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聖徳太子と斑鳩の杜

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カテゴリ:聖徳太子の謎
『逆説の日本史』(2)

「伊予国風土記」

「法興六年十月、歳は丙辰に在る、我が法王大王と恵慈法師及葛城臣と、夷与の村に逍遥す。正に神井を観、世に妙験なるを歎ず。意を叙べむと欲て、聊に碑文一首を作る。
惟みれば夫れ、日月は上に照らして私せず、神井は下に出でて給せずということ無し。万機は所以に妙応し、百姓は所以に潜く扇ぐ。若乃ち照給に偏私無し、何ぞ寿国に異ならむ。華台に随いて開け合い、神井に沐して疹いを●す。
●ぞ花池に落ちて弱きに化ることに舛わむ。窺いて山岳の巌●を望み、反に平子の能く往きしことを冀う。椿樹相●いて穹窿り、実に五百の蓋を張れるかと想う。朝に臨めば鳥啼きて戯れ●り、何ぞ乱ぐ音の耳に聒しきことを暁らむ。丹花葉を巻きて映え照り、玉菓葩に弥ちて井に垂る。其の下を経過し、以て優遊す可し。豈悟らむや、洪いに霄庭に灌ぐことを。意と才と拙く、実に七歩に慚ず。後の君子、幸いに蚩咲する無かれ。」


この風土記は、法隆寺釈迦像光背の銘文と同じく「法興」の元号が書かれています。
この元号の記録は他に例がなく、貴重な資料といえます。
 井沢氏は「逆説の日本史」で聖徳太子は温泉に行っているので、「病気」と考えていますが、上原和氏『斑鳩の白い道のうえに』では、伊予水軍の根拠地であることを指摘してます。
その当時、水軍は新羅政策にとって重要な存在であったことは、云うまでもありませんが、伊予は法隆寺の寺領としても14カ所もあったことを考えれば、聖徳太子→伊予→水軍の視察という構図に無理はないと思います。大笑い

しかし、この風土記は意味不明な箇所が多くて、理解するのに困難ですので詳説は避けますが、仏教的要素も諸処に書かれ、また中国の漢詩とは少し違った面持ちがあるところがなんとも言えない雰囲気をかもしだしています。びっくり

ただし不思議な文章であることには変わりありませんね。ウィンク



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最終更新日  2006年10月06日 22時51分28秒
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 Re:太子は水軍を持っていた?!(10/05)   エドワード9395 さん
何と!聖徳太子はノイローゼで温泉療養していたのではなく,水軍視察を行っていたかも知れないとは!?太子のイメージがずいぶん変わってしまいます・・・
皇族の閲兵なんて,明治時代以降のものをイメージしてしまいます・・

やっぱり「大化」以前にも年号って使われていたんですね・・「法興」はいわゆる私年号なのでしょうか?・・・

(大黒屋小平さん,お帰りなさ~い!!仕事と平行して聖徳太子関係の研究取材されていたんでしょうね・・これからもよろしくお願いします・・・) (2006年10月06日 10時27分33秒)

 Re[1]:太子は水軍を持っていた?!(10/05)   大黒屋小平 さん
エドワード9395さんご無沙汰してます。
そうですね。一つの記録からでも、病弱説もあれば、武闘派説もあり、やはり謎の人物であることには間違いありません。
(2006年10月06日 16時35分24秒)

 水軍視察!なるほど!!   猫月夜16 さん
おひさしぶりです。
聖徳太子と僧恵慈と葛城臣(葛城臣というと蘇我馬子?
でしょうか?)もしそうならノイローゼ説はありえませんよね。水軍視察のほうが武闘派のイメージです。 (2006年10月06日 21時00分00秒)

 Re:水軍視察!なるほど!!(10/05)   大黒屋小平 さん
猫月夜16さん、ご無沙汰してました!
そうなんです、水軍は海外貿易には不可欠な存在でした。当然!その管理者は貿易の利益を享受するという計算がなりたちます。
ただ、馬子が葛城臣かどうか定かではありません。しかも、日本書紀を見ると太子が摂政だったころ、軍隊は動いていますが、軍隊は渡海していないのです。
(2006年10月06日 22時17分58秒)

 ここでも!   エドワード9395 さん
下記のアドレスのページ,ここでも年号について述べられてまして,同じ文献が引用されていますね・
このサイトは昔から好きなんですよ。
ところどころ,ぶっとんでて・・・

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nengou.html (2006年10月06日 22時23分13秒)

 Re:ここでも!(10/05)   大黒屋小平 さん
エドワード9395さん、貴重な情報ありがとうございます。
確かに私年号として、「法興」が使用されていたとおもいますが、私は九州王朝が使用していたというよりも、蘇我氏が使用していたと見ています。
ということは、法隆寺の釈迦像は元々は法興寺にあったが、何らかの理由により法隆寺に移された。それは法隆寺が全焼してしまった後だと推理しています。
(2006年10月06日 23時00分11秒)


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