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カテゴリ:ビジネスケース
中興の祖、父健太(1986年~) 時恰も健太が社長に就任した1985年から世界経済の激動が始まった。1985年のドル高是正のためのプラザ合意、1986年には日本の対外不均衡の原因が、輸出依存型経済構造にあるとして、内需主導型経済に転換して黒字解消を目指そうという前川リポートが発表され、その直後から日本経済は円高不況に見舞われた。しかし円高は輸入価格の低下をもたらし、これが輸出のデメリットを上回って1987年には好況に転じた。ところが実はその時、誰も意識していなかったバブル経済に突入していたのである。 ABC株式会社も少なからずバブルの恩恵を受けた。輸出比率は低く1割程度、アジアの近隣諸国が相手だったから円高の影響は小さかった。内需の拡大に連れて、売上げは毎年二桁台の伸びを示した結果、1989年の売上げは15億円にまで達した。しかし翌年1990年の秋にバブルが弾け、健太の苦悩が始まった。豪太25歳。学業を終えて一般の会社勤めに入った。いずれABC株式会社を継ぐことになるが、それまでの武者修行である。余談だが豪太は、この頃マスコミにバブラーと揶揄された新人類に属する。 健太が安心して経営の舵取りができたのは、社長就任から5年ほどの1990年まで。その後は、売上げ減少に歯止めをかけようとして躍起になったが、5億円すれすれまで落ち込んだ。しかしどうにか、経営を崩壊させるような大きな赤字を免れて食いつないだ。売上げの減少に見合うまでにリストラを断行して縮小均衡を図ってきたのだ。 しかし一方で事業拡大を諦めていたわけではない。ABC株式会社の創業の理念は、世に初めて問うたユメミールにある。今はじっと身を縮めていたとしても、夢まで亡くしていない。次に飛躍する機をうかがい、夢をエネルギーに変えようとしてしゃがみ込んだのである。だからどんな時も、生命維持のために必要な最小限の投資だけは欠かさなかったし、細々だろうが労働条件改善や技能継承の場づくりを続けてきた。世の識者は、1990年代を“失われた10年”と呼ぶが、健太は失うものを最小限にとどめる努力を惜しまなかった。 1990年半ばには、早くも守りから攻めに転じていた。“攻撃こそ最大の防御なり”という言葉を地でいこうと決心したのである。そのためには、新製品を次々と市場に送り込むことが重要だ。健太が社長に就任した頃、ロングセラーのユメミールも稼ぎ頭のノビールも衰退期に入ったと見られた。社長に就任した1985年にアイコールを市場投入し、1990年ベルベール、1995年サンサールに続けて、その後も5年ごとに新製品をだした。 そればかりではない。1980年代の後半には大手メーカーの受注を受けることに成功していた。元々ABC株式会社は、どこそこの系列には入らずに、自社製品を自力で売ることに徹していたが、ABC株式会社の技術力を、その大手メーカーは見逃さなかった。新製品に組み込む精密で高性能な部品が必要だが、それはABC株式会社の技能を持ってしか出来なかった。しかし暫くして大手メーカーは、コスト低下を目論んで、この部品の海外生産を試みたが、結局品質・性能ともに色んな問題が発生して上手く行かずに、遂に断念したという噂が立った。1990年代の空洞化を免れた数少ない製品のひとつである。 現在ABC株式会社では、自社製品と受注製品の割合が半々である。自社製品1本足打法から脱却したことで業績が安定したことは言うまでもない。 自社製品の売れ行きが芳しくない時は受注製品が支えた。両方が共に落ち込むことは先ず無かったと言って良い。 ♪♭♯・・・・・♪♭♯・・・・・♪♭♯・・・・・♪♭♯・・・・♪♭♯・・・・・ ただ今、「中小企業 経営実践の道しるべ」 好評発売中!! 書店の他に、アマゾンやパレード社からお買い求め戴けます。 ・・・・♪♭♯・・・・・♪♭♯・・・・・♪♭♯・・・・♪♭♯・・・・♪♭♯・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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