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テーマ:仏教について思うこと(1016)
カテゴリ:行の話
一般社会にはさまざまな価値観があります。
その価値観とは、言い換えればその人の欲望を 具体化したものといえるのではないでしょうか? 家が欲しいという人には、その家を得るための方法が 価値あることになりますし、恋人が欲しい人には、その恋人を 得るための方法が価値あることになります。 最近では健康に対する価値を見出す人も少なくありません。 実際にその方法が有効でない場合でも、その人がそう思うことに 価値観を見出します。 日常生活はそのような価値のあることを行なうことと いえるのではないでしょうか? 一方「行」はそれ自体何か目的があったりしてはいけません。 行はそのような価値観から離れていなければなりません。 それを行なうことによって何か得をするようではいけないのです。 何故行に価値があってはいけないのでしょうか? 人間は何らかの欲望にとらわれると、それによって見方が 左右されてしまいます。 お金を儲けようとしている人が、詐欺にかかりやすいのは そのためです。 冷静に見ているようでも、自分の希望的観測が働いてしまうため、 見えなくなってしまうのです。 仏教に戒というものがあるのもそのためです。 戒というものによって、欲望から離れることにより 自由な見方が出来るようになるということです。 ただ、当然疑問が湧いてくるでしょう。 「価値の無いことをすることに意味があるか?」 あるいは、もし人口のある程度の部分が行を行なったら 経済活動は止まるのではないか? 実は奈良時代は国家が公認する以外の人間が 僧侶になることを禁じました。 それは上記の理由です。 さらにすべての人が行に入ったら? 答えはあえて申しません(笑) 素光 掲示板・コメント以外にメールで問い合わせをされる方は こちらからどうぞ。 ブログランキングに登録しています クリックにご協力お願いします。 ↓ 人気blogランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[行の話] カテゴリの最新記事
こんばんは、またまたご無沙汰をお許し下さい。
「奈良時代は国家が公認する以外の人間が 僧侶になることを禁じました」とは 驚きでした・・・爆。 自分のハンドルネームが笑っていますわ(^^ゞ 戒というモノを改めて認識したいと心から思いました。 三文さん、いつも良い刺激のある日記をどうもありがとう御座いました(合掌) (2007年01月06日 22時55分23秒)
>「価値の無いことをすることに意味があるか?」
>あるいは、もし人口のある程度の部分が行を行なったら経済活動は止まるのではないか? ものごとを行うのに、価値が無いといけないと考える時、重要なのはどんな価値判断基準によっているかであると思います。 現代はその判断基準があまりにも物と金に偏りすぎていると思うからです。 多くの人が行に入って、経済活動が止まると問題である、と考えるのも物や金に価値判断の基準を置いているからかも知れません。 もちろん経済活動は大切ですが、価値判断の基準に心の豊かさや思いやり、やさしさといった物や金では代えられない基準が入らない限り、人々の欲求はいつまで経っても満たされないのではないかと思います。 物や金ばかりに偏った間違った価値基準が横行する現在、正しい価値基準をとりもどすためにすべての人が行に入るのも良いかもしれませんよ。 (2007年01月06日 22時57分17秒)
心や頭の中を空っぽにして無になった時、初めて悟りが開けるのでしょうか?
難しいですね! いつも、いろいろなことばかり考えている私には、全然無理な話です。 お坊さんの、澄んだ瞳、綺麗ですよね! (2007年01月07日 00時45分12秒)
確かに、達磨さんの言った「無功徳」や、古人の「雪を担って井を埋む」といった、無駄骨折りに徹することを肝に銘じるよう、刷り込まれております。
タイなんて、かなりのかたが出家しますが、経済活動に差し障りがあるとは、聞かないですね。(笑) (2007年01月07日 01時21分15秒)
自分の外に 価値を見出そうとするなら 「行」も また欲の一部でしょう。 自分のなかに「行」を行うなら すべての人が「行」を行えるでしょう。 お釈迦さんもキリストさんも そう考えたと思います。 (2007年01月07日 07時03分23秒)
おはようございます。生まれてきた人はみな一生が行なんですよね。だから僧侶だけが行をしているのではなく、欲はあっていいもの。ただその欲が自分を向上させるために必要なものならどんどん持ってもいいと思います。欲がないなら最初から生きなくてもいいわけです。僧侶だって欲があるから僧になれたのではないのですか。
(2007年01月07日 08時31分12秒)
3年このお寺に通っても大師の秘宝は見つかりません。
もうそろそろ諦め様と考えてます。秘宝は誹謗です。 本当は無いのでしょ?行不足でしょうか?わはは~ 若さみなぎる280歳の妖怪でしたっ!!^^ ご訪問ありがとうございます。1月7日の誕生花です。 高潔で 清廉潔白 子沢山 貧乏家族 賑やかな日々 芹(せり)セリ科 花言葉は、貧乏だが高潔・清廉潔白 (2007年01月07日 09時48分58秒)
