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「旧唐書」「隋書」「宋書」という中国の国史に出てくる 倭国関連記事を精査していくと、 古代日本(4~7世紀)の中心権力者は 大和朝廷の天皇家にあらず、 倭国王を名乗っていたのは 九州筑紫を本拠地においていた別王朝である。 論理の流れはこう指し示していました。 そしてその本拠地は大宰府であり、 字地名には、天子の居住地である「紫宸殿」の名を 今に残していました。 前回書いたように、ここで大きな問題が見つかりました。 倭国王はなぜ「天子」を名乗ったのか? これです。 本来倭国王は中国にいる天子の臣下を自称していたので、 自らが天子を名乗るわけがない。 この問題を今回考えていきます。 資料はやはり中国の国史です。 「宋書」が書かれた時、倭国王は自ら臣下を自認して、 「征東大将軍倭国王」を認められましたから、 この時点では当然「天子」を名乗っていないはずですね。 その後百数十年後の「隋書」で タリシヒコが「天子」を名乗ってますので、 この間に書かれた3種の中国国史を調べてみました。 「南斉書」「梁書」「陳書」が対象です。 それぞれの倭国関連記事を精査してみました。 「南斉書」では「宋書」と同じように臣下の礼を取っていました。 ここまでは問題ないんですが、次の「梁書」では、 驚くべきことが書かれていました。 天監元年(西暦502年)に倭国王の位取りが書かれています。 「征東将軍倭国王」と。 宋書では「征東大将軍倭国王」なんです。 要するに「降格」してるんです。 しかも新羅は「大将軍」になっています。 さらに驚くことに、次に書かれた「陳書」には、 倭国関連記事は一切ないんです! 百済や新羅のことは書かれているのに、 倭国のことはその存在すらなかったの如く、 一切書かれていない・・・・ おそらく「梁」の東アジアの運営方法の転換か、 倭国が何か「梁」に噛み付いたか・・・・ このどちらかかと思います。 そして次の時代の「陳」では完全無視です。 倭国内では独立派と臥薪嘗胆派と別れ、 喧々諤々議論が飛び交ったことでしょう。 そんな折、西暦597年、「陳」は「隋」に滅ぼされます。 これは東アジアに激動を起こします。 この時代まで中国は長らく南北朝に分かれていて、 倭国は南朝に臣下の礼を取っていましたが、 「陳」の滅亡と同時に南朝が消滅して、 「隋」が中国全土を支配したんです。 この事実は、倭国にとって重要な意味を持ちます。 親分がいなくなっちゃったんですから。 そこでタリシヒコは 「我こそが南朝を受け継ぐ天子である!」 そう宣言したんでしょう。 倭国王自らが対外的に「天子」を自称したのは、 おそらくタリシヒコだったんでしょうが、 もしかしたら「梁」や「陳」の時代に 早くも自称していた可能性もあると思います。 これについては今後機会を見つけて書きたいと思います。 次回は「宋書」の前に書かれた「三国志」です。 そう、あの「魏志倭人伝」です。 SEE YOU NEXT TIME
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最終更新日
2009年10月09日 12時28分30秒
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