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カテゴリ:聖徳太子の謎
『逆説の日本史』(2)
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何と!聖徳太子はノイローゼで温泉療養していたのではなく,水軍視察を行っていたかも知れないとは!?太子のイメージがずいぶん変わってしまいます・・・
皇族の閲兵なんて,明治時代以降のものをイメージしてしまいます・・ やっぱり「大化」以前にも年号って使われていたんですね・・「法興」はいわゆる私年号なのでしょうか?・・・ (大黒屋小平さん,お帰りなさ~い!!仕事と平行して聖徳太子関係の研究取材されていたんでしょうね・・これからもよろしくお願いします・・・) (2006年10月06日 10時27分33秒)
エドワード9395さんご無沙汰してます。
そうですね。一つの記録からでも、病弱説もあれば、武闘派説もあり、やはり謎の人物であることには間違いありません。 (2006年10月06日 16時35分24秒)
おひさしぶりです。
聖徳太子と僧恵慈と葛城臣(葛城臣というと蘇我馬子? でしょうか?)もしそうならノイローゼ説はありえませんよね。水軍視察のほうが武闘派のイメージです。 (2006年10月06日 21時00分00秒)
猫月夜16さん、ご無沙汰してました!
そうなんです、水軍は海外貿易には不可欠な存在でした。当然!その管理者は貿易の利益を享受するという計算がなりたちます。 ただ、馬子が葛城臣かどうか定かではありません。しかも、日本書紀を見ると太子が摂政だったころ、軍隊は動いていますが、軍隊は渡海していないのです。 (2006年10月06日 22時17分58秒)
下記のアドレスのページ,ここでも年号について述べられてまして,同じ文献が引用されていますね・
このサイトは昔から好きなんですよ。 ところどころ,ぶっとんでて・・・ http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nengou.html (2006年10月06日 22時23分13秒)
エドワード9395さん、貴重な情報ありがとうございます。
確かに私年号として、「法興」が使用されていたとおもいますが、私は九州王朝が使用していたというよりも、蘇我氏が使用していたと見ています。 ということは、法隆寺の釈迦像は元々は法興寺にあったが、何らかの理由により法隆寺に移された。それは法隆寺が全焼してしまった後だと推理しています。 (2006年10月06日 23時00分11秒) |