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カテゴリ:日本史
7世紀の前後は女帝の世紀だった。
第1号の推古(位592~628)、第2号の皇極(位642~645)斉明(位655~661)、第3号持統(位690~697)、第4号元明(位707年~715年)、第5号元正天皇(位715年~724年)である。第6号の孝謙(位749~758年)、称徳(位764~770年)である。 ここで本題から離れるが、興味なのは元正天皇である。元明天皇の娘で未婚で天皇になった。生没年は680年、748年であるから、35歳で未婚のまま即死、44歳で退位してから68歳まで生きたことになる。未婚だったのは皇位に就けるためであったろう。そして、退位してからはどのような人生だったのであろうか。天寿をまっとうされたようだから、人格も円満だったような気がするが、道鏡事件を起こした孝謙・称徳と違って有名なエピソードがない分、逆に気になってしまうのであう。 さて、それぞれの女帝について実力者を見てみよう。推古の時は大臣である「蘇我馬子」である。物部守屋を討滅して、さらに崇峻天皇を暗殺している。その後継として推古女帝を即位させたのである。そして皇室における対抗馬は聖徳太子であった。この時は二人のバランスがとれていたようで、覇権争いなどにはなっていない。 皇極のときは蘇我蝦夷、入鹿親子である。山背大兄王を自殺させ、自分の家を御門と呼ぶなど、専横を極めた。そして皇室の対抗馬は若きプリンス中大兄皇子である。645年に皇子は曽我氏を滅ぼしている。藤原氏のように寄生虫に徹しなかったのが、蘇我氏の敗因であろうか。 斉明については、天智天皇の私的な理由があったようだ。8月14日を参照あれ。 持統、元明、元正のときは、藤原不比等である。不比等は鎌足の子で大納言、右大臣を歴任している。娘の宮子を文武天皇の夫人とし聖武天皇を生ませている。さらには、娘の光明子が聖武天皇の皇后になっており、その間に生まれたのが孝謙(称徳)女帝なのである。皇室の対抗馬は天武天皇の孫で高市皇子の子である長屋王である。聖武天皇即位とともに左大臣となったが、光明子を皇后にしようとする藤原氏のために密告にあい、聖武天皇の命で妻子とともに自殺させられている。これが聖武夫妻にとって一生の重荷となるのである。そのことは次回以降に。 ちなみに、孝謙・称徳のときは登場人物が多い。項をあらためて。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.08.18 08:20:54
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