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2007年01月17日
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テーマ:統一運動(71)
カテゴリ:第6章
 「ベルリンの壁」が遂に崩れた!
 ゴルバチョフ改革の最初のテストは一九八九年八月にやって来た。果たしてソ連は、ソ連改革の評価基準に照らして、改革をどこまで実行するのであろうか? 果たしてブレジネフ・ドクトリンを破棄するだろうか? 共産党一党独裁に終止符を打てるだろうか? どれ一つ取っても、最初は誰も信じる人はいなかった。
 そこへ一九八九年八月、ポーランドのキシチャク首相が辞任して、反共・自由労組闘争を継続してきた自主管理労組「連帯」の指導者、マゾビエツキ氏が首相に任命されたというニュースが飛び込んできた。九月十二日には「連帯」主導の政権が樹立された。これは東欧圏最初の非共産党政権の誕生である。ゴルバチョフ書記長はこの動きに干渉しなかった。
 同年十月十八日には、ハンガリーが複数政党制と大統領責任制を導入し、国名をハンガリー人民共和国からハンガリー共和国に変更した。これは共産主義路線との絶縁を意味する。この動きにもゴルバチョフは干渉しなかった。
 ついに地軸が震える日が来た。十一月九日、「ベルリンの壁」が崩れたのである。東ドイツではハンガリー経由で西側へ脱出する国民が続出し、ホーネッカー政権は東欧を襲った自由化、民主化の波にあっと言う間に呑み込まれてしまった。そして、後続のクレンツ政権が直ちに「壁」の通行を解放したのである。
 一九六一年に東西ベルリンの境界線に築かれた壁は、それまで東西冷戦の象徴となっていた。このベルリンの壁が崩れたことは、共産圏崩壊の雪崩現象が始まったことを世界中に強く印象づけたと言ってよい。この地軸を揺るがす大事件は全世界の人々に深い感動と衝撃を与えた。共産主義滅亡など幻想であると考えていた人々も、これで再考を余儀なくされたであろう。
 驚くべきことに、ちょうどその頃、ゴルバチョフ書記長は東ドイツ建国四十周年記念行事のために東ドイツを訪問していた。彼は東ドイツの改革を促し、これに真っ向から反対するホーネッカー書記長を退陣に至らしめたのだ。
 十一月十日には、ブルガリアの共産党強硬派、ジフコフ書記長が辞任した。ここにもゴルバチョフ書記長の影響力が大きかった。
 チェコスロヴァキアではフサーク大統領、ヤケシュ書記長が退陣に追い込まれた。十二月一日、ゴルバチョフ書記長がローマ法王との会見のためにイタリアを訪問した際、彼は一九六八年にソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)の戦車によって無惨に蹂躙されたチェコスロヴァキアの政治改革運動、いわゆる「プラハの春」と呼ばれる改革運動の正当性を表明した。これは、ブレジネフの軍事介入を批判することで、ブレジネフ・ドクトリンの放棄を明らかにしたものである。
 ルーマニアの展開も劇的であった。チャウシェスク大統領の残忍な長期独裁政治に呻吟していたルーマニア国民は、連日の大規模集会で独裁者を追い詰めていった。十二月二十二日、大統領夫妻は官邸に押し寄せる群衆に恐れをなして、ヘリコプターで逃亡した。しかしすぐに逮捕され、二十五日のクリスマスの日に、わずか四十五分間の軍事裁判を受けただけで、直ちに処刑された。この場面が全世界に放映されたことは記憶に新しい。ゴルバチョフはルーマニアに対しても、かねてからソ連のペレストロイカにならって、改革に踏み出すよう求めていたが、チャウシェスク大統領は聞く耳を持たなかった。その結果が、大統領自身の無惨な末路となって現れたのである。
 十二月二、三日、地中海のマルタ島で開かれた米ソ首脳会談で、ブッシュ、ゴルバチョフ両首脳は、長きにわたって世界人類を恐怖のどん底に陥れてきた米ソ冷戦の終結を公式に宣言した。これで米ソ核戦争の悪夢は去り、共産主義ソ連の敗北が誰の目にも明らかとなった。
 多事多難な一九八九年であった。この一年間に連続して発生した事件は、ゴルバチョフ書記長の改革の意志が本物であり、彼が心底、ソ連と共産圏諸国の自由化、民主化を欲していること、そして自由世界の協助を必要としていることを明白にした。
 とはいえ、ゴルバチョフ書記長はソ連国内での人気は今一歩であった。保守派が反撃して、いつでも失脚する可能性があった。彼はまだソ連の全部ではない。改革に及び腰で、非常に強大な力を持つ軍部がそのままである。
 この時、文鮮明先生は、今度は彼に直接会って、彼に反対する保守派や虎視眈々と機会を狙う軍部の手から彼を保護することを決心されたのである。どうやって? 天の祝福を授けることによってである。ゴルバチョフが天運を持つように導くのである。それができる方は、文鮮明先生以外には誰もいない。
 ここで文先生は私を呼ばれた。そして、
「一九九〇年にモスクワで、第十一回世界言論人会議と、頂上級が集まる世界平和会議と、ラテン・アメリカ統一連合まで併せて、超マンモス会議を開催するようにしなさい」
 と命令されたのである。
 この巨大な天の摂理を抱いて、一九八九年が暮れた。





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最終更新日  2007年01月23日 17時57分42秒
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