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T立R高校B部

T立R高校B部

メッセージ/幾田 宴

メッセージ         


 授業中、夢と現実の境を漂ってうつらうつらしていると、すっ…すっ…と断続する音が聞こえてきた。私はこの音を知っている。頭上すぐ近くで鳴るこの音は、炭酸カルシウムのチョークが黒板の上を滑る音だ。
 寝てしまってはいけない。今は授業中だった。目蓋をこじ開けてゆっくり体を起こそうとする。音は尚も、かなりの速度で続いている。
 薄く開けた目に映ったのは、これまでいた教室の風景。自分でも信じられないが、私は随分と長い間眠ってしまっていたらしい。窓からは目に痛いほどの西日が射しており、どの席もすっかり空になっていた。唯一私以外の人間が―見たことがあるような気もする、制服姿の男子が―黒板に熱心に何事かを書き込んでいるだけだ。
 まだ頭のぼうっとする私は、男子の手によって描かれていく無数の「線」を、ただ黙って見ていた。黒板一面を覆い尽くさんとする勢いで刻まれている真っ直ぐな線の軌跡は、荒々しく乱暴な腕の動きからは思いもかけず緻密に計算し尽くされていて、それ程時間を掛けずに全体像が露わになっていく。
 やがて数多の線の下から現れた、美しく洗練されたその「文字」を、私は呆然と口にする。
「……………………………『う』?」
「起きろおぉっ!山崎いぃ!」スパァンッ!


 鳴り響いた景気の良いハリセン音に、思い切り肩を震わせた。一瞬で目が醒める。本当に、三村先生のハリセンの餌食になったのが、斜め前隣りの席の生徒で助かった。
 目だけで辺りを見回すが、私が眠る前とは状態が殆ど変化していない。板書は消されて新しい事項が追加されているが、教科も単元も同じ。生徒もいつも通り着席して授業を受けている。時計に目を走らせると、記憶にある時刻からまだ三分しか経っていない。
 夢を見ていたことは間違いない。不思議な、夢だった。
 「う」って何だろう。何かの言葉の頭文字だろうか。それより彼、何処かで見た事があるような。
 はたと気付くと、ノートには板書の写しではなく、大量の「う」が書かれている。急いでその落書きを消して、寝ていた分を取り戻すべく神経を板書に集中した。その内昼寝をした事さえ忘れ、そのまま授業風景に没入していった…。


 すっ…すっ…すっ…すっ…
 チョークの音が聞こえる。赤く染まった教室で、私は机の一つに突っ伏している。
 だるい上体を上げると、見慣れた学ランの背と広い黒板。全体が乱雑な白い直線で満たされている。
 教壇の上で自在に踊る男子の腕に、微かな違和感を覚えた。これはきっと、前回とは似て非なるものだ。そう、前回。これはきっと…夢の続き。
 出所不明の直感を信じて、しばし黙って事の成り行きを見守っていた。喋ってはいけない気がしたし、口を開いた所で声など出ないことも勘付いていた。
 この夢は、そういう空間なのだ。
 そうして彼の思惑通り、沢山の線の上にぽかんと、一つの文字が浮上する。私はその文字を、それだけを呟く。
「……………………………『し』」
 彼は振り向いて満足げに頷いた。顔は夕日の陰になって、見えない。


 目覚めると、そこは自室の学習机だった。英語の長文が書いてある教科書と、全訳が不自然な所で途切れたノートが置いてある。勉強中に眠りに落ちたらしかった。
 顔をこすって、へばり付いた消し屑を落とす。こすりつつ回想…夕方の教室、黒板、学ラン、うつぶせ、直線、白く埋まり、文字、「し」、これだ。
 思い出した。昨日の五時間目、私は夢を見たんだ。似た夢を。確か文字は…「う」。
 ノートの隅に書いてみた。「う」と「し」が中途半端に付かず離れずの位置で、面倒臭そうに転がっている、ように見える。最初が「う」で、今のが「し」。繋げると、「う・し」。
 牛?
 いやいや、「牛」って。思い当たる節が無い。うちは酪農営んでいないし。これ以外の、何か暗号的な読み方があるのかもしれない。それにここで夢が終わるのかも分からない。また続くのかも…。
 目の端を素早く通り過ぎるものがあった。気付いて目を遣ると、何と先ほど書いた二つの文字がそっと動き出している。
「きゃあ!」
私は驚いて、背中から椅子ごと倒れ込んだ。したたかに体を打って、しばらく動けない。数十秒後にようやく痺れが取れてゆっくり起き上がることが出来た。
 恐る恐るノートを覗き込むと、当然の如く先ほどと何ら変わらない位置で、二つの文字がやはり微妙な間隔を保っていた。
 分かっている。夢が現実をどうこうする筈がない。それでも考えてしまうのは、ちょっと変わったこの夢が、ルーチン化したつまらない日々を変えてくれればと、冗談混じりに期待しているからだ。要は、面白ければ推理ごっこでも不思議の国でも、なんでも良い。
 そうはいっても、いつまでもこねくり回していたらきっと夜が明けるので、今目の前の予習から逃げるのを止めて、さっさと片付けて寝てしまおう、と思った。


