友人のエッセイ集に、寄稿する。
ワードで書いたのを、この日記にコピーしてみるが・・・、上手くできるかな?ただし、文中の、スケッチや、写真は削除してコピーしてみた。今見てみたら、左右が広く、スクロールで広げないとみられないようである。最後の所は、文章、少し省略してます。 スケッチ エッセイ No11砂時計 砂時計を見る。残された時間は?思い出だけは、溜まってゆく。 その思い出を語り合う、現職時代の同僚とも、ここしばらくは、ご無沙汰気味である。よく一緒に同行した先輩は、病気療養中で、年賀状のやり取りのみになっている。 そんな中で、現職時代の思い出を、呼び起こしてくれるのが、たまに呼ばれる「同窓会」なのである。 38年間、高校教師をしたが、期待される情熱的な教師でもなく反省をも込めて書いている。 新採の赴任は、西舞鶴高校であった。ここからは、同窓会には呼ばれない。三年間の在職中には、漱石の「坊ちゃん」に似たような体験もしている。独身時代の懐かしい思い出が有るが、担任は、一年間だけであったので、呼ばれないのも仕方がない。 昨年呼ばれた同窓会は、次の転勤先、亀岡高校の商業科二クラスの生徒達であった。ここは、四年間在職で、三年間担任したので、お互い印象深い関係であった。 私より10歳下であるから、定年を過ぎ、第二の人生の話も面白かった。 私自身は、定年後、南丹高校、園部高校,鴨沂高校等の講師。最後の三年間は桃山高校・定時制の常勤講師を終えたのは、68歳の時であった。 定時制では、昼の二時ごろ登校し、夜の十時に学校を出る体験を話したり・・・、未だに、その習慣から抜け切れずに、遅寝遅起きの毎日であると。 この亀岡時代は、50年前のことである。同窓会に出て、個人的に思い出すのは、通勤の思い出である。 自宅の黄檗から京都駅で乗り換え、南丹へ向かう山陰線の列車は、いつもガラガラであった。亀岡へは通勤の逆方向なのである。4人分の座席に,一人足を伸ばし、今はトロッコ列車の風景になっている保津峡を眺めながら・・・。 ところが、困ったのは夏場の時である。蒸気機関車のD51の列車の時は、大変だった。トンネルに入ると、一車両の窓を、一人か二人で閉めに回るトンネルを出ると、暑いので開けに回る・・・という具合に。そんな通勤の苦労から解放されたのは、次の転勤先「城南高校」であった。城南高校は、私の母校でもあり、この転勤に助力してくださったのが、恩師の小林鳳円先生(当時、教頭)であった。かくて、三校目の城南には、14年間勤務することになる。その城南高校の同窓会に呼ばれたのが、先月の、十一月19日であった。案内のハガキを見ると、32期卒とある。城南には長きに勤務した割に、担任期間より、分掌(同和教育)担当が多かった。数少ない3年間担任した学年の同窓会であった。今は、55歳になった生徒達である。男性は、未だ働き盛り、女性は、子育てを終え余裕ができたのか、参加者の半分以上が女性であった。この同窓会、学年全員を対象に通知しているのには、ビックリ。 一組が家政科、二、三、四組が商業科、五,六,七,八,九組が普通科なのである。当時の蜷川民主府政下における京都の高校三原則(総合性、小学区制、男女共学制)を象徴している学年であった。 ちなみに、一学年次のクラス編成は、普通科と商業科がミックスなのであった。今の公立高校の分離的制度を思うと、隔世の感である。 同じテーブルに座った,O君は九州大(薬学部)を卒業して製薬会社に、隣のFさんは専門学校を出て今は、介護の仕事をしている、北海道の岩見沢から来たという。商業科を卒業したH君は、研磨工場の先端技術者として。 和気あいあいの会話を聞いていて、京都の高校三原則は、すばらしいものだったと、納得のひと時であった。 教員は6人出席であった。その一人S先生は、当時新採教員であった。大学は東大へ行くつもりだったが、あいにく東大入試が中止になり、仕方なく名古屋大の数学科に入学したと。同じ商業科を担任してもらったので、そんなことをも、思い出しながら当時の時代背景にも、懐かしく思いを馳せたひと時であった。 商業科担当の私などは、今なら就職対策を主にするのが普通のようであるが、進学対策についても、学年団で何やら真剣に取り組んだ記憶がよみがえってくる。この学年、国公立現役合格を16人出したことを憶えている。 クラス別の写真撮影が始まった。出席教員のクラスは、私のクラスも含めて何故か少なくて淋しい。80人出席の生徒で、一番多いクラスで、14人と13人であった。が、そのクラス担任であったI先生と、N先生は、故人となられていた。 そんな事には、想いを馳せることも出来ないくらい喧噪な雰囲気の中で,会は「お開き」となった。校歌を歌うこともなく、四年後の同窓会の幹事が紹介され、挨拶へと。 住所不明者が多く「次は、一人に声かけして,連れて来ましょう!」と。 集まった36年前の卒業生80人は、たくましく生きている様子を見届けた一日であった。そして、私にとっては、砂時計のたまりゆく思い出のひと時をよみがえらせてくれた一日でもあった。