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2018.05.26
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カテゴリ:競馬
突然だが、「平成時代で思い出に残るダービー馬は?」
と聞かれたら、皆さんはどう答えるだろうか?
今も入場レコードの19万人が見守る中で逃げ切ったアイネスフウジン、
柴田政人氏に悲願のダービー制覇をもたらしたウイニングチケット、
3戦目で藤田元騎手と共に一気に栄冠を掻っ攫ったフサイチコンコルド、
牡馬の強豪を撫できり戦後唯一の牝馬の覇者となったウオッカ、
そして3冠を完全制覇したナリタブライアン・ディープインパクト・オルフェーヴル…
さまざまな答えが返ってくるだろうが、私としては
平成4年のチャンピオン、ミホノブルボンを真っ先に挙げたい。
(ここからは当時の馬齢表記で進行します)
平成3年9月、中京競馬場。
3歳(当時)新馬戦に1頭の栗毛が鮮烈なデビューを飾った。
戸山為夫調教師が課したハードトレーニングをこなし、調教では
ずば抜けたタイムを出したことが評価され断然の人気を背負う。
1000mの短距離戦、ところがスタートで失敗し最後方からの戦いに。
しかし小島貞博騎手の手綱に導かれて、直線で猛烈な末脚を見せる。
(ちなみにこの時期は本来阪神競馬の開催時期だが、当時改装工事中だったため
中京で代替開催されていた)
見事な新馬勝ちを決めたブルボンは2か月後の府中の条件戦では
好位から抜け出して2連勝。G1戦線に頭角を現していく。
ブルボンの父は桜花賞を制したエルプスなどを送り出したマグニテュード、
そして母は地方で現役を送っていたカツミエコー。
血統面的にはそれほど大きなインパクトはなく、取引額は700万ほどだったという。
そんななかでブルボンを管理した戸山氏は、かねてからの
「鍛えて最強馬をつくる」という考えの下で当時まだ栗東トレーニングセンター
(滋賀県にあるJRAの調教施設)に開設して間もなかった坂路コースを
1日4本こなすという厳しい調教を与え、来るクラシックへの戦いに向けて
馬体を作り上げてきたのである。
12月、この年から模様替えした朝日杯3歳ステークス(※)
このレースも早めに抜け出して押し切り勝ちを図る。最後追い込んできた
ヤマニンミラクルの追撃をハナ差でしのぎ3連勝で3歳王者に輝き、
翌年のクラシックへ向けて大きく夢が膨らんだ。
この頃、私は高校1年生。入学直後の思いとはうらはらに
思うような高校生生活が過ごせずもやもやした平日を過ごしていた。
だからこそ苦悩から抜け出したい自分自身の姿と
ひたむきに走り続けるブルボンの姿をだぶらせ、静かにエールを送っていたのである。
(※注釈)1990年まで3歳戦線は朝日杯3歳Sと阪神3歳Sという
東西別の3歳王者を争うレースが組まれていた。91年からは前者は
牡馬・せん馬のみ、後者は牝馬のみで争う東西統一の決定戦に。
その後2001年の馬齢表記変更に伴ってそれぞれ
朝日杯フューチュリティS・阪神ジュベナイルフィリーズにレース名が変更、
2004年からは前者は再び牝馬の出走が可能になったがせん馬は不可になった。
2014年には朝日杯は阪神に施行場が移動し今に至っている。
年が明けて平成4年。
ブルボンは3月末の皐月賞トライアル・スプリングステークスに登場。
4か月のブランクや重馬場をものともせず他馬を突き放して4連勝。
ちなみにここでライスシャワーと初対戦となったが、ライスは4着で
またのちに短距離戦線で活躍し種牡馬としても多大な功績を残した
サクラバクシンオーも出走していた(結果は12着)。
そしてクラシック第1戦、皐月賞。
またも雨の降りしきる中山の馬場、この頃は評論家やファンの間では
「今日は厳しいんじゃないか…」という声も少なくなかったという。
そんな声をよそにブルボンはこの日も快走、2着ナリタタイセイ以下を
まったく寄せ付けず涼やかに先頭でフィニッシュラインを駆け抜けた。
5月31日、無敗での二冠制覇を賭けた日本ダービー。
かねてからの距離不安に加えて15番枠という外枠がここでも懸念された。
期待と不安が入り混じる中、決戦の時を迎えた…
ところが私は、リアルタイムでこの戦いを観ることは出来なかった。
当時学校生活のみならず学業も伸び悩んでいた自分はTV中継を見ることを
制限されていた。その上に発走時刻直前に兄に外での遊びにつき合わされ
二冠達成を目撃するのは阻まれてしまったのである(泣)
閑話休題。
そのダービー、ブルボンは持ち前のスピードであっという間に先頭に。
レース中も大歓声が止まない異例の空気の中、いつもと変わらぬ逃げ足で府中のターフを
駆け抜けていく。
その速さと強さは、実況アナもマイクを通じて驚きを表すほど。
小さな戦士は、鍛えられて同世代のNO1となった。
夏を挟んで迎えた秋、
京都新聞杯(現在はダービー前に施行)を逃げ切ったブルボンはいよいよ
無敗での三冠達成に挑むことに。しかしそのブルボンの前に思わぬ敵が立ちはだかる。
神戸新聞杯を逃げ切ったキョウエイボーガンが松永幹夫騎手(現調教師)の手綱で
ブルボンの逃げを封じた。残り600でようやくブルボンが先頭に立つが、
これを虎視眈々と狙いをつけていたのが、ダービーで4馬身離されて2着だった
ライスシャワーだった。
着差は1馬身半、快挙はあとわずかのところで打ち砕かれた。
「三冠は難しい!!」
当時MBSラジオで実況していた蜂谷薫アナのこの言葉が、今も深く脳裏に焼き付く。
たらればは禁物だろうが、もしいつものような逃げが出来ていれば、結果はまた
違ったものになっていたのかもしれない。
快挙は逸したが、ブルボンはこのあと古馬や海外の強豪への対決へ矛先を向けるが
待っていたのは度重なる故障という試練だった。さらに管理元の戸山氏がダービー制覇の
1年後に逝去した。そしてブルボンは復帰の夢を叶えぬまま現役を終え
種牡馬生活に入るが、サンデーサイレンスなどの超大物種馬などに押され
後継を送り出すまでには至らなかった。
2012年1月、主戦騎手だった小島氏が自殺でこの世を去った。
(親族の事情からくる厩舎の運営に限界を感じたといわれている)
その5年後の2017年2月、追いかけるようにブルボンも28年の生涯を閉じた。
さまざまな運命に振り回されながらもひたむきに逃げ続け、ライバルと戦い続けた
ミホノブルボン。栄光目指して駆け抜けた姿はまさに、
私にとっての
   「青春の名馬」
        そのものだった。
そんななかで、平成最後の東京優駿の日が来た。
激動の時代を生き、そして頂点に立つのはどの馬だろうか。
至高の150秒がまもなく、やってくる。
☆ミホノブルボン
父:マグニテュード
母:カツミエコー(母父:シャレー)
生産:原口牧場(門別)
馬主:(有)ミホノインターナショナル・原口圭二
調教師:栗東・戸山為夫⇒鶴留明雄⇒松元茂樹
戦績:8戦7勝
主な勝ち鞍…
1991年朝日杯3歳S
1992年スプリングS・皐月賞・日本ダービー・京都新聞杯
参考映像はこちら…
https://www.youtube.com/watch?v=1Zq_ultu3uI





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Last updated  2018.05.26 22:28:38



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