない。道に入るとは、日常を生きることだ。仏道などいう言葉は、結局は詭弁である。ただ日常あるのみだ。故に平常心はそのまま道なのである。平常心とは落ち着いた心ではない。本当にふだんのままである。突き当たって突き破った者は、それでウマくいくのである。

だから、しばしば禅は宗教ではないと言われる。そのまんまなのである。「酒は飲んでも飲まれるな」と同じである。「煩悩にまみれても煩悩に飲み込まれるな」とでも言えばよいか。特別な何かなど求めない。だから特別なものを求めて良いのである。それだけのことだ。

僕は禅の修行者ではないし、禅の信奉者でもない。だから禅が面白いと思うのである。





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最終更新日  2007年12月09日 15時42分19秒
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