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売場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2019.12.09
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ネットメディアFASHIONSNAP.COMが選ぶ今シーズンの東コレブランドTOP10がサイトで発表されました。私にも投票アンケートが回ってきたので3ブランドを推薦しました。以下はサイトにアップされた文章(一部修正しました)です。



​1位を獲得したのは東京ファッションウィーク初参加のトモ コイズミ(TOMO KOIZUMI)。1988年生まれの小泉智貴は大学在学中の2011年にブランドを立ち上げ、「ここのがっこう」にも通っている。主に国内でコスチュームデザイナーとして活動を広げてきたが、世界的トップスタイリストのケイティグランド(Katie Grand)からSNSを通じて声が掛かったことでニューヨークへの切符を得た。マークジェイコブス(Marc Jacobs)からもサポートを受け、2019年秋冬から2シーズンにわたりニューヨークファッションウィークでショーを開催。一気に国内外から注目を浴びる存在となっている。

東京でのショーは、日本ファッションウィーク推進機構による招聘プログラムとして実現。モデルに冨永愛や美佳、そしてKōki,といった日本のトップモデル10人のドリームチームを組み、円形の舞台のようなステージでシグネチャーであるオーガンジーのラッフルドレス10体を発表。一体ごとに照明と音楽を変え、モデルそれぞれがボリュームのあるラッフルを自由に操りドラマティックに舞う姿が印象的なコレクションとなった。ファッションの夢を与えるような色彩と個性の表現が評価され、アンケートでトップの票を獲得した。
(FASHIONSNAP.COMの記事より抜粋)

     *     *     *    

このところ売れ筋っぽい平凡な大人の服がたくさん登場するようになってしまった
NYコレクション、その中でこの迫力あるドレスは非常に目立ちますよね。来年のアカデミー賞授賞式やメトロポリタンミュージアムのガラパーティーで彼のデザインするドレスを着て現れる有名人はきっといるはず。小泉さん、よくぞ東コレに参加してくれたと思います。

毎日ファッション大賞ではこれまでなかった選考委員特別賞を初受賞。その表彰式のステージ挨拶で、NYコレ発表のチャンスをくれた一人はデザイナーのマークジェイコブスと小泉さんは感謝を述べてました。どういう経緯でマーク自身が彼にチャンスを提供したのか詳しく知りませんが、マークは立派だなあと思います。

マークで思い出すのは2011年3月の大震災の直後。私が出戻った松屋では、当初4月20日に予定していた春のファッションプロモーションを自粛せざるを得ないかどうか社内で検討していました。しかし、趣旨を切り替えて全館あげて被災地救済チャリティーにしようじゃないかと大震災の1週間後に決め、内外のお取引先やブランドにチャリティーグッズの提供をお願いしました。

このときマークはパリコレ直後だったのでまだパリに滞在中でした。ルイヴィトンのオフィスで松屋の要請を受け取った彼は、ルイヴィトンのショーで発表したばかりの新作1点ものバッグにサインを入れ、チャリティーオークションのために送ってくれると連絡が入りました。

そして、ニューヨークに戻ったマークは、次に自身のブランド、マークジェイコブスのバッグにもサインを入れて4月20日に間に合うよう送ってくれたのです。バッグがニューヨークから届いたときの松屋営業本部、その場にいた社員たちが大喜びしたのをよく覚えています。協力を要請してもなしのつぶてのブランドがあった中で2つのブランドでチャリティーに協力してくれたマーク、私の中にあったマーク像が崩れました。

マークジェイコブスがパーソンズを卒業して最初に就職した会社はオンワード樫山USAでした。その後、ペリーエリス本人が急逝したあとペリーエリスのデザイナーに抜擢されました。ちょうどその頃、私はニューヨークに出張、京阪神地区で開催する「ワールドファッションフェア89」でショー発表してくれないかとマークに打診、1989年11月彼はペリーエリスのデザイナーとして来日しました。

同イベントのパーティー会場にソニアリキエルが現れたとき、マークは私に「あの鼻をかじってやりたい」と。ソニアの鼻はまるで絵本に出てくる魔女のように高く大きかったからマークは冗談を言ったのでしょう。このときのやんちゃ坊主の印象は被災地チャリティーでガラリ変わりました。

ミラノのアルマーニも自社のシアターを日本の若手デザイナーにコレクション発表の場として提供していますが、世界のトップデザイナーは「メンター」の役割を果たしています。日本の若手が世界各地のトップデザイナーの支援をもらって現地でコレクション発表できる、ありがたいですね。







Last updated  2019.12.09 14:34:36
2019.12.03
(閉鎖が決まっているバーニーズニューヨーク)


たまに開く個人的な勉強会「火曜会」、銀座のイタリアンレストランで久しぶりに開催しました。今回はいつものメンバーに加えてゲスト数名も参加、冒頭は私から10月のニューヨーク視察で感じた時代の変化、流通業の将来について話しました。要約すると....。

1)化粧品のメインフロアからの移設は失敗する
  ある程度トラフィックの必要な化粧品関連の売場を地下あるいは地上階に移設すると、これまで化粧品販売では他店を圧倒してきたサックスフィフスアベニューでさえも失敗する。大改装によってメインフロアは人影が激減、移設拡大した2階化粧品フロアの人影も少なく、ファッションフロアは全て閑古鳥、ドル箱だった8階特選婦人靴フロアまでも失速。倒産するバーニーズニューヨークをインショップで継続する(とニュース報道あり)余裕なんてあるのだろうか。

2)「食」を扱わない米国百貨店に明日はない
  生活者の美と健康への関心が急速に高まっている。特に、「食」に対する意識はかつての米国ライフスタイルからは考えられないくらいアップグレード。しかしながら、食料品拡充策のロンドン、パリの百貨店と違って米国は頑固に食料品を扱わない。自分たちに知見がないならEATALYやDEAN & DELUCAのような専門店を誘致すればいいのに。いまや「食」はファッションとも言えるが、米国の大型小売店は考え方が古いのか。服と身の回り品だけを扱っていては将来はない。

(人影ほとんどなかったサックスフィフス)

