十夜大法会の時期になりました。
アクセスも増えておりますので改めて書きます。
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十夜大法会は『無量寿経』に
「此土において善をなすこと十日十夜なれば、
他方諸佛国土において善をなすこと千歳に勝る」
とあることに基づいて旧歴十月六日より十五日までの
10日間行われた念仏会で、広く浄土宗、天台宗寺院で
行われていたと言われています。
『始まりは今から
600 年ほど前の永享年間、伊勢守平貞経の弟
貞国が、京都の天台宗の 真如堂で修したのがその始まりと
されています。
その後、明応4年(1495)に、鎌倉光明寺の第九世 観誉祐崇上人が、
後土御門天皇に招かれ、宮中で、阿弥陀経の講義をされ、
さらに真如堂の僧といっしょに 引声念仏を修し、 勅許を得て、
光明寺で法要を行うようになった』
(浄土宗ホームページ から引用)
注)赤字部分は私が変更しました。
この永享という年号が使われていたのは西暦でいえば、
1429年~1441年ですから、現在より590~578年前、浄土宗の
ホームページには赤字部分は550年とありますが、
600年の方が近いですね(*^_^*)
30年ぐらい前に作った文章をそのまま載せているんだろうか?
というのは穿った見方過ぎ?(*^_^*)
こうも書いてあります。
『この法会は、浄土宗で最も大切な経典の一つ『 無量寿経』の
巻下に、
「この世において十日十夜の間善行を行うことは、
仏の国で千年間善行をすることよりも尊い」と説かれていることに
よって、その教えを実践したもので、10日10夜にわたり
不断念仏を称えて別時の念仏を修し、阿弥陀さまのお慈悲に
感謝する法要であります』
(浄土宗ホームページ から引用)
元々、念仏は「南無阿弥陀仏」とお唱えすることによって、
極楽浄土へ生まれ変わるのが目的。
極楽浄土は阿弥陀如来様の浄土で、ありがたい世界のはず。
「この世において十日十夜の間善行を行うことは、
仏の国で千年間善行をすることよりも尊い」
ところが、この世で10日間修行する方が、仏の世界で
千年修行するよりも価値があるならば、
この世で修業したほうが良いのではないか?
極楽浄土へ往生してはいけないだろう(*^_^*)
さらに、その極楽に往生するためにわざわざ「南無阿弥陀仏」と
唱え続けるのはおかしくない?
元々の文章にはこうあります。
「汝らよ、ここに、廣く徳本を殖え、恩を布き慧みを施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・智慧、うたた教化し、徳をなし善を立てよ。心を正し意を正しくして、齋戒清淨なること、一日一夜すれば、無量壽國に在りて、善をなすこと百歳するに勝れり」
引用元)
親鸞聖人の著作に聞法するノート
『佛説無量壽經卷下』(後半)漢訳・国訳・現代語訳・梵文和訳対照(脚注付)
現代語訳とはいえ、難しいのでさらに解説が要りそうなので
再び引用させていただきます。
そなたたちはこの世界でひろく功徳を積み、恵みを施し、仏の戒めを破ってはならない。よく耐え忍んで努め励み、心を静めて智慧をみがき、次々に互いに導きあって、すすんで徳を積み善い行いをするがよい。心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の実践をしていけば
この世で一日修行するのが極楽浄土の百年より
勝っているということでしょうか?
この後も長い文章が続きますので、要約して書きます。
仏様の世界では、悪いことをするものがおらず、善いことを
するものばかりで自然に功徳を積めるが、この世では悪い事を
するものが多いので、自然に功徳を積めるわけではないので
努力精進しなさい。
という意味のようです。
念仏をお唱えしなさいとは書いてないですね(*^_^*)
十夜大法会というのは、不断念仏を中心とした法要に触れてもらい
仏縁を結んでもらうという方便ではあると思うのですが、
ぜひ、浄土宗・天台宗の方にご意見ををお伺いしたいところです。
さて、真言宗の十夜大法会については、
次回にお話しさせていただきます。
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この本に興味があります。