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三人寄れば文殊の知恵

弘法大師伝ー連載中

では、弘法大師は何故大学を辞めたのか?
この理由は全くわかりません。

さらに、弘法大師の生涯で二十歳前後から唐にわたる
三十一歳までが空白となっています。
よく24歳で「三教指帰」を書いてからの事跡が不明と言われますが、
実はそれ以前の大学を辞めてから以後も不明です。

何故でしょう?

山林修行に入っていたと仮定すると、矛盾点が出てきます。
弘法大師は博識です。ありとあらゆる経文に通じています。
山野で仏道修行をしていたとしても、当時の時代背景を考えると
経典のある場所は大寺院に限られています。
そこで勉強したとするとそれなりの痕跡が残っているはずです。

しかし、二十歳で槙尾山寺で得度した。
久米寺で大日経を感得したなどの
伝説を除くと正式な記録には全く残っていません。
なぜ、全く事跡が不明なのでしょう?

正史にも登場する高僧としては不思議といわざるを得ません。

しかし、一つの仮説として、何らかの理由で
大学に居られなくなったことも考えられます。
そのため、身を隠す必要があったとしたら・・・

前述の武内教授によると、佐伯一族は交易で
莫大な利益を得ていたそうです。

弘法大師が唐へ密入国した可能性も
考えられるのではないでしょうか?

弘法大師の唐密入国説は以前からありました。
大変興味深い説です。
弘法大師にはいくつもの解明されていない謎があります。

唐へ三十一歳で正式に留学して都長安に着いたのが延暦23年末。
留学僧として寺院に入り生活を始めるのが翌年二月。

六月に密教の2系統(金剛界・胎蔵界)をまとめ、
弟子1000人といわれる青龍寺の恵果和尚を訪ね
八月には密教の最奥義である灌頂を授かっています。

そしてその四ヶ月後に恵果和尚は亡くなります。
実はその灌頂を授かったのはわずか6人。

しかもその灌頂には金剛界・胎蔵界の2系統がありますが、
両方とも授かったのは弘法大師を除くと
義明という阿闍梨しかいません。

さらにその義明阿闍梨は若くして亡くなったともいわれています。
それ故、弘法大師は恵果和尚から13種の印可を授かっています。
弘法大師が密教の正当相承者といわれる所以です。 

また、弘法大師は恵果和尚が亡くなって
二ヶ月後には長安を出て帰国の途に着きますが、
247巻の新訳経典、曼荼羅23幅、絵像15幅並びに
密教の法具(拝むときに使うもの)を持ち帰ります。
これらは恵果和尚が20数人の写経生並びに、
宮廷画工に依頼して青龍寺にあるものと同じものを
作らせて弘法大師に送ったとされています。

そんなに短期間で密教のすべてを伝えられる。
しかも、唐にある最高の画像・法具と同じものまでいただける!

真言宗では弘法大師ならそういうこともあると
不思議に思われていません。

しかし、真言僧としては不適当な発言になりますが、
常識的にはありえない話のように思われます。

普通の感覚では、1000人の弟子を差し置いて
長安に来て数ヶ月の弘法大師を密教の正当相承者と
することはとても考えられません。

また、恵果和尚の莫大な贈り物には当然それなりの対価を
払ったと考えるのが普通ではないでしょうか?

後日、弘法大師が伝教大師に灌頂を授けた時は、
伝教大師にその費用を用意させたといわれています。
弘法大師も当然、伝授の費用を自分で用意したはずです。

通説では弘法大師の留学の期間は20年とされていて
その20年分の留学費用をまとめて使ったといわれていますが、
それだけではとても足りそうにはありません。

何故密教の正当相承者となれたか?
伝授の費用をどう工面したか?
この二つははっきりわかっていません。

弘法大師の漢文は日本人離れしていて、
読みにくいといわれています。

また、通訳なしで生活できるほど中国語に堪能でした。

さらに五筆和尚といわれるほどに書家として唐でも
有名だったことを考えると、唐に密入国してある程度認められ、
改めて正式に日本から留学する方法を勧められたと
考えるほうが辻褄が合うかもしれません。

当然伝授の費用を用意するスポンサーもあるはずです。
(陳 舜臣 の「曼荼羅の人」には弘法大師の伝授費用を
用意するスポンサーが登場します)

恵果和尚は弘法大師が訪ねた時こう言って喜んだといいます。

「汝、先に汝が来たらんことを知り、相待つこと久し。
今日、相見えること、大好、大好」

恵果和尚は正式な留学生としてやってくる
弘法大師を待っていたのかも知れません。 


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