3)ブランドvs小売店のEC激突
  リアルとネットを連動させたオムニ化がどんどん進化している。ベンダーであるブランド側が自前のECサイトでファンを囲い込む中、小売店はECで何ができるのか、どう戦うのだろうか。もはや「昨日の味方(ベンダー)は今日の敵」状態。大型小売店はベンダーに別注をかけて差別化を図るが、ブランド側ECサイトの豊富な品揃えには及ばない。ブランドvs大型小売店のEC戦争は今後ますます激化、後者はまず勝てる見込みはない。買取条件ではない日本は有力ブランドのEC販売は無理、今後プラットホーム不要の有力ブランド自主ECは日本で急伸する。

4)接客サービスが効力あるカテゴリー
  同じブランドの同じサイズであっても、靴は履いてみなければ足に合うかどうかわからない。ECで商品を取り寄せ、フィットが自分に合わなければ簡単に返品できるのでECでも靴は伸びるだろうが、大型小売店には接客で販売できる残されし領域。婦人服や化粧品よりもリアル店舗での接客がものをいうカテゴリー。今秋、靴の販売では定評あるノードストロームがマンハッタンに進出。その場所は、特選婦人靴で他店の追従を許さない最高級店バーグドルフグッドマンから徒歩5分の至近距離。ノードストロームがどこまで婦人靴で攻めることができるのか興味深い。前述サックス(バーグドルフから徒歩10分程度)は改装失敗で婦人靴は減速、バーニーズ(バーグドルフから5分)は閉店。ノードストロームの進出でマンハッタンの婦人靴事情は大きく変わる。

(先にオープンしていたノードストローム紳士館)

5)EC専門がリアルで集客する
  サックス改装の失敗の様子をじっくり観察したのち、雨の中をノリータ地区エヴァーレーン路面店に。ECビジネスを立ち上げ、ファンをある程度つかんでからショールーム代わりにリアル店舗を開いた新興ブランドだが、閑古鳥のサックスとは異なり悪天候でもショッピングするお客様。このマンハッタン店のほか、サンフランシスコ、ブルックリン、ロス近郊のアボットキニー、スタンフォードとすでに5店をオープン。巨大企業アマゾンは書店が消滅した市場にリアル店舗のアマゾンブックスをオープン、オムニ化を進めているが、多店舗展開してきた会社がEC展開するより、EC企業がリアルを増やしてオムニ化する方が成功するのかもしれない。

6)情報開示で安心感を提供
  エヴァーレーンは常識破りの生産拠点と製造原価の情報開示を進めている点でも特異な存在。消費者の信頼を得るために今後情報開示競争が進むだろう。情報を開示すれば消費者は安心感を抱くのは明白、この流れが加速すると低い原価率で商売してきたアパレル系企業はさらに苦しくなる。これからのファッションビジネスはBとCの距離をどこまで短縮するかがカギ、BtoBtoCは20世紀のビジネスモデルと言わざるを得ない。

7)地方店は続けられない
  日本でも大手百貨店が地方店をどんどん閉め始めた。先日、大手百貨店ベンダーが多数の店舗を閉鎖するニュースに注目が集まったが、消滅する地方百貨店の中に複数店舗構えているから一挙に年間3桁のショップ閉鎖は当然のこと。国内の人口減、ECの発達、国内消費の落ち込みを補完するのがインバウンド消費、インバウンド効果のある都心店はともかく、インバウンドにほとんど期待できない近郊店や地方店は軒並み赤字転落する。思い切った閉店策しか考えられない。

8)「食」でワクワク感
  美と健康志向、社会の二極化で、価格は少々高くても富裕層は安全な食生活をもっと追い求める。オーガニックな暮らし、サステイナブルな消費は確実に加速していると実感。小売店はグレードの高い食料品を並べるだけでなく、同時にお客様に体験してもらうことが重要。食品を「買う」、その場で「食べる」を楽しむ、作り方などを「学ぶ」、この3要素でショッピングのワクワク感をどう提供するかが課題。今後どこまで腹をくくって「食」と取り組み、特化するか。「食」はファッションなり。

50年に一度の大きな変革期、今後はもうちょっと頻繁に勉強会を開いてみんなで意見交換したいです。次回は2月かな。






Last updated  2019.12.03 10:09:00
2019.11.28
これまで何度も書いてきましたが、企業にとって重要なのは「ヒト・モノ・カネ」、その中でも真っ先に取り組まなければならないのは「ヒト」つまり人材育成だと思います。でも、近年企業買収などが盛んになると順番は「カネ・モノ・ヒト」になりがち、経営者の人材育成に注ぐ熱意は薄れ、育てる時間も資金もカットされる傾向にあります。

松屋にスカウトされた1995年、会社の改革には戦力となる人材が必要、まずは人材育成から着手させてくださいと社長にお願いし、毎週バイヤーゼミときには併行してアシスタントバイヤーゼミを開講。一連の講義が終盤に差し掛かる10月中旬には若手社員を連れてニューヨーク研修を行いました。バイヤーゼミの一期生がいま常務取締役ですから社員の多くは過去にゼミで学び、ニューヨーク研修でクタクタになるまで現地市場調査を経験しています。

政府の要請で松屋を離れなければならなくなったとき、現在の秋田正紀社長は交渉に来た役所の幹部に私のゼミだけは続けさせて欲しいと条件を提示、それを認めてもらっての転籍でした。だから私はずっと松屋でMDゼミを開き、若手社員を指導してきました。先月も私の出張にタイミングを合わせてニューヨーク研修を行い、現地で参加者に視察のポイントや激変する米国市場の動向を話しました。

イッセイミヤケでも在任10年間社内でマーチャンダイジングスクールを開講、自ら社員を育てました。私はマーチャンダイジングのスキルと同時にファッション商品をお客様に買っていただくための心構えを教えてきたつもりです。そして、自分が退任しても人材育成がずっと継承されるよう指導員を7年かけて育てました。

松屋に復帰した2011年、お取引先のインショップの店長さんたちを公募して別の研修会を行いました。対象者は外資と国内ファッション系ブランド、化粧品メーカー。この研修会で顧客分類や販売計画、定数定量管理に関して宿題を出すと、やはりイッセイミヤケの受講者だけは及第点でした。日頃から本社のプログラムで学んでいるだけあって、宿題の回答はほぼ完璧。このとき受講者のあるファッションブランド店長が私に「どうしてイッセイミヤケのショップが他と違って見えるのか、その理由がわかりました」と言ってくれたのがとても嬉しかった。

