以前こんな日記を書きました。
書道教室の廊下展ー大口を叩いたものの
書いたのはこの文章です。
「空海聞く、法の物たるや妙なり、教の趣たるや遠し」
弘法大師 越州節度使に与うて内外の経書を求むる啓
書道教室の先生の指導もあって、何とか仕上がりました。
こうやって並べてみると、あまりの違いに愕然とする(ーー;)
ちなみに、これはマシな部分を切り取ってますから、全体を見たら
ショック死するレベル(ーー;)
書道に詳しくない人からさえ、
バランスが悪すぎる
と指摘を受けました
今年は特別に徳島駅近くのあわぎんホールで、私が通っている
カルチャーセンターの講習生の作品の展示が行われましたが、
さすがに、展示して衆人の眼に晒すのは無理(ーー;)
それはさておき、この作品を先生に添削してもらっている時に
「なんて書いてるんだろう」
と教室でつぶやき声が聞かれましたが・・・・
いきなり聞かれると判りませんね(ーー;)
調べてみたら焦った(ーー;)
「空海聞く、法の物たるや妙なり、教の趣たるや遠し」
「私空海はこのように聞いております。真理(法)というものは
誠に妙なるもので、物質として扱うことはできませんし、
教えというものはまとこに深遠なもので、その趣を言葉で
表しにくいものなのです。」
空海「性霊集」抄 (角川ソフィア文庫 G1-14 ビギナーズ日本の思想)[本/雑誌] / 空海/〔著〕 加藤精一/訳
なんか違わないか???
法→物→妙、 教→趣→遠 ですから
「法という物は妙で、教の趣は遠い」
と訳すべきで「物質として扱うことはできません」
などという訳はおかしいのでは?
意訳したら「仏教の教えは素晴らしいけど、なかなか難しい」
と思うんですけど、法と教の違いを伝えるのが難しい。
法ー仏教の本質的なもの
教ーそれを具体的に説いたもの
という感じですかね?
こんなこと書くと全部訳せよって加藤先生に言われるかも(*^_^*)
さて、この文章は、弘法大師が中国から帰国されるとき
船待ちをしていた越州で、経典などを追加で集めようとして
節度使にその協力を依頼した時の冒頭の一文です。
まず、
「仏教の教えは素晴らしいけど、なかなか難しい」
から始まって
まず、お釈迦さまや孔子が法を説いて回ったことを引いて、
教えの伝えることの困難さを書き、
その教えを得るために自分が非才ながらも教えの伝わっている
素晴らしい国、中国に遠い日本から大変な思いでやってきて、
努力したけど十分に収穫を得られていないことを話します。
次に節度使の素晴らしい人柄と威徳がいかに優れているか
また人民に慕われているかを、「孔子の弟子のようだ」と称え
その節度使の力によって人に役に立つ典籍を持ち帰れたならば
海よりも深く、山よりも高い恩を忘れず報いたい。
とまで歯の浮くような文章を書かれています。
この当時は美辞麗句が流行っていたとはいえ、ここまで書くかと
思われますが、1200年後の今日でもこの文章が
残っていることを考えれば弘法大師の想いは嘘では無かったと
言えるのではないでしょうか?
いかがでしょう?