 見ている。ずっと。
 雨の日も。風の日も。
 授業中。休み時間。部活動中。登下校。
 ただじっと、執拗に、射抜くように、見詰める双眸。
 ひっそりと繰り返される行為に、相手は全く気付かない。
 それで良い。そのまま、何も知らずにいれば良い。
 でもまあ、相手を尊重して、少々ヒントをあげよう。
 最後の最後には、自分の置かれた事態の断片が判るように…。


 三度目のその景色に、私はもう戸惑いはしない。
 きっとまたうたた寝をしてしまったのだろう。赤光に満ちた部屋、濃く張り付いてしまったような物の陰。人の居なくなった淋しげな夕方。チョークで刻み込む少年。
 直線が重なり合う。徐々に密度を増すそれは、やがて一文字を浮かび上がらせるのだろう。私にはまだ、その全体像が見えない。
 少年は変わらずこちらに背を向けて、何も語らず作業を続ける。腕の動きが、前よりも微かに速まっている、気がする。そのことが少年の内に秘めた高揚の顕れであることは、現時点の私には気付けるはずもない。
 眠っている間の朦朧とした頭で、懸命にこれまでの二回の夢を思い出す。「う」、「し」、そしてこれからあの男子が描く「何か」。まだ続くかもしれないし、これで終わりなのかもしれない。どう読むのかもいまだに分からない。私の心は、少しの不安と多くの好奇心で満たされていた。未知との遭遇。そんなSFがかった言葉が思い浮かぶ。きっと初めてUFOを見た人も、こんなざわめくような気持ちを味わったんじゃないか。
 すっ…すっ……………かつん。
 男子がチョークを置いた。一瞬自身の手で描いた作品を確認した後、こちらを見もせずに、不確かな足取りで無気力に教壇を降り、静かに戸を閉めて出て行ってしまった。私は一人、日の沈む教室に取り残される。彼の居ない教室でそれを口に出す必要があるかは知らないが、私の唇は自然と文字を読み上げた。
「……………………………『ろ』」


 「う・し・ろ」?


 瞬間、眠りから覚醒した私は、敏捷性をフル活用して勢い良く起き上がった。頭は完全に冴えている。そのはずなのに、何故だろう。ここは夢と全く違わぬ、夕方の教室ではないか。空っぽの教室には夕日色のフィルタがかかり、何もかもをおぞましく、血の色に染め上げているようだ。
 後ろ。
 何か息衝くものが在る。無理に知ろうとしなくても、明らかな気配が在る。私の本能が、それは危険だと警鐘を鳴らしているが、逃げようとしても同じなのだ。
 だからせめて、後ろを見てはいけない。
 「教えたでしょう?」
 低く、甘美に掠れた声が囁く。その声音は子供におとぎばなしを読んであげる親のようであり、また貴婦人を誘惑する男娼のようでもあり。私は今までの自分を後悔した。この声はきっと間違いなく、私の世界を終わらせる合図だったから。
 「ぼくは後ろに居ると」
 黒い袖に包まれた腕が、首に絡み付くのを感じた。飾りボタンが血の赤を反射して、不吉にぎらぎらと輝いている。窓辺のカーテンがはためく音さえ、遠く聞こえる。
 「ぼくは、いつもきみの後ろで見ていると」
 耳に触れるほど傍で、生の息遣いが伝わってくる。嫌でも判る。これが現実。お化け屋敷のスタッフでも、夢に巣食う殺人鬼でもない、彼は生身の人間。
 だから私は、首に冷たい鋭いものを押し付けられた私は、この後………。
 ただ、ちょっとした非日常が起これば良いと、そう思っていたのに。日常が揺らがないほどの刺激があれば良いと、その程度だったのに。嗚呼、人生は何て、


理不尽。




















                          メッセージ 了


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