このところのファッション流通業界、地方百貨店がどんどん閉鎖、全国で年間にするとものすごい数のインショップが消滅、たくさんの販売スタッフが職を失っています。オンラインショッピングの急進によって百貨店は受難の時代、商品供給してきたファッション企業の業績もかなり厳しくなりました。大手アパレル企業が年間数百店舗閉めるというニュースが続きますが、地方店であっても1つ百貨店が閉鎖になれば大手取引先の場合1社あたり一挙に10ショップ以上消滅、1年間に全国で数百店舗消えるのは仕方のないこと。大手百貨店は地方店閉鎖をどんどん進めますから、この先消滅ブランドショップ数は間違いなくもっと増えます。

百貨店もアパレル企業も経営陣は売上減を覚悟していますから、当然経費削減はもっとシビアになります。ウインドーなどの宣伝装飾費、イベントやプロモーションの販売促進費はまずカットされます。国内外の出張旅費も大幅にカットです。そして、人材育成なんぞやってる余裕ないわ、と社内研修も消滅でしょう。

しかしながら、いくら売上が期待できないからと言って人材育成をやめる、あるいは大幅縮小するというのはどうなんでしょう。人材を育てる経費と時間をカットすれば人は育ちません。人が育たないと企業に未来はありません。果たしてそれでいいのでしょうか。

松屋だってこれまで業績は山あり谷ありでした。が、どんなときでも経営トップは人材育成の重要性をしっかり受け止め、ニューヨーク研修(ときにはパリもあればシアトルもありました)を続けて社員にチャンスを与え、手間のかかるMDゼミもずっと続けています。「松屋さんは偉いですね」とある大手百貨店のトップに言われたことありますが、どんなときでも人材育成の手を緩めなかった松屋の歴代経営者は立派だと思います。

おそらくちょうどいまどの企業でも経営陣は来年度の予算案を議論しているタイミング。消費税率アップもあって来年度も簡単に売上の上昇は見込めません、議論のマトは当然経費削減だと思います。本来ならば売上を確実にとるための経費はカットしてはいけないんですが、そこもカットしなくては収益維持は見込めない状況のはず。しかし、人材育成の手を緩めてはいけない、と私は思います。

人材育成の手を緩めるとそのツケは将来必ずやって来ます。苦しいからと新卒採用を中止すると20年後に人材難は起こります。人を育てるには時間がかかります、だからこそ人材は永続的に強化しなければならない最重要課題。宣伝装飾や販売促進に関する経費はカットしても、人員削減や早期退職を実施しても、人材育成に関する経費(大した額じゃないんですから)と手間暇だけはカットしてはいけない。

単発の社内講習して人材育成したつもりじゃ人は育たない。外部の自己啓発セミナーに参加させるだけでも十分ではない。しっかりカリキュラムを組んで指導員と受講者が何度も顔を合わすゼミ形式で育成するのが一番、それには手間暇がかかるんです。

来年度予算を議論している企業の上層部には考えて欲しい、ものごとの順番は「ヒト・モノ・カネ」、常にこの順番を守ることが大切、と。






Last updated  2019.11.29 00:11:25
2019.11.26
生意気盛りの学生時代、いろんな大学やファッション専門学校の学生を集めてファッションマーケティングの集団を主宰していた頃、私は多くの業界幹部に可愛がってもらいました。中でも、雑誌「男子専科」編集長だった志村敏さん、服飾評論家の星野醍醐郎さん、ギンザヤマガタヤ取締役の竹田勲さんには多くのアドバイスをいただきました。

父に個人教授までつけられて学んだ紳士服パターンメーキング、服作りの面白さに気づき始めたところで竹田勲さんに「キミはデザイナーになりたいの。違うでしょ、キミはオヤジさんの家業を継いで経営者にならなきゃいけないんだよ。経営者が自分で服のデザインしてどうするの」、銀座の小さなバーで説教されました。

アパレルメーカーJ社の顧問もなさっていた大先輩に相談したら、「もうすぐ私は引退するから、最後の弟子にとってあげる。私についてJ社で企画、生産、営業の経験を積み、大学卒業したらオヤジさんの言う通りサビルローに修行に出てはどうかな」と声をかけていただいた。そのことを星野醍醐郎さんに報告したら、「仕事なら卒業してからできるじゃないですか。学生は学生らしく勉強しなさい。大学生らしい勉強の仕方で真面目にファッションと向き合ってください」と叱られました。その言葉に納得、最後の弟子の話はお断りしてファッションマーケティング集団を組織したのです。

原稿をメディアに寄稿するようになって訪ねたのが男子専科の編集部、白髪の威風堂々とした志村敏さんとお会いしました。「こんな雑誌、学生は買わないです」と失礼なことを言ったら、「じゃ、ページあげるから勝手に面白いこと書いてみろ」とチャンスをくれました。

大学卒業後あるメディアに正式な日本記者クラブの記者章を持たせてもらってニューヨークに渡り、米国デザイナー周辺を取材して記事を送っても約束の原稿料は一向に振り込まれず途方にくれていたら、志村敏さんから「絶対日本に帰ってくるな。お金は送ったからしばらくこれで生活しなさい」と励ましの手紙が届きました。そしてその3ヶ月後、志村編集長と大谷カメラマンがニューヨークに。「1冊ニューヨーク特集号を作ればうちから正式に原稿料を払える。他の仕事は私に任せなさい」、まとまった金額を置いていってくださったので慌てて帰国せずにすみました。

(1978年春に発行された臨時ニューヨーク特集号)

日本に戻った志村編集長はすぐに繊研新聞社総デスクの松尾武幸さん(のちの編集局長)と話し合い、私はフリーランスでありながら繊研新聞特約ニューヨーク通信員として契約できました。私が8年もの間ニューヨークに在住でき、フリーランスとして現地でいろんな仕事をしつつ男子専科と繊研新聞に原稿書けたのは志村さんと松尾さんのお陰です。言い換えれば、今日までファッションビジネスの世界で様々な仕事を続けてこれたのも、20代前半から二人のバックアップがあったからこそ、二人は私の命の恩人であり、なんでも相談に乗ってくれるオヤジでした。

1985年、三宅一生さん(私に大きなチャンスをくれた大恩人の一人)に声をかけてもらって帰国した私は、今度は自分が若者たちを育てる番と肝に銘じ、ずっと後進の指導に携わってきました。CFD時代に私塾「月曜会」を立ち上げたのも、松尾武幸さんらと共にファッションのビジネススクール設立に奔走したのも、文化服装学院はじめ多くの大学や専門学校で教えたのも、所属した松屋やイッセイミヤケで自ら社内ゼミを開いてきたのも、帰国以来「人材育成はわがライフワーク」だったからです。二人のオヤジから受けた恩は後進に返さねばバチが当たるとさえ思っています。

