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天智天皇が亡くなった後の跡目争いが672年の「壬申の乱」です。
天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子との間の戦いです。 結果は大友皇子が近江の瀬田で大敗し、山崎で自殺して 大海人皇子の勝利となり即位して天武天皇となります。 額田王と娘の十市皇女はともに飛鳥の天武天皇の宮に身を寄せることになります。 しかし、さらなる不幸がこの母娘を襲います。 壬申の乱で深い傷を負った十市皇女は 異母兄に高市皇子(たけちのみこ)との間に愛が芽生えます。 しかし、この十市皇女に父天武天皇は斎王の任務を課します。 斎王とは「いつきのみこ」で即位の初めに 斎宮(いつきのみや)で奉仕する内親王や女王のことです。 未婚が建前ですから十市皇女は高市皇子との間を引き裂かれることになります。 そこで十市皇女は突然発病して宮中で死んだことになっています。 これはおそらくは自殺でしょう。 世をはかなんでか運命をうらんでかは分かりません。 一人娘を失った額田王の悲しみを伝える記録はありませんが、 前半生の華やかさに比べて、後半生は辛く寂しいものであったでしょう。 しかし額田王は天武天皇の死後も元気だったことが、 天武天皇の第六皇子・弓削皇子との贈答歌によって明らかです。 天武天皇の跡を継いだ皇后の持統天皇はちょくちょく吉野の離宮に行幸しました。 その行幸に従った弓削皇子から歌が贈られます。 「いにしへに恋ふる鳥かも 弓弦葉の御井の上より鳴き渡り行く」 (昔を慕う鳥でしょうか、ゆずり葉の茂る離宮の泉の上を鳴きながら飛んでいきま す) すでに六十歳を超えていた額田王はこれに答えて、 「いにしへに恋ふらん鳥はほととぎす けだしや鳴きし 我が恋ふるごと」 (いにしえを慕う鳥はきっとほととぎすでしょう。おそらく私が昔を恋い慕っているように鳴いたのでしょう) 天智天皇、天武天皇の恋人となり、その才能と美貌で一世を風靡した歌姫の、 晩年をうかがわせる史料は皆無だそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2003.11.05 08:10:10
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