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さて、大化改新を断行した中大兄皇子、のちの天智天皇は
狡猾な殺人者でもありました。 まず645年に専横を極めた蘇我入鹿を殺しその父蘇我蝦夷を自殺に追い込みます。 これについては蘇我氏に非があると思う人が多いことでしょう。 続いて647年に蘇我倉山田石川麻呂が中大兄皇子の命を狙っているとの 讒言を信じた中大兄皇子が兵を出したため、 石川麻呂は無実を訴えて家族とともに自殺してしまいます。 右大臣になっている石川麻呂に中大兄皇子の命をねらう理由はなく、 この事件は皇子の謀(はかりごと)であったとするのが合理的な解釈でしょう。 次に犠牲となるのは中大兄皇子の異腹の兄弟である古人大兄皇子です。 蘇我氏の権勢が続いていれば皇位につけるはずの人でした。 古人大兄皇子は蘇我入鹿斬殺事件を目の当たりにして衝撃を受け、 自らも危ないと悟ったのでしょう、自宅に帰って閉じこもってしまいます。 さらに吉野へ隠棲して皇位への野心がないことを表明することにより、 何とか一身の安泰をはかろうと涙ぐましい努力をするのです。 しかし、三ヶ月後にこれまた謀反を企てていると密告され、 中大兄皇子の派遣した兵に討たれてしまいます。 謀反のことは中大兄皇子の陰謀という説に説得力があります。 そして最後は有間皇子です。 有間皇子は難波に置き去りにされたあの孝徳天皇の遺児です。(10月17日参照) これまた有力な皇位継承候補者です。 658年斉明女帝と中大兄皇子は和歌山の白浜温泉に旅行して飛鳥を留守にします。 有間皇子は留守官の蘇我赤兄にそそのかされて赤兄の屋敷で謀反について語り合って 帰宅しました。 ところが、その夜赤兄の派遣した兵に逮捕され、 白浜温泉に護送されて中大兄皇子の取り調べをうけます。 無実を主張する有間皇子をいったん放免し、大和へ送り返す途中で絞殺させます。 これなどかなり陰険なやり方ですね。 大化の改新の英雄は何とも油断のならない狡猾な人殺しだったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2003.10.19 21:37:45
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