松尾武幸さんはちょうど10年前の2009年12月に亡くなりました。そして、志村敏さんは今年4月に亡くなったと奥様からのお便りで知りました。渡米して数ヶ月後、東京銀行ニューヨーク支店の私の口座残高がたった43ドルになったときに受け取った志村さんからの激励、人生で最も心にしみたあの手紙がなかったら私は全然別の人生を送っていたことでしょう。心よりご冥福をお祈りします。

そして今日、後進指導のために個人的に教え子、元部下や仕事仲間らを集めた「火曜会」の開催日。先月ニューヨークの売場で感じた「時代の激変」を簡単なレジュメにまとめ配布します。激変にどう立ち向かうかをみんなと議論したいと思っています。






Last updated  2019.11.26 18:17:17
2019.11.25
(ミナペルホネン「つづく」展@東京都現代美術館)

ボランティアの私塾「月曜会」を開いていたとき、文化服装学院に通う男子学生Uくんがあるファッションコンテストに応募、一般消費者が投票する部門ではトップだったのに審査員の選考では「佳作」のような賞で終わったことがあります。たまたま私も審査員の一人、コンテスト直後の月曜会で彼は私に「どうして自分の作品は選ばれなかったのでしょう?」と質問しました。

Uくん応募作品のワンピースは色(空色と呼びたくなるブルーの無地)は美しく、シンプルなフォルムも美しく、審査会でもうちょっと立体的ボディのモデルさんが着用していたら恐らく評価は変わっていたでしょう。が、不運にも当日彼の服を着てステージに現れたモデルさんはかなり細く、フォルムの美しさをうまく表現できませんでした。審査員全員がそのことに気づき、作品だけを見て評価していたら最優秀賞ではなくてもそれなりの違った結果だったかもしれなかった、とUくんには説明しました。

そのUくんが卒業してデビュー、お披露目は都心から離れた八王子での新人合同展示会(テキスタイルメーカーのみやしん宮本社長が主宰)というので、私は教え子のコレクションを見に行きました。CFD議長を退任する直前の1995年春だったでしょうか。そのとき、Uくんと一緒に服を並べていた新人デザイナーのハンガーラックから服を取り出し、「随分重たい服だねえ」と率直に意見を述べました。それがデザイナー皆川明さんとの最初の出会いでした。

あれからおよそ4半世紀、皆川さんのミナペルホネンの展示会に何度お邪魔したことか。これまで内外のデザイナー展示会で私が最も多く足を運んだブランドです。いつお邪魔しても展示会場に流れるなんとも言えぬほんわかムード、他では決して味わえるものではありません。ラグジュアリーブランドの展示会で感じる冷たい緊張感もなければ、眉間にシワを寄せた怖そうなバイヤーの姿もありません。窓からそよ風が流れているかのような爽やかな空気、発注を入れるバイヤーたちの穏やかな表情、そしてデザイナーの布への、職人さんたちへの優しい眼差しをたっぷり感じる、他のブランド展示会とはちょっと違うんです。

皆川さんのミナペルホネンは比較的集客が簡単な百貨店や都心ファッションビル、駅ビルでショップを増やすことなく、コツコツ直営店を増やしつつジワジワとファンを増やしてきました。直営店ではナチュラルなリビング雑貨や家具を扱ったり、服に使用した布そのものを販売したり、店によってはオーガニック食品を置き、老齢年金対象者の大ベテラン(中には80歳超えの方も)を販売員に雇ったり、他のファッションブランドとはショップの景色が明らかに違います。だからか、訪れるお客様の心を揺さ振るんでしょうね。

これまでずっと独自の世界観を見せてきたミナペルホネンの展覧会「つづく」が、11月16日から江東区の東京都現代美術館で始まりました。会期は来年2月16日まで。ブランドの世界観、ものづくりの発想からプロセスまで、そしてデザイナー自身の人間的魅力をたっぷり体感できる空間に仕上がっています。ミナペルホネンの常連客でなくとも、撮影禁止のマークがなければ誰もがたくさん写真を撮りたくなるような展示でした。
(どうして日本の美術館は撮影禁止のところが多いんでしょうか)



今日11月25日は美術館の休館日、こちらでミナペルホネンの集大成のようなファッションショーがありました。ミナペルホネンの世界に惹きこまれ、ほんわか気分を味わってきました。これまでのコレクションのアーカイブ作品群、時代を超えた美しさ、職人さんたちが精魂込めて織った布が本当に素晴らしかった。最近の東京でのショーは概してフィナーレの拍手が短く小さいんですが、今日のフィナーレの拍手はかなり長く大きかった。

案内された座席のプレスキットの中に、私に宛てた皆川さん直筆の手紙が入っていました。初めて会ったときのアドバイスを真摯に受け止め、ものづくりをしてきましたとありました。思わず会場でちょっとウルっとしました。こういうちょっとした気遣い、ミナペルホネンがここまで伸びた根本要因はデザイナーご本人の人柄なんだなあ....。

(2013年12月、私の社長壮行会に来てくれた皆川さん)

松屋勤務時代も皆川さんにはいろんなお願いをしました。バレエシューズで有名なパリのレペットを新規導入するときはレペットとのコラボをお願いし、開店初日皆川ファンで通路に行列ができ、あっという間に完売でした。ある大銀行のユニフォームコンペでは特別デザインでプレゼン用サンプルを、三越銀座店との共同イベント「銀座ファッションウイーク」ではトークショーやフロアショーも引き受けてもらうなど、様々な場面で力を貸していただきました。皆川さん、ありがとう。






Last updated  2019.11.26 10:17:26
2019.11.20
百貨店側としてパリコレ出張していた頃、ショーを拝見してからブランドの展示会にお邪魔して商品を手にとって確認したものです。ショーを見ているだけではわからない商品の良さもわかれば、逆に案外荒っぽいつくりをしているとがっかりするケースありました。

日本製素材の起用が多いと感じたブランドの展示会では、案内してくれるジャパン社の方に「日本製素材はどれくらい使っていますか?」と質問。近年日本製素材イコール高品質のイメージが定着し、皆さん正直に胸を張って「◯割は日本製素材を使っています」と答えてくれます。これまで私が聞いた中では、フィービーフィロ時代のセリーヌの70%日本製というのが最高です。