ちゅうなごん☆wさん
>こんばんは、またまたご無沙汰をお許し下さい。 いえいえお気遣いなく。 >「奈良時代は国家が公認する以外の人間が >僧侶になることを禁じました」とは >驚きでした・・・爆。 ----- そうなんです。 僧になると税が免除されます。 それを狙って、税逃れをするものが増えたため禁止されました。 ちなみに当時は正式に『得度』すると国歌から給料が出ました! (2007年01月07日 14時27分32秒)
とんぼ玉さん
>>「価値の無いことをすることに意味があるか?」 >>あるいは、もし人口のある程度の部分が行を行なったら経済活動は止まるのではないか? > >ものごとを行うのに、価値が無いといけないと考える時、重要なのはどんな価値判断基準によっているかであると思います。 >現代はその判断基準があまりにも物と金に偏りすぎていると思うからです。 >多くの人が行に入って、経済活動が止まると問題である、と考えるのも物や金に価値判断の基準を置いているからかも知れません。 >もちろん経済活動は大切ですが、価値判断の基準に心の豊かさや思いやり、やさしさといった物や金では代えられない基準が入らない限り、人々の欲求はいつまで経っても満たされないのではないかと思います。 >物や金ばかりに偏った間違った価値基準が横行する現在、正しい価値基準をとりもどすためにすべての人が行に入るのも良いかもしれませんよ。 ----- そのようなお考えもいいかも知れません。 むしろ今の時代にマッチしています。 行によって現代人の病んだ心を癒すことも出来ますね。 (2007年01月07日 14時32分00秒)
haseusagi062029141さん
>若い頃に、「寒中修行」で法華三部経を >朝6時から読んだことが・・・ >大寒の日から節分前まで。 >非日常の世界でした。 ----- すごい修行ですね。 どんな縁があってされたのでしょうか。 大変興味深いです。 私は法華三部経を読んだことはありません(汗) (2007年01月07日 14時33分54秒)
仰ること、とても良くわかります。
人はそれぞれに行場を与えられている、、、と聞いています。 私の場合は、良い絵を描くことが行??? お金儲けのためではなく。。。 偉そうに言ってしまいました! (2007年01月07日 16時23分40秒)
三人文殊さんこんばんは!!
テーマは「価値」 以前こんなことを聞いた覚えが。。 価値のない人生など存在しなく 全てのものにその価値が存在する。 価値があるから生きるのではなく。 生き抜くことに価値がある。。 そんな話をきいたことがあります。 生き抜いていきます。 (2007年01月07日 19時39分01秒)
自然がいっぱいjunさん
>心や頭の中を空っぽにして無になった時、初めて悟りが開けるのでしょうか? そうではありません。 真言宗の禅定(瞑想)は常に何かを思い浮かべています。 >いつも、いろいろなことばかり考えている私には、全然無理な話です。 >お坊さんの、澄んだ瞳、綺麗ですよね! ----- 私の眼は魚の腐ったようだといわれたことがあります(笑) (2007年01月07日 22時28分27秒)
なんぜんたろうさん
>確かに、達磨さんの言った「無功徳」や、古人の「雪を担って井を埋む」といった、無駄骨折りに徹することを肝に銘じるよう、刷り込まれております。 それが刷り込まれるというのがすごいですね。 極めてしまえば生きること自体が大いなる無駄かもしれませんね(笑) >タイなんて、かなりのかたが出家しますが、経済活動に差し障りがあるとは、聞かないですね。(笑) ----- 日本の仕事など失業者が結構いるはずですから、2割ぐらい活動していなくても、今と大差ない生活を維持できるような気がします。 (2007年01月07日 22時43分58秒)
なみがしらMさん
> 自分の外に 価値を見出そうとするなら > > 「行」も また欲の一部でしょう。 > > 自分のなかに「行」を行うなら > すべての人が「行」を行えるでしょう。 > > お釈迦さんもキリストさんも > > そう考えたと思います。 ----- キリスト教は自分の外に神を置き、自分と他者を分けますが、仏教は自分の外と内を分けるものではありません。外と自分はつながっているものです。 行は外へ向けて行うことが、自分にも振り向けられる。自分に対して行なうことが、他人にも振り向けられる。 そういうものだと思います。 (2007年01月07日 22時55分36秒)
三人文殊さん
>> お釈迦さんもキリストさんも >> >> そう考えたと思います。 >----- >キリスト教は自分の外に神を置き、自分と他者を分けますが、仏教は自分の外と内を分けるものではありません。外と自分はつながっているものです。 > >行は外へ向けて行うことが、自分にも振り向けられる。自分に対して行なうことが、他人にも振り向けられる。 > >そういうものだと思います。 ----- 外と内がつながっているように 私にとっては,釈迦もイエスもつながっています。 (2007年01月07日 22時59分23秒)
なるほどですね
経済用語で相対的価値形態という言葉があります まさに対価を求めるものです 経済も見返りの世界です うちの代々の教えは 粋ってもんは帰り(見返り)がないから粋なんだといわれます 私ナンゾは常に煩悩の固まり見返りを求めてしまい悩ましい所です (2007年01月07日 23時42分10秒)
