『ペイルライダー論』~[2]
何しろ、この作品におけるクリント・イーストウッドは、牧師(プリーチャー)という記号的な存在のままで自身の名前すら明かされはしないのだ。ひとり不可思議な位相にあるイーストウッドの存在を、さらに怪奇な位相へと変貌させる人物がスクリーンに現れる。鉱山主に雇われた保安官ストックバーンである。あの牧師を知っているか?と詰め寄る鉱山主に保安官はこう呟く。「別人だ・・・その男なら死んだ・・・」とその台詞と共にクリントイーストウッドの背中に刻まれた六発の弾痕が蘇える。生きているわけが無いと思いつつ、自分自身に言い聞かせるように呟く保安官の表情には、釈然としない陰鬱な翳が差している。因縁めいた二人の再会を待っていたかのように映画は不気味な様相を呈していく。亡霊映画のような雰囲気が、辺り一面に漂い始めるのだ。実際、『ペイルライダー』を『亡霊映画』だと断じてもあながち間違いではない。六発もの銃弾を浴びて死なない者などいようか?鉱山主一味が、最初にクリント・イーストウッドを目撃したシーンを思い起こしていただきたい。無謀にも一人で町に買い物に来たヘルが、鉱山主の手下たちに取り囲まれるシーンである。手下の一人が何気なく振り向いた視線の先に、白い馬に乗ったクリント・イーストウッドが映る。見慣れない男に曖昧な表情を浮かべて、ハルのほうに視線を戻す。そして次の瞬間、再び男のほうへ視線を向けると、もうそこにはイーストウッドの姿は無い。幽霊のように忽然と姿をくらましているのだ。大天使(神の化身)、牧師、ガンマンに加え、亡霊という位相を獲得したクリント・イーストウッドを視覚的に表現した場面がもうひとつある。汽車の到着シーンである。汽車が、それまでスクリーンに映っていた平原を覆い隠すように駅に停車し、駅員が車両と車両の連結部分を通して、汽車の向こう側にいる馬上のクリント・イーストウッドに気付く場面だ。駅員は、馬上の男をちらりと見やる。そして汽車が出発し、スクリーンに広大な平原が開けると、もうそこには、クリント・イーストウッドの姿が無いのだ。我々の心をサスペンスで揺らす、この思わせ振りなふたつのシーンは、「ペイルライダー」の視覚的メタファーそのものなのである。村人たちのため、悪漢どもに一人立ち向かうペイルライダー=クリント・イーストウッドは、『シェーン』のアラン・ラッドが代表する西部劇のヒーローや黒澤明の時代劇に見られるヒーロー、いやどんなヒーローとも似てはいない。なぜなら、ペイルライダー=クリント・イーストウッドは、生身の人間ではないからだ。フィルムノワール的な黒い影に染まっていたクリント・イーストウッドが、やおら、『真昼の決闘』のような陽の光に自分を晒し、被っていた帽子を地面に置く。映画史上、最も静謐な決闘シーンの火蓋が切られるのである。ところで、映画監督クリント・イーストウッドと他の監督たちを隔てるものは何か?それは、別項でも指摘したが、恐るべき繊細さと息を飲むような大胆さが抗うことなく映画の中で同居している点にある。恐るべき繊細さだけなら、ヴィクトル・エリセの名前が浮かぶであろうし、息を飲むような大胆さなら、ベルナルド・ベルトルッチの名前をあげることも出来よう。しかし、このふたつを兼ねそなえた映画作家は極めて稀なのである。その稀有な才能は、ラストの決闘シーンでも遺憾無く発揮される。ペイルライダー=クリント・イーストウッドが単なるヒーローではなく、不可視な存在であることを「亡霊映画」を想起させる映画的なキャメラワークで説明して見せるのだ。保安官の部下が一人ずつ殺されていくとき、まるで必然のように不可視なペイルライダー=クリント・イーストウッドがそこにいるのだ。六人の部下たちは、ペイルライダー=クリントイーストウッドの姿を決して見ることは出来ない。それどころか、彼と対峙し闘うことさえ許されてはいないのだ。ただひたすら、見えない相手を捜し求め、眼にふれることも無く、クリント・イーストウッドにあっさりと殺されてしまうのだ。そうやって、一人また一人と殺されていく。家の壁に立てかけられた大きな板の背後から、あるいは古井戸の中から弾丸は発射されるが、我々もまた六人と同様ペイルライダー=クリント・イーストウッドを見ることは禁じられている。キャメラが、クリント・イーストウッドが推移する様をまったく映さないからだ。許されているのは、不気味で濃密な気配を感じることだけである。尋常でない静けさ。サスペンスで漲るで画面の充実。そこでの映画作家クリント・イーストウッドは、ヒーロー映画の常識、つまり善を代表する人物と悪を代表する人物が闘うさまをキャメラで映し、観る者のカタルシスを誘うような演出を施さない。むしろ、その常識から俯瞰した場合、ペイルライダー=クリント・イーストウッドは卑怯者とさえ言えるのだ。なにしろ、敵に姿を見せず騙まし討ちのようなやり方で相手を仕留めるのだから。それなのに観る者は、そのような感情を抱かないばかりか、緊張感の高まりを覚えるのは、クリント・イーストウッドの視線(主観キャメラ)から捉えられた絵が一切排除されているからだ。もし、主観キャメラで六人の敵を追い、そして不意討で相手を仕留める様子を見せられていたなら、我々の胸の内はまったく異なる感情に支配されていただろう。僕が、『ペイルライダー』は「亡霊映画」であると定義してみせたのは、映画監督クリント・イーストウッドが、ペイルライダー=クリント・イーストウッドを描く手法が「亡霊映画」におけるキャメラワークと酷似しているからなのだ。ラスト。ペイルライダー=クリントイーストウッドは、「亡霊」から「ガンマン」へと変身する。再びスクリーンに姿をあらわし、地面に置かれた帽子を頭に載せるプリーチャー。その気配に振り返る保安官。彼は唯一、クリント・イーストウッドに対峙する事を許された存在なのだ。銃に弾丸を込めながら悠然と保安官ににじり寄るガンマン、クリント・イーストウッド。驚愕の表情でクリント・イーストウッドを見つめる保安官の体に、彼は六発の弾丸を撃ち込む。彼が昔、六発の弾丸を打ち込まれたように。しかし、クリント・イーストウッドは保安官が「亡霊」となって蘇える資格を奪うかのように、保安官の額に7発目の弾丸を撃ち込むのである。 〔了〕