フィービー特有の構築的なシルエットを出すためには日本の後加工技術はどうしても必要、だから日本製素材の比率がグンを抜いて高かった。イタリアの素材メーカーに布がずしり重くなるまでスポンジングしてくれと言ったら、恐らく多くのイタリア職人は拒否でしょう。せっかく柔らかい風合いの布をつくったのにどうしてバリバリになるまで布を縮めなくちゃいけないんだ、プロとして要求を突っ返すでしょう。これも立派な職人魂なんですが、拒否されるとなると日本の工場に頼るしかありません。あの頃のセリーヌのウールコートは随分重かったですから。

ニコラゲスキエール時代のバレンシアガも日本製素材の比率は50%だったとショールームで聞きました。恐らく日本の後加工と精密なプリント技術をニコラが高く評価していたからと推察します。現在ニコラがディレクターを務めるルイヴィトンでも日本製素材はそこそこの比率で起用されているのではないでしょうか。

私の知る限り日本の繊維産地のことを一番勉強しているのはなんと言ってもシャネル。全国の繊維産地にはシャネルのテキスタイル担当から声がかかり、継続的にシャネルの生地づくりをしているメーカーが何社もあります。ほかにもラグジュアリーブランドが日本の素材情報を知りたくて私に連絡をくれたブランドも。イタリアの産地とは違った日本の職人気質、クオリティーや納期遵守、新しいことにチャレンジする姿勢を評価するトップブランドはかなりあります。

しかしながら、製造メーカーにはメディアなどに取引先ブランドの名前を公表しない守秘義務があります。ブランド側はどの素材メーカーが布やニットをつくっているのか秘密にしておきたい。ブランドの商品タグには最終的に製造した国名を原産国表示しますから、一般消費者のほとんどは購入したパリ、ミラノのラグジュアリーブランドの素材が日本製なんてことは知る由もありません。日本製素材を起用していても縫製工場が日本でなければ、商品タグにはMADE IN FRANCEあるいはITALYと表記です。

中には、縫製の大部分は中国の下請け工場で、しかし織りネームと整理加工をイタリアで行なって商品タグには堂々とMADE IN ITALYと表記している有名ブランドも。店頭でブランドの販売スタッフに「このバッグ、ホントは中国製だよ。どの工場で作っているか知ってるよ」とからかうと、「そんなはずありません。ウチのはMADE IN ITALYですから」と反論しますが、それは販売スタッフが知らされていないだけのこと、実際には中国製、織りネームの装着はイタリアなのです。

米国で急成長するネット販売アパレルブランドEVERLANEは、自社サイトで工場の情報を全て消費者に開示していることで有名です。工場の名前、所在地のみならず、生産している様子をビデオで流し、工場の従業員の笑顔の写真を掲載して消費者に伝えます。低賃金の工場で従業員を酷使しているブラック企業ではないと証明するためでしょう。この姿勢は立派です。

(プレミアムテキスタイルジャパン展の第一織物ブース)

EVERLANEの情報開示策に触発されたのか、最近びっくりすることが起こりました。なんとプラダが福井県の高密度ポリエステルメーカー第一織物のロゴ「d.」をアウターの商品タグに自主的に表記し始めたのです。世界で人気のブランドが、起用する素材を製造しているメーカーのロゴをわざわざ商品下げ札に表記する、なんと画期的なことか。想像するに、プラダは「d.」を表記してこの素材がいかに良質なものなのかを消費者に伝えようとしているのでしょう。こんな扱い、これまでなかったこと。

ここへきて低価格ファストファッションによる社会的問題が浮き彫りにされました。バングラデッシュでは劣悪な職場環境で低賃金労働を強いてきたファストファッションの下請け縫製工場が崩落、多数の従業員が死亡したことをきっかけに、ヨーロッパの報道機関はどのブランドがブラック工場をこき使っているのか積極的に報じています。ファストファッション側は追い詰められました。

衣料品の使い捨てと売れ残り破棄された衣料品がプラスチックゴミとなって海洋汚染の原因になっていることも繰り返し報じられると、当事者のはずのファストファッションまでもがファッションのサステイナビリティーを叫ぶようになりました。変わり身早いですねえ。

プラダも従来からのナイロンバッグを2年後には生産中止、すべて再生ナイロンを使用すると宣言していますが、ファッション業界全体が急速に地球環境に優しいものづくりについて発言し始め、ひとつのトレンドになっています。

これまでのように製造工場に守秘義務を課して生産情報を非公開にすることより、むしろ情報開示した方が企業として社会から、消費者から高く評価される。サステイナブルなものづくりも同じ、具体的に詳細を公表した方がブランド価値が上がると判断する経営者が増えつつあるように思います。

すでに再生ナイロンへの移行を公表しているプラダは、思い切って生地メーカーの第一織物の名前を商品の下げ札表示で公表したのではないでしょうか。私はプラダを愛用していますが、今回のプラダの公表は1顧客として誇りです。

プラダをその気にさせたのは第一織物のクオリティーの高さ。百貨店時代に福井県の工場にお邪魔したことありますが、ほかのポリエステル工場に比べて丁寧に商品をつくっているのが印象的でした。素材メーカーがトップブランドにロゴ表記してもらう、世の中変わってきました。今後、日本素材の製造元がトップブランドによってどんどん公表されるといいですね。






Last updated  2019.11.25 22:36:45
2019.11.19
先月ニューヨーク研修に初めて参加した婦人靴売場の若手社員に今回の売場視察で最も気になった点を訊いたら、高級店であるはずのバーグドルフグッドマンがラグジュアリーブランドの婦人靴を大量に並べていたこと、と答えました。いいところ見ているなと感心しました。長年バーグドルフグッドマンに一目置いて視察してきた私も、2階特選婦人靴売場の定数定量には違和感を覚えました。例年と違って什器の上がゴチャゴチャしていたから。

ラグジュアリーブランドの婦人靴売場の品揃えと販売スタッフの数の点でこれまで五番街のバーグドルフグッドマン2階とサックスフィフスアベニュー8階は双璧でした。いつ行っても両店ともにファッションフロアに人影はなくても婦人靴フロアは賑わい、午前中から買い物客がソファに陣取って数個の靴箱を積み上げ接客を受けていました。

