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三人寄れば文殊の知恵

弘法大師のスポンサーと遣唐使の難易度

三たび真言宗と弘法大師ー弘法大師の留学のスポンサーは誰だ

弘法大師について今まで何度も書いてきました。

四国霊場の開創者

弘法大師伝ーその一

弘法大師伝ーその二

空海の誕生地は畿内?ー「弘法大師 伝承と史実」

再び真言宗と弘法大師

弘法大師は他の祖師と比べて特徴があります。

「前半生(30歳ぐらいまで)の生涯が謎に包まれている」
「後半生で真言宗を作り上げる」

ということです。

公式の記録に姿を現わすのが31歳の時、遣唐使船に乗りますが、
その二年後に日本へ密教を持って帰ります。
そこから僅か30年足らずで真言宗の教学を打ちたて、巨大教団を
作り上げるのです。
驚くべきことには、弘法大師が作られた教学が、1200年も経った
現在でさえそのまま使われています!

同時期の伝教大師(最澄)の教学がほとんど現在では伝えられて
おらず、鎌倉新仏教となって分かれていくことを考えると、
信じがたいものがあります。

日蓮・親鸞・道元といった祖師はそれなりの教学を打ち立てましたが
教団を作り上げることはできず、それを大きくしたのは弟子の力です。

一方、最澄・栄西といった祖師は教団を一代で作り上げましたが
教学を残すことはできませんでした。

弘法大師が後半生だけで、教学を打ちたて、教団を作り上げたのは
まさに奇跡です。

ただ、弘法大師の凄さはこれに留まりません。

ある時は、言語学者
(篆隷万大象名義という日本初の辞典の編纂者)

ある時は、教育家
(綜芸種智院という入学制限のない学校を作る。
 しかも学費は全額支給という超画期的なもの)

ある時は、文学者
(文鏡秘府論という詩文の創作理論を取りまとめた著作。
 執筆法使筆法という字の書き方の著作がある)

ある時は、土木技師
(日本最大の溜池である満濃池をアーチ型にして改修)

ある時は、書の達人
(平安の三筆にあげられ、五つの書体を自由に操り唐でも
「五筆和尚」の異名を授けられた)

ある時は、詩人(唐の文化人を驚かせる漢文を書く)

すなわち、仏教以外の分野でも歴史に名を残しているのです。

何故これほどまでに活躍できたのか?

その謎を説くためには、空白の前半生にその鍵があることは
間違いありません。

もし、前半生を日本の山野で修行していたとして、長安に一年しか
滞在していなかったとしたら、これほど多彩な活躍ができなかった。

むしろ、前半生で高い文化に触れていたに違いないというのが、
私の頭の中にあります。

ところで、

「弘法大師の莫大な留学費用は誰が出したか?」

弘法大師は還学生として中国の最新の仏教を輸入するべく国費で
中国に渡った伝教大師よりも、見方によっては上回る経典を
持ち帰っています。

分量は伝教大師よりやや少ないのですが、すべてが新しい経典、
それを書写させています。同時期に入唐した伝教大師が何度と無く
借経を申し入れそのために両者の関係が悪くなったこと、
その逆が無かったことからも、如何にすぐれた経典を請来したか。

さらに密教法具は唐で恵果和尚(真言第7祖)の使っていた物。
すなわち国宝級のものと、そっくり同じものを
作らせて持ち帰っています。

また、灌頂を受けた際は500人の僧を招いて祝宴を開いています。

その費用をどうやって工面したか?

これは少なく見積もっても、現在の貨幣価値にして
10億以上はかかるのではないですかね?

「20年の留学費用を一年で使った」

というのが一般的意見です。
しかしそれではせいぜい2~3億でしょうから
とても足りないのでは?

