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聖徳太子と斑鳩の杜

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カテゴリ:聖徳太子の謎

 「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」には、宣字形台座上に結跏趺坐する中尊の左右に菩薩立像を配し、三尊をつつみこむような大光背をともなう一光三尊像と呼ばれる形式である。銘文は一行十四字、十四行からなる銘文が刻まれている。その文面は、

法興元卅一年、歳次辛巳十二月、鬼前太后崩、明年正月廿二日、上宮法皇、枕病弗念、干食王后、仍以労疾、並著於床、時王后王子等、及与諸臣、深懐愁毒、共相発願、仰依三宝、当造釈像尺寸王身、蒙此願力、転病延寿、安住世間、若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果、二月廿一日癸酉、王后即世、翌日法皇登遐、発未年三月中、如願敬造釈迦尊像并挟侍、及荘厳具竟、乗斯微福、信通知識、現在安穏、出生入死、随奉三主、紹隆三宝、遂共彼卮普遍六道法界含識、得脱書縁、同趣菩提、使司馬鞍首止利仏師造

 法興元三十一年、歳は辛巳に次る十二月、鬼前太后崩ず。明年正月二十二日、上宮法皇、病いに枕して念から弗。干食王后、仍りて以て労疾、並びて床に著く。時に王后・王子等、及諸臣と、深く愁毒を懐き、共に相発願すらく「仰ぎて三宝に依り、当に釈像の尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむことを。若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らむことを」と。二月二十一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐す。癸未年三月中、願の如く、敬いて釈迦の尊像并せて挟侍及び荘厳具を造り竟んぬ。斯の微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安穏に、生を出でて死に入らば、三主に随い奉り、三宝を紹隆し、遂に彼卮をし共にし、普遍の六道法界の含識、苦緑を脱するを得、同に菩提に趣かむことを。司馬鞍首止利仏師をして造ら使む。

 「法興元三十一年」の元号について、『帝説』では「法興元世一年」と読むとして、『書紀』では「仏法興隆」(『帝説』では「三宝建立」)の詔が出された推古二年と考え、この年は辛巳の年であろうとしている。しかし、現在考えられてる干支では、推古二年は甲寅であり、辛巳年は推古二九年(六二一)となることより、『帝説』の作者の誤謬であるとされている。また、「法興」は「伊豫国湯岡碑」や「元興寺縁起」にも記され、伴信友博士は「世」ではなくやはり「卅」と読むべきことを説き、法興寺の造営を創められるのに因んで建てた嘉号の如くであろうとして、正式な年号ではないにしても、ある意味において元号の嚆矢とされた。平子鐸嶺博士もこれに同調し、家永博士も私年号との見解をしめされ*9、大野博士も法興寺創建に因んだ年号であることは大方の見解であるとのべられる。また九州年号とする見解もある。
 従来「鬼前太后」とは、そのすぐ後に「上宮法皇」の語があることから、「穴穂部間人皇后」と考えられ、「干食王后」は太子妃の「善菩岐々美郎女」と考えられている。しかし、必ずしも「鬼前太后」や「干食王后」を太子の母や妃とする類例が他に見られないことより、「上宮法皇」を太子の呼称とするに疑問とする見解もある。
 内容は、上宮法皇が病に枕したので、王后王子と諸臣らは発願し、病を転じて延寿を祈念するが王后と法皇は登遐された後に「司馬鞍首止利仏師」によって造られたとある。
 この文章の一行十四字、全十四行からなり、四字句を基本とした構文は、中国南北朝時代の墓誌に通ずる規格性をもつといわれる。また、小林太市郎博士は、西脇侍が古いもので、これをもとに本尊と東脇侍を造ったと述べられ、下店静市博士は、本尊、両脇侍、台座、光背、天蓋などがすべてばらばらなものの組み合わせとの見解もあり、この考え方によれば一度期に完成したものではなく、法隆寺罹災により新たに像造したと考えるより、どこからか移設したものとも考えられる。
 また、年代を下げる説も依然根強くあり、この問題を要約すれば、1・銘文の書体が推古朝を降るもの。2・釈迦銘文にある「間人皇后」や「太子」の崩日が、他の史料と差違がある。3・「仏師」の語の使用例の初見が、正倉院文書、天平六年(七三四)の「造仏所作物帳案」を上限とする説。4・光背に描かれている蓮華文の使用時期の問題。5・両脇侍の不一致カ所における製作年代の疑義。6・「天皇号」の推古朝または天武朝の成立とする見解。7・金堂と本尊との大きさが比例していない等、七種に分類することができる。
 これに対して推古朝の像立と考える見解もあるり、栗原朋信博士は「天皇号」が、推古朝になかったとは証明できないと述べられるが、今日では福山敏男博士の説によって、像と銘の双方とも七世紀末の成立との考えがおおかたの見解となっているが、かならずしも決定的とはいえない。
 問題となる「法皇」(のりのみこ)の語も、「皇」は「王」に通用して用いる例がある。「王」の字がどの時点から「皇」字に変化したのか確認することはできないが、「伊予国湯岡碑文」が同時代の遺物であるならば、一方では「法王」の字句を使用していることから、推古朝代には併用されていたと見ることもできる。また「法王」が太子の呼称とするならば、仏教信仰に篤い人物として在世中から使用されていた可能性がある。

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最終更新日  2006年09月14日 12時15分38秒
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