ところが、サックスはメインフロアの化粧品を2階に移設拡大して失敗、その影響なのか8階婦人靴フロアも従来の賑わいは消えていました。これまで非常に賑わっていたフロアだったのでちょっと意外、メインフロアに人影がないと館全体がこうもヒマになるのかと実感しました。恐らくこれまでサックスが獲得していた、主に中南米インバウンド富裕層のフリー客はバーグドルフに流れて行ったのでしょう。

サックスが改装でずっこけただけでなく、バーグドルフにはさらにプラス要素があります。ここから最も至近距離にある競合店バーニーズニューヨークのチャプター11(倒産申請。近々閉鎖が決まっています)。やはりバーニーズの特選婦人靴フロアは閑古鳥状態でしたから、バーニーズのフリー客もバーグドルフが獲得しているでしょう。つまりバーグドルフ婦人靴売場は競合2店のおかげでかなりアドバンテージがあると思います。

競合店からフリー客を獲得、お客様が増えればどうしても瞬間的に什器の上は乱れます。しかし、若手社員も私もゴチャゴチャ印象を受けたのはこれだけが原因ではありません。従来のバーグドルフに比べてかなりの展開品番数、サンプルの靴がいっぱいところ狭しと並んでいるのです。このフロアは5階のベターゾーンの婦人靴とはクラスが違います、当然ゴチャゴチャした印象をお客様に与えてはならない売場なのです。参考までに、このブログのタイトルバックの写真ニーマンマーカスの婦人靴売場と比べて見れば、いかに商品が多いかわかります。


(バーグドルフグッドマン2階婦人靴売場)





(バーグドルフのECサイト婦人靴)


では、どうしてこんなにラグジュアリー婦人靴の品番が売場にいっぱい出ているのか。それは、五番街やマジソン街に建ち並ぶラグジュアリーブランドの大型直営店との競争激化だけではなく、ブランド側がどんどん進める直営ネットショッピングとの顧客争奪戦が激しくなっている証しではないでしょうか。

バーグドルフ、サックス、バーニーズ、ニーマンマーカス、ノードストロームなどラグジュアリーブランドの高価な婦人靴を自社サイトで販売している小売店はどこもかなりの品番数をネット販売してきましたが、ここへきてブランド側が直接自社サイトを強化、小売店とブランド側の競争は以前にも増してかなり激化しています。ブランド側サイトに顧客が流れるのを防ぐ方法はブランド直営サイトにはない小売店の「魅力的な別注商品」の強化しかありません。

「ウチでしか販売していない限定品番」、これをECとリアル店舗の両方で展開しつつ、人気ブランドのシーズンコレクションもそこそこ発注すればどうしても品番数は増えてしまいます。ECだけで販売していては消化率は上がりませんから店頭でも展開、当然ながら品出しは増えて売場はゴチャゴチャになってしまうのでしょう。

有力百貨店にインショップを出し、その至近距離に大型直営店を出店してきた人気ラグジュアリーブランドですが、ECビジネスでも小売店サイトと自社サイトが顧客を奪い合う形になりました。こうした状況下で百貨店は独自の商品を別注として手配しない限りブランドのサイトとは戦えない。どうしても在庫は膨らみ、店頭の定数定量は崩れます。バーグドルフが例年以上に婦人靴が並んでいたのは、別注品番が増えているからではと推察します。

米国の百貨店はクリスチャンルブタン、マロノブラニク、ジミーチュウやグッチ、プラダ、トッズ、フェンディ、ディオールなどトップブランドの婦人靴(バッグも服も)をネット販売してきました。もちろん消化仕入れではなく買取で発注、差別化のために別注企画もネット販売しています。が、ブランド側が自社サイトのMDを強化すると品揃えが豊富なブランドECにはかなわない。

従来のビジネスでは競合各店との差別化のために別注企画でしたが、現在のライバルは競合店よりむしろ取引先であるブランド側、となると百貨店に打つ手はあるのでしょうか。小売業には大変厳しい世の中です。






Last updated  2019.11.20 00:09:28
2019.11.18
先日同族経営についてNHKニュースに取材されたとき、先祖代々家業を継承してきた同族社長の利点を自分なりに説明しました。松屋の古屋勝彦名誉会長(大改装当時の社長)は社長在任中を振り返って番組で「いい時期は社長になって1年くらいしかなかった。それから失われた10年に入ってしまった」とコメントしてました。名誉会長の発言通り改革が始まった1999年当時は決して業績が良かったわけではありません。自分の代ではやりたくないタイプの社長なら、低迷期にリスクが大きな改革、改装は絶対にやらなかったでしょう。

オーナー社長にとって「会社=わが家」、会社を健全な状態にすることが家業繁栄のためでもあり、子孫のためでもあります。大改革を迫った私に「やる!」と即答、リスクを承知でいろんな案件をパッパと決断して改革を進めてくれました。度量のない社長なら「改革はやるけれど一気には無理だよ」と長期計画に落とし込んで慎重に進めたでしょう。しかし、オーナー社長は即決でたった2年で改革断行、あのとき社長の決断がなかったらいま頃会社はどうなっていたかわかりません。

古屋勝彦・松屋名誉会長

この取材で改めて経営者の使命は何なのかを考えました。どんなに業績がいい会社でも、どんな優れたリーダーがいる会社でも、企業活動を長く続けていれば多かれ少なかれどこかにウミは溜まります。そのウミを察知したらすぐ業務改善しようとする経営者もいれば、知らん顔して自分の代では改善しない経営者もいます。

ファッション流通業におけるウミは在庫と癒着。在庫が正直に決算書に表記される仕組みと幹部の高い意識があればいいんですが、幹部や中間管理職が大量在庫が表面化しないよう操作する例は非常に多い業界。上司が怖いとすぐ隠す、自分のことや部署を高評価して欲しいからすぐ誤魔化す、多くのアパレルメーカーで起きてきたことです。癒着も同じ。日頃付き合いのある取引先ではもうダメかもしれないと認識しながら、魅力的な商品を供給できないベンダーや工場を切らない、そんな例も少なくありません。

決算書上ではなかったはずの在庫が発覚する頃には経営危機状態、悪くすると倒産、このパターンで消えていった企業は内外ともに少なくありません。お客様に魅力的な商品ではなくなってきたベンダーや工場を個人的に密接な関係だからスパッと切れず、「これはマズい」と思ったときにはすでに時遅し、お客様の信頼を回復できずに消えた売場やブランドもたくさんあります。

