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2006.02.23
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カテゴリ:日々のいろいろ
批判するのは別に内田氏が嫌いなわけではなく、むしろ内田氏に「ほう、こんな奴がいたか」と言われ「いやははは、それほどでも」とか言いつつはにかんでみたいというヤらしい妄想の賜物である(なんか前にも書いたぞ)。万が一そんなシチュエーションに遭遇したら、私は小娘のように(気持ち悪い比喩で失礼)舞い上がって身悶えし、会話にならないであろうことは疑い得ないのである。

内田氏は、こんなことを言う。

「私が提言するのは、ロジカルで音韻の美しい日本語の名文をとにかく大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写するという訓練を幼児期から行うことである。「これはどういう意味か」とか「作者は何を言いたいのか」とか「この『それ』は何を指すか」とか、そんな瑣末なことはどうでもよい。名文には名文にしかないパワーがある。それに直接触れるだけで読み手の中の言語的な深層構造が揺り動かされ、震え、熱してくる。そして、論理的思考も、美的感動も、対話も、独創的なアイディアも、この震えるような言語感覚ぬきには存立しえないのである。」

氏は、この部分を「この文章の中で私がいちばん重要だと思う」箇所だとは思っていないために、この部分を取り出して批判するのは卑怯であるかもしれない。こんな世迷言を最近再び言い広めたのは、内田氏ではなく斎藤孝氏であろうから、むしろそちらを批判するべき、というのも正しい指摘である。が、斎藤氏は批判する気力も起こらないし、批判することによって斎藤氏に認知されたいとも思わないのでそちらにはしない。

本題に入りたい。
引用した内田氏の言葉はあまりに粗雑過ぎる。
「名文」という語が気になって仕方がない。何をさすのか。ぜひ具体例を示してほしかったところである。
「名文」とは「すぐれた文。また、有名な文章。」である(大辞林)。場合わけして考えてみる。
(1)「名文=すぐれた文」である場合。
当然のごとく、「名文」は、誰かが「名文」であると認定したから「名文」なのであって、無条件な「名文」などはありえない。(誰か、とは個人であるとは限らない。古典的な名文は無数の人間によって認められたから名文として今に残る)
誰かによって認定されたものが「名文」であるなら、認定者のバイアスは当然ある。「教育勅語」が暗誦すべき名文=聖典として強要された時代もあった。「これは名文だから暗誦せよ」という教師の言葉はそれとなんら代わることがない。文を暗誦することは、その文に含まれる思想を血肉化させて自分の口から語らせることである。「望ましい日本人像」を植えつけているということ、それで世の中がうまく言っていた明治時代や江戸時代に逆戻りすることと同義である。(似非宗教家がそれをすると「洗脳」と呼ばれる)。「これは名文だから暗誦せよ」という教師の言葉に対して、「この文は嫌いだから私は暗誦しない」という子どもの言葉に込められた思いは、果たして正しく受け止められるのだろうか?「暗誦の訓練」こそが正義だと信じられている場において。

もう少し譲って。「ロジカルで音韻の美しい日本語の名文」とある。
その「日本語」に方言や外国人がたどたどしく話す「日本語」が果たして含まれているか、という議論は少し置いて、「日本語」は不問にしたい。
「“ロジカル”または“音韻の美しい”ものが“名文”である」と言っているのか、「“ロジカル”かつ“音韻の美しい”ものが“名文”である」と言っているのか、「“名文”の中で、特に“ロジカル”または(或いはかつ)“韻律の美しい”ものが暗誦するに値する」と言っているのかが判然としない、という点も問題にしない。
議論したいのは、そのような「名文」をちまちまとほじくり返すことが「瑣末なこと」であり、「どうでもよい」と述べている点である。
日本語の音韻の美しさは頭韻脚韻のようなパターンの美ではない。少なくとも私はそうは理解していない。日本語で脚韻を踏むとつまらない。それどころか馬鹿にされているのかと受け止められかねない。かっぱかっぱらった かっぱらっぱかっぱらった、というようにユーモアの表現になるのである。これでいいのならそれで結構だが、子どもにとっては早口言葉の暗誦と違いがないであろう。
音数律も同じである。音数律がノる原理はつまるところラップと同じなので、日本語ラップの暗誦をしましょう、で果たしてよいのか。それでは困るから和歌を学ぶのである。
むしろ、そのような規則的な韻をずらしたところにある、もっと微妙な音の遊びが日本語の音韻の本質であろうと思っている。それをよいと思うためには、その心の根底に日本的なものへの理解が必要である。「名文」の持つ「名文性」は自明のものではないのである。そして、それを解き明かすためには論理と「瑣末」な説明が必要なのである。
「ロジック」の方も同じである。ロジックを面白いと思うためには論理的な説明が必要である。論理的な説明をしなくても分かってしまうような「ロジック」しかない文は、果たして名文か?
かくして、特に日本語の文の場合は、細かく教えてもらって初めて「名文」であることに気づくというケースが多いと考えられる。(そんなネタには事欠かないから、そのうち披露します)。
まとめると、「名文=すぐれた文」と定義するならば、内田氏の論で言えば、子どもがその「名文」のすぐれた部分を子ども自身は納得する必要が特にない、ということになる。なぜなら、教師はその文を「名文」と思っているのだから、それでよいのである。(この発想、小泉首相に似ている。)