「山野修行をしていたときに知り合った水銀技術者集団」

が工面したという意見もあります。

お金を持っていったにしてもどうやって?という
気がします。

実は日曜日に講師先生を囲んでの食事の時、弘法大師の
謎についてもお尋ねしてみました。

「弘法大師の莫大な留学費用は誰が出したか?」

講師先生の推測は

「スポンサーがいた」

ちなみに作家の陳舜臣氏は「曼荼羅の人」でパトロンとして
政治家の王淑文を登場させています。

そんな話をしていましたら、O僧正から面白い話を
提供していただきました。

宮坂宥洪先生の説です。

仏教には南伝(上座部系)と北伝(大乗系)の
二つの系統があります。

我々が知っている、お釈迦さんの

「二十九歳で出家し、六年間の修行の後、三十五歳で成道」

これは南伝仏教の説。

北伝仏教では、

「十九歳で出家し、十二年の修行の後、三十歳で成道」

これを基に論を立てられています。

1、留学生の資格を得ることはたやすいことではない。

2、弘法大師に留学生の資格を与え、費用を捻出したのは
 南都(奈良仏教)の僧侶である。

3、その理由は弘法大師を見た南都の僧が
 ブッタを見たと思ったからだ。

4、初対面の弘法大師に恵果和尚が密教のすべてを伝えたのも
 同じ理由である。

空海の軌跡

私の最初の感想は

「なんという荒唐無稽な説!」

密教系の学者としても知られている宮坂氏にしては・・・
あまりにも無謀だろう・・・

と思いましたが・・・

よく考えるとまともな学者がこんなことを真顔で
言われるのが如何にも真言宗らしいです!

それに真言僧としては

「それは無いだろう」

と否定もできません。

なかなか興味深い見解だと思います。

一方で松下隆洪氏の、こんな説も教えていただきました。

弘法大師『二度渡航説』

弘法大師が初めての入唐ではないという説を
真言僧で唱えている方がいるのにもビックリです。

しかし、宮坂氏にしても松下氏にしても、弘法大師が空白の時期を
あえて隠しているというのが一致しているのが面白いですね。

「遣唐使船で留学して、密教を持ち帰った」

と弘法大師の事跡にありますが、これが実は結構大変だったことは
知られていません。

何しろ、弘法大師が唐へ渡った遣唐使船ですら、

前年の延暦22(803)年に出港した船が暴風雨で中止。

この船には弘法大師は乗ってなかったといわれます。

翌年の延暦23(804)年に出発しました。

しかも無事、唐へ着いたのは四隻の船団のうち、僅か二隻。

しかも、弘法大師の乗った船は洋上を一ヶ月以上漂流。
福建省まで流されます。
しかも、海賊と間違われ、2カ月近くそこに留め置かれます。

危険すぎです!(汗)

なぜ、こんなに危険か?

その理由は二つあります。

1、東シナ海を横断するルートを取ったこと。

2、気象条件の悪い7月から9月ごろに日本を出航したこと

台風が来る時期に、東シナ海を突っ切ったら危険でしょう。
何でそうなったか?

1、663年の白村江の戦いで朝鮮半島での足場が無くなり朝鮮半島経由の
 安全なルートが使えなくなった。

2、唐の年賀に合わせるため、12月までに長安へ入る必要があった。

生きて帰れる保証がないため、まさに命懸け。

それに、当時は平均年齢が40歳ぐらいといわれていましたから、
31歳の弘法大師は今で言うなら50歳ぐらい?
38歳の伝教大師(最澄)は60歳過ぎ?

前にも述べましたが、留学生として選ばれるのは大変です。
しかし、留学生として選ばれて遣唐使船で唐へ渡れても
唐で学べるかどうかは微妙!

弘法大師も留学生になりながら、あわや、長安行きから外されそうに
なって、文章をしたためて願い出たのは有名な話。

延暦23(804)年12月23日に長安に入って・・・

密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね6月に胎蔵界、
7月に金剛界の灌頂を受けて、密教のすべてを授かります。

恵果和尚は弟子1000人といわれていましたが、灌頂を授けたのは
生涯でたった6人。

そのうち、胎蔵界、金剛界共に授かったのは、既に世を去っていた
義明と弘法大師だけといわれています。

「長安にきて半年の弘法大師が、何で密教のすべてを授かった?」

という謎が浮かんでくるのは当然?

しかも、同年12月15日、恵果和尚が60歳で入滅。

綱渡りのような際どさ!

ところで、弘法大師は20年の留学期間がありました。
それを全うしていたら・・・

次の遣唐使船は34年後の承和5年(838年)
しかし・・・弘法大師は承和2年没。

密教を伝えられても帰れない。

現に弘法大師と共に唐へ渡った霊仙三蔵は次の遣唐使船を
待つことなく唐で亡くなります。

稀に見る幸運が弘法大師に微笑みます。

なんと、延暦24(805)年、臨時の遣唐船がやってきました!
正式な遣唐使ではありませんし、何のために来たのかも
よくわからない船ですが・・・

結果的に弘法大師を迎えに来ました!

本来は留学期間を終えずして帰る事は罪に問われますが、
強引に載せてもらったようです。

そして延暦25(806)年弘法大師は帰国します。

弘法大師は出港から帰国までまさに稀に見る幸運に恵まれ、
運を引き寄せています。

もし、一つでも歯車が狂っていたら・・・
密教と即身成仏が深く導入されなかった日本仏教の姿は
現在とは大きくかけ離れていた可能性もあります!

最終更新日 2010年04月01日


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