松屋で人材育成を始めたとき、従来からあった(おそらく山中さんが伊勢丹から松屋に持ってきた)バイヤー必携ハンドブックの1ページ目には「倉庫は金庫なり、在庫は財産なり」と書いてありました。なので、私は受講する若いバイヤーたちに、「1ページ目は破って捨てろ」と命じました。山中さんが松屋の社長になられた1970年代とは時代が違います、大きく変わっていたからそう命じました。

「倉庫はゴミ箱なり、在庫はゴミなりと思え」と教えました。もちろん極端な、ひどい表現です。紡績工場、テキスタイル工場、縫製工場やニット工場の職人さんたち、ベンダーのデザイナーさんらが精魂込めてつくりあげた衣類をゴミと言ってはいけない。それは理解しているつもり。しかしながら、衣類は物理的には腐らず臭いませんから、不良在庫化してもあまり気にしない人が業界には多い。しかも段ボールに入れて持ち運び簡単、だからすぐにそれを隠す。ゴミという言い方をしたのは受講生に発想転換して欲しかったからなのです。

これまでいろんな会社の勉強会やセミナーで何度も言ってきました。「プロパー消化率を上げろ」、と。多くの人の力を借りてみんなで一生懸命つくった衣類をちゃんとお客様に正価で買っていただく、それがゴミを出さない最善の方法です。

でも近年、プロパー消化率は50%にも達しない、50%を超えたら上出来と考える業界人が案外多い。正直言って、情けない。プロパー消化率が50%未満なら、売れ残った衣類はセール後に段ボールの中に入れられ倉庫の奥で眠り、いずれ廃棄処分されます。その間、社内の書類にはさも在庫がないような計算処理をされることもあり、倉庫の奥の段ボールの存在はみんなの記憶から消えます。

だから「プロパー消化率75%を目標に」と言い続け、具体的にそれをどう実現するかを長年指導してきました。75%と言いながら内心70%でも及第点。70%目標と言えば65%に、65%と言えばすぐ60%になってしまうものです。しかし、優秀なスタッフが75%目標を強く意識して業務を推進してくれたら実現可能、実際それ以上の数字を叩き出したチームもありました。プロパー消化率を上げたら当然廃棄処分は激減、地球環境のためにもこれが一番です。

社内に溜まったウミは早く出さねば会社の体力が落ちることぐらいどんな経営者でもわかります。わかってはいるんですが、経営者や経営幹部に度胸がないと行動しません。「自分の代ではやりたくない」と見て見ぬ振りをします。上場している大企業の経営トップにもこういう人は少なくない、実際このタイプのトップが何代も問題を先送りして大混乱した超大企業もありましたよね。ウミを出して瞬間的に悪い決算を発表すれば経営者の自分が責められるから見て見ぬ振りをする。特に事なかれ主義サラリーマン社長(サラリーマンが悪いんではありません)には多いように思います。

経営トップになった瞬間から、自分が退任してバトンタッチするときはウミを全部出し切って健全な状態で次に渡すと肝に銘じる、これが経営者として一番重要なことだと私は信じています。会社に体力があるうちに改革して治療しておけば、バトンを引き継ぐ後継者は楽(その後でまたウミは溜まるもの)です。が、わかっていても自分の代では改革に着手しない、改革をしている間は業績が一時的に下がって社内外から批判され自分の評価が下がると勘違いする社長は少なくない。

経営者は目先のことではなく、長期的に会社を健全にする責任があるはずです。自分の在任中には評価されなくても退任後に評価される、組織改革とはそういうものじゃないだろうか。トップの地位にあるだけで将来に向けて何も改革をしない経営者の下で働く社員は不幸ですね。






Last updated  2019.11.18 13:25:53
2019.11.15
2005年10月に経済産業省の支援で第1回ファッションウイークが始まったとき、私はJFW(日本ファッションウイーク)推進機構とは全く関係がありませんでした。どういう話し合いの経緯で始まったのか、どういう約束事があったのか、当事者ではないので詳しくは知りません。ただ、役所からは、3年間は支援するので、そのあとは民間の力で実施をと言われた、と理解してます。

現在のJFW三宅正彦理事長( TSIホールディングス会長)に頼まれて、私がお手伝いするようになったのは第3回目のJFW東コレからです。そして3年の約束期限が切れ、民間の力だけで運営しなくてはならない時がきました。三宅理事長とJFW事務局はニューヨークコレクションを実質的に取り仕切る米国の代理店IMGと交渉して合意、ニューヨークコレ同様メルセデスベンツが冠スポンサーとなり、ニューヨークにならってイベントタイトルは「Mercedes-Benz Fashion Week TOKYO」となりました。

ところが、ニューヨークサイドで異変が起きました。一般市民の間で「どうしてドイツ企業がニューヨークのファッションイベントの冠になるのか」と。協賛企業の1つDHLも確かドイツ郵便公社に買収された会社なので、ドイツ色を強く感じた市民が増えたのかもしれません。ファッション産業はニューヨークの基幹産業の1つでありドイツの冠は適切ではない、一種の愛国心みたいなもんなんでしょうね。結局メルセデスベンツは冠スポンサーを降りました。

ニューヨークコレで冠を降りたメルセデスベンツが東京コレクションの冠スポンサーを続けられるはずありません。三宅理事長も私もいろんな企業をまわり、次のスポンサー探しをしました。そして、最終的に冠スポンサーに名乗りを上げてくれたのがアマゾン、東京コレクションの正式名称は「Amazon Fashion Week TOKYO」となりました。アマゾンジャパンは冠スポンサーになってくれただけでなく、東コレ期間中独自に「@TOKYO」を開催、SACAIとUNDERCOVERのジョイントショー、東京では見れなくなったTOGAのショーなど仕掛け、東コレ全体を盛り上げてくれたのです。

アマゾンとJFWの契約期間が切れ、三宅理事長とJFW事務局は大手代理店の協力も得ながら次の冠スポンサーを探しました。政府などの助成金がない以上、スポンサー企業の協賛がないと東コレはやっていけません。そしてそろそろ決定しないと次回の運営が難しいというギリギリのタイミングで楽天の三木谷浩史CEOが決断してくれ、先月の2020年春夏シーズンから「Rakuten Fashion Week TOKYO」となりました。



