2006/12/07(木)09:37
世界が英語一極集中に向かっているなんてとんでもない
(2006年4月掲載分)
昨年、スペインで開催された世界マスターズ陸上選手権に日本選手団の総務として参加した。次期開催地を決定する会議で、ぼくは日本に与えられた3票のうち1票をもって臨んだ。2009年の候補はデンマークのオルフスとフィンランドのラハティ。招致合戦も大詰めに入っており、会議の数日前にオルフスからもラハティからもパーティーに招待された。
その立食パーティーの場で、実にさまざまな国の選手と話す機会に恵まれた。なかでもアフリカの選手たちと話すことができたのは、まさに感激だった。ちゃんとフランス語をやっていて本当によかったと思う。同行した妻の話によれば、その場にいた日本選手たちが「何を好き好んでこんな連中と」というように、半ば差別的な視線をぼくに向けていたそうだ。
それはともかく、フランス語に関心を示さない人たちは、そもそもアフリカの人たちと話をしたいとは思わないのだろうか。もちろん、英語が話せる人もたくさんいるが、アフリカには広大なフランス語圏が広がっている。貧困にあえぐアフリカの国々には日本ができること、日本にしかできないことが山ほどある。
日本人にしてみれば、相手が英語を話してくれればという期待があるのかもしれないが、もともとおびただしい数の部族語があって、フランス語を共通語にしているのだから、そのうえに英語を要求する方がムリというものである。
英語ができれば困らない南アフリカでさえ、黒人との友好をはかるため、現地語のなかでもいちばんよく使われているズールー語を習う白人が増えているという。
ことばとはそういうものだ。強いものが弱いものを飲みこむというものではない。そういう幻想はホリエモンの世界だけにしてほしい。経済とは儲かるかどうかではなく、どんな生活がしたいかというところから出発すべきものである。言語だって同じこと。何語を覚えるのがいちばん有利かということではなく、覚えた言語で何をしたいかが問題なのだ。
会議にはスペイン語、フランス語、英語の同時通訳がついた。ぼくが感激したのは、これだけ通訳をつけているのだから、わからない人は放っていきますよというのではなくて、「もう少しゆっくり話してあげた方が、みんなが理解して納得したうえで議論や採決ができるのではないか」という意見が出たことだった。だれも、できない者を突き放そうなんて思っていない。英語ができないと乗り遅れるなんて思わず、もう少し気持ちにゆとりをもって勉強したらどうだろう。相手はちゃんと待ってくれているのだ。みんなが英語というのではなく、役割分担を考えたらいい。ぼくのように、英語はからきしダメでも、スペイン語やフランス語ならモノにできた人間もいるのだから。
結局、会議とは関係のない話ばかりになってしまったが、投票結果だけは書いておこう。ぼく自身フィンランドには二度行ったことがあり、フィンランド語を勉強していることもあって、代表団との話題には事欠かなかった。そうなるとどうしても情が移る。おいしいワインを用意してくれたオルフスには申し訳ないが、ラハティに投票することにした。開票の結果、ラハティが圧勝し、2009年の世界マスターズ陸上選手権はフィンランドのラハティに決定した。
数日後、フィンランドの代表に偶然街で会った。「おめでとう。必ず参加する。それと一言。あと4年あるから、それまでにはフィンランド語がきみより上手になっているからな」
堂々と宣言してしまうと、われながら冗談には聞こえないから不思議である。
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