あけましておめでとうございます。
今年もこの未熟者にご指導・ご鞭撻のほどよろしくお願いします。 早朝坐禅に出ているのですが、いつも起こしてくれる母親や行っていない友人に 「なぜ、坐禅を組むのか?意味があるのか?」 と聞かれて、恥ずかしいので「皆勤賞が欲しいから」とか「わからない」と言っていますが、よく考える機会になりました。 (2007年01月08日 00時17分56秒)
人生旅の案内人さん
>生まれてきた人はみな一生が行なんですよね。だから僧侶だけが行をしているのではなく、欲はあっていいもの。ただその欲が自分を向上させるために必要なものならどんどん持ってもいいと思います。 確かにその通りです。 ただ、普通に思われている欲を昇華させることが必要だと思います。 >欲がないなら最初から生きなくてもいいわけです。僧侶だって欲があるから僧になれたのではないのですか。 ----- それは違うと思います。 私の場合は流れに乗っていたら結果的に僧侶になりました。 欲があったらなれなかったでしょう。 (2007年01月08日 14時42分17秒)
吹雪深雪さん
>3年このお寺に通っても大師の秘宝は見つかりません。 >もうそろそろ諦め様と考えてます。秘宝は誹謗です。 それは残念ですね。 あきらめたら見つかりません。 >本当は無いのでしょ?行不足でしょうか?わはは~ ----- 秘宝は確かにあります! 一人でも多くの人が見つけられるとうれしいです。 そのために私は種を撒きます。 (2007年01月08日 14時50分15秒)
ロコロコ6820さん
>仰ること、とても良くわかります。 >人はそれぞれに行場を与えられている、、、と聞いています。 >私の場合は、良い絵を描くことが行??? >お金儲けのためではなく。。。 >偉そうに言ってしまいました! ----- いえいえ御期待しております! (2007年01月08日 14時56分24秒)
行とは、この歌の様に母親業でしょうか?!^^♪
ご訪問ありがとうございます。1月8日の誕生花です。 母子草 やさしい人の 響き有り いつも思うは 母有りて吾 母子草(ははこぐさ)キク科・別名、ほうこぐさ。 花言葉は、いつも思う・やさしい人 (2007年01月08日 15時03分45秒)
ヒロリン4147さん
>テーマは「価値」 >以前こんなことを聞いた覚えが。。 > >価値のない人生など存在しなく >全てのものにその価値が存在する。 >価値があるから生きるのではなく。 >生き抜くことに価値がある。。 > >そんな話をきいたことがあります。 > >生き抜いていきます。 ----- すいません。 先日の記事でしたね(汗) 人生の価値に重点を置いて話しているわけではありません。 行というのは意味のないことをするものということをいいたかったです。 (2007年01月08日 15時04分12秒)
雲雀君子さん
>経済用語で相対的価値形態という言葉があります >まさに対価を求めるものです >経済も見返りの世界です >うちの代々の教えは 粋ってもんは帰り(見返り)がないから粋なんだといわれます すごい教えですね。 最近はそんな言葉がなくなり、必ず見返りを求めるようです。 「粋」な人が増えれば社会は豊かになるでしょうね。 >私ナンゾは常に煩悩の固まり見返りを求めてしまい悩ましい所です ----- いえ、そうはお見受けしませんが(笑) (2007年01月08日 15時16分46秒)
三人文殊さんきょうはコメントありがとうございました。勘違い==!すみません。^^
行って自分には想像を絶することと思います。 あの中から自分と言うなにかがみえてくるのでしょうか。 わたしには無理です。。か?ね。m(v)m!/~~ (2007年01月08日 15時38分10秒)
四谷さいだあさん
>あけましておめでとうございます。 >今年もこの未熟者にご指導・ご鞭撻のほどよろしくお願いします。 > >早朝坐禅に出ているのですが、いつも起こしてくれる母親や行っていない友人に > >「なぜ、坐禅を組むのか?意味があるのか?」 > >と聞かれて、恥ずかしいので「皆勤賞が欲しいから」とか「わからない」と言っていますが、よく考える機会になりました。 ----- こちらこそよろしくお願いします。 道元禅師は「只管打座」といってただ、座ることを勧めています。 意味はなくても 「好きだからする。」 などというのもいいかもしれません。 (2007年01月08日 20時08分12秒)
なみがしらMさん
> 外と内がつながっているように > > 私にとっては,釈迦もイエスもつながっています。 ----- そこまでいわれると何もいえません。 (2007年01月08日 20時10分29秒)
吹雪深雪さん
>行とは、この歌の様に母親業でしょうか?!^^♪ > >母子草 やさしい人の 響き有り いつも思うは 母有りて吾 ----- よくわかりません(笑) (2007年01月08日 20時11分46秒)
ヒロリン4147さん
>行って自分には想像を絶することと思います。 >あの中から自分と言うなにかがみえてくるのでしょうか。 >わたしには無理です。。か?ね。m(v)m!/~~ ----- そんなことは無いと思います。 機会がありましたらぜひどうぞ。 (2007年01月08日 20時13分06秒) |