私たちが1985年7月にCFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立して東コレをスタートしたときは「デザイナーの、デザイナーによる、デザイナーのための東コレ」を掲げ自主独立運営、どこにもスポンサーを求めず、公的機関の援助も受けず、自分たちの資金だけで始めました。その分、初期のCFD会費は非常に高かった。

しかしバブル経済が終わって市場を取り巻く環境が変わり、CFDを預かる私はWOOLマークや資生堂に協賛をお願いしました。また、若手デザイナー支援の東コレANNEXは全て協賛金で運営と決め、池袋開催を条件に東武百貨店、池袋ターミナルビルに協賛してもらい、大手代理店の力も借りてトヨタの特別協賛も得てスタートしました。

私が1985年から10年間、そして故久田尚子さんが1995年から10年間東コレを引っ張ってきましたが、そろそろ自主独立を捨て、ファッション産業界全体のイベントとして位置づけてもらい、政府の助成金もお願いするタイミングだと考え、久田さんとも相談して東コレをCFDからJFWに移管しようと決めました。久田さんも随分悩んでいましたが、「この体制にしたらCFD議長を退任してください」とお願いしました。

CFD主催の東コレが20年、そして来年にはJFW主催の東コレになって15年です。ときには運営当事者として、ときには小売店の視察者として東コレに約35年関わってきました。マーチャンダイジングのプロになりたいと志してニューヨークに渡った私が、どういうわけかデザイナーコレクションに四半世紀も関わり、いまもいろんなデザイナーの悩みを聞き(昨日もあるベテランデザイナーさんとの相談ディナーでした)、背後で若手や新人デザイナーのコレクション発表を支援している。不思議だなあ、長いよなあ、です。

さてさて、なぜこういう話をアップしているかと言いますと、メディア関係者に誤解があるからです。私だけでなくJFWの関係者は皆、これまで東コレを支えてくださったMercedes-BenzやAmazon、両社を繋いでくれた代理店に感謝こそすれ、いかなるネガティブな思いはございません。一部業界メディアに我々があたかも失望感を抱いているような記事を書かれてびっくりしております。記事を読んだ冠スポンサー側からJFW事務局にクレームが入ったと昨日知らされましたが、もしも私がその立場にあったら絶対クレーム入れますよね。

メディアの皆さん、東コレに関わってきたデザイナーさん、多くの関係者にJFW理事の一人として私ははっきり申し上げたい。冠スポンサー並びに多くの協賛企業の支援がなかったら、JFWの東コレは15年も継続不可能だった、と。そして私たちJFW理事(みなさん手弁当でボランティア)はこれまで支援してくださった冠スポンサーと協賛企業の皆様に大変感謝しております、と。失望感なんてこれっぽっちもございません。どうぞ誤解なさらぬようお願い申し上げます。






Last updated  2019.11.15 11:55:01
2019.11.14
先月ニューヨーク出張の際に立ち寄った五番街の百貨店「サックスフィフスアベニュー」本店、これまで他店の追従を許してこなかった化粧品売場をさらに拡充するため2階に拡大移設して失敗(化粧品メーカーは皆落胆しています)とは聞いていましたが、ここまで人影がなくなっていたとは。写真をご覧ください、お客様の姿は見当たらないですよね。

(五番街正面入口近くの新設エスカレーター前)

(メインフロア奥にある中価格のバッグ売場)

(2階に上げた化粧品フロア)

(ブランド商品揃えた4階婦人服)

(誰もいなかった6階紳士服)

(8階婦人靴まで大幅減少)

サックスは同時多発テロ事件のあと再開発されたダウンタウンのショッピングモールに新しく支店を出しましたが、早くも今年閉店しました。2年前新店に行ったときお客様の姿はほとんどなかったのでおそらく将来閉じるだろうなと予想していましたが、たった2年の営業でクローズ。先月の本店は2年前に見た新店とほぼ同じ情景、どのフロアを歩いてもお客様の姿はほとんどありません。2年前まではかなり賑わっていたメインフロア(当時はまだ化粧品がありました)と8階婦人靴売場でさえ極端に客数少なく、果たしてこのまま何も手を加えず営業続けるんでしょうか。

(ヘンリベンデル解散後のHP)

若い方はご存知ないかもしれませんが、かつてマンハッタンにはたくさんの百貨店あるいはファッション大店がありました。私が大学卒業後ニューヨーク生活を始めた1970年代後半から、多くのストアが倒産あるいは閉店に追い込まれました。どういうストアがあったのか、消えたストアを列記すると....。

五番街ティファニー本店の隣には、かつて「アメリカの衣装箱」とも言われた高級店「ボンウィットテラー」がありました。新人だったカルバンクラインに最初にオーダーを入れた店でした。ボンウィット倒産後ここに店を構えたのが「ギャラリーラファイエット」。しかしパリの百貨店もここではうまく行かず閉店、現在この場所はあのトランプタワーになっています。

エンパイヤステートビルの斜め前、五番街34丁目の角には百貨店「B オルトマン」がありました。五番街からマジソン街、東34丁目から35丁目までの大きなワンブロックを占有していた百貨店ですが、これも倒産してしまいました。地味な印象しか残っていません。

そのすぐ近く徒歩1分の西34丁目には「コルベット」という大衆店がありました。日本の百貨店を見慣れた目にはとても百貨店とは呼べないような安物商品を並べたストア。昔はエンパイヤステートビルにやってくる観光客に受けたかもしれませんが、なんとも魅力のない館でした。確か近所には「オーバックス」というやはり大衆店もあったと記憶しています。これも早く消滅したので場所は間違っているかもしれません。

ここから西34丁目をさらに西方向に歩くと、World Largest Storeの看板を掲げる「メイシーズ」があります。一度はチャプター11(事実上の倒産)を体験しましたが、いまもこの場所で営業を続けています。このメイシーズと共に世界的に有名なマンハッタンの感謝祭パレードのスポンサーを長年担ってきた「ギンベルズ」も私が住んでいた頃に倒産して消滅しました。

世界の百貨店が一時期お手本にしたと言われる「ブルーミングデールズ」の隣、レキシントン街東58丁目には、これまた百貨店とは呼べないような大衆店「アレキサンダー」がありました。西34丁目のコルベット同様安物商品が山積みしてあるストアでした。

元々レキシントン街は所得の高くない住民が多く住んでいた場所、ブルーミングデールズが路線変更して高級化を図ったときその場所ゆえに国内ベンダー(取引先)候補はほとんど理解を示してくれず