教師は自分が「名文」であると思う文を子どもがすらすらと暗誦していたら、わけもなく、何事かをなしたような気がして安心するのである。そして親もまた同じである。
「学習」の成果が目に見えて安心できるから、暗誦教育は大変に受けがよい。それによってどのようなメリットがあり、どのようなデメリットがあるのかを分析することなく。

誰にとっての「名文」か、という問いは、(2)「名文=有名な文章」と定義する場合にも有効である。
「幼児期から行うことである」という記述から、幼児教育と初等教育あたりを念頭に置いていると仮定する。(この表現もまた、教育のことを考え慣れていないことを露呈している。まさか、高校の国語においても音読暗誦書写だけやっておればよいのだ、と言っているわけではないだろう。さすがに斎藤氏は教育学をかじられているから、小学生までしか相手をしない。)
例えば、「これは隠れた名文だから暗誦しましょうね」と言って「紫式部日記」の冒頭なんかを暗誦したとする。教師は褒め称えるかもしれないが、親はまず知らないから、喜び勇んでキッチンで暗誦する子どもを見て親は冷や汗をかきつつ力なくほほえむ。これは、暗誦教育の失敗の図である。子どもにとって一番のよりどころである親が知らない文章のどこが名文か、と子どもは思うだろう。そういうわけで、親も知っているというのが実は「名文」の第一条件でなければならない。
「名文」とはつまるところ、その子どもの親にとっての「名文」である。「名文」の暗誦に心動かされているのも主として親や教師である。「名文」の暗誦教育が行われている場は、大人が「名文」を読んで感じるような「名文にしかないパワー」「読み手の中の言語的な深層構造の揺動」を子どももまた感じ取っているかどうかについての評価は、本来的に必要とされていない空間なのである。
暗誦の教育的価値自体は極めて高いことは論ずるまでもないことだと私も思っている。本論で述べていないだけである。だが、だからといって、暗誦すれば全てよしという考えは大変危険である。

ならば、子どもに言葉の力をつけるには何をすればよいのか。
そもそも、暗誦教育は、学校教育という大変制約の多い環境で実施できるように作られたメソッドである。いわば苦肉の策である。決して最上の策の提案ではない。

幼児、児童の言葉の力を伸ばす最大の栄養は、子どもを取り巻く人との好意的な雰囲気での会話に他ならない。子どもの安全を守る最大の策はGPSではなくおばあちゃんの送り迎えであるのと同じである。しっかり子どもの話を聞いて、きれいな言葉で話しかけることに勝るものはない。それに比べたら暗誦など、親が褒めるきっかけを作るコミュニケーションの潤滑剤にしか過ぎない。

子どもの言葉の力の衰退は、ゆとり教育にも相当の原因があろうが、本当の原因はまともな日本語を話す人とコミュニケーションをした経験がないからである。昔はたとえ親は馬鹿でもその辺に誰か賢い大人がいたであろう。また、老人は無条件で尊敬されていたからフガフガと言っているだけで子どもはすごいなと思っていたのかもしれない。

(以下、思うところあって少し削除しました)






Last updated  2006.03.12 00:23:32


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