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三人寄れば文殊の知恵

「弘法大師 伝承と史実」の衝撃 3

弘法大師が眠られているのは奥の院ではない?ー「弘法大師 伝承と史実」の衝撃 3

高野山にお参りする方は、必ずといっていいほど
お大師さん(弘法大師)が眠られる奥の院にお参りされます。

本来、高野山の中心は、根本大塔、金堂、西塔などの諸堂が
立ち並び、真言密教の教義をビジュアルで体現した
壇上伽藍でありますが、そちらへお参りされる方は
それほど多くありません。

むしろ、何度も、高野山にお参りされている方でも
高野山=奥の院と考えて奥の院こそが高野山の中心と
考えている方も少なく無いことでしょう。

高野山の町を抜け、位置の橋から石畳を歩くと
苔むした巨大な墓石群を守るように、杉の大木が林立しています。
一度足を踏み入れたものを、敬虔な気持ちにせざるを得ない
神々しさがあり、その一番奥に、お大師さんの眠られる御廟がある。

それが、高野山の奥の院ですが・・・

学問の世界は、信仰の世界に存在する仮面を
容赦なく剥ぎ取っていきます。

いろは歌は弘法大師作ではない。

四国八十八カ所もお大師さんの開創ではない。

その波がついに、高野山奥の院にまで・・・

武内教授によると、お大師さんの眠られているのは
奥の院ではない可能性があるというのです。

1、お大師さんの後継者と言われながら、お大師さんの在世中に
 亡くなられた智泉大徳の墓所は壇上伽藍の中にある。

2、お大師さん約50年後に亡くなられた高野山第二世の
 真然大徳の埋葬場所は、現在の金剛峰寺にある。
 (当時は東方の原野であったと書かれている)

参考までにつけ加えると、お大師さんがまず建てたかったのは、
伽藍の根本大塔で、お大師さんの在世中には完成しませんでした。

また、お大師さんは、壇上伽藍の御影堂と根本大塔の間にあった、
僧坊で亡くなられたと伝えられています。

それゆえ、

1、現在伽藍から東へ4キロ離れた奥の院は、
 当時は原生林に覆われていて、そこに廟所を作ることは
 著しく困難を伴なったはずである。

では、お大師さんの本当の廟所はどこに?

江戸時代の学僧、道猷(どうゆう)阿闍梨は、「紀伊続風土記」で

「高野山には七廟説があり、間違いないといえるところはない」
「七廟説のなかで廟所は現在の奥の院に落ち着いた」

といわれており、お大師さんの墓所が奥の院ということに
疑問を投げかけています。

その理由は

1、今の奥の院(江戸時代)はお大師さんの時代より
 100倍開かれている。

2、奥の院は現在の寺院があるところからも遠く、
お大師さんの時代に、このように遠いところを選ぶ理由がない。

そこで、廟所の候補地の中で南谷宝積院というところの
可能性について書かれています。

3、南谷宝積院はお大師さんのお住まいの向かいにあり、 
 遍照岡とも阿逸多院ともいった。

 ※遍照(お大師さんの別名)
 阿逸多(弥勒菩薩ーお大師さんには弥勒菩薩信仰があった)

4、この寺を再建した時、境内を掘ったところ、奇怪な響きがして
 さらに深く掘ったところ、石函が見つかったが、
 怖れをなして埋めてしまった

武内教授はこれ以上は書かれていませんが、江戸時代に廟所の
場所が問題になったことを検討してみる価値はあると、
文章を締めくくられています。

学問にこだわると信仰からは外れていきます。
だから、僧侶ではあえて学問には目をつぶる人も
少なくはありません。

でも、それでも、どうしても事実を知りたい!

さて、問題は南谷宝積院です。

残念ながら、現存していません。

どこにあるんでしょう?

ちなみに、現在の奥の院がなぜ廟所に選ばれたか?

ちょうど気が集まる場所ではないでしょうか?
後背の山の気を、前にある川でせき止めて溜め込む。
もともと風水は墓所を決めるためのもの、
真言宗の隆盛を目的に、現在の場所に御廟が開かれた。

これは武内教授の説ではなく私見です。

最終更新日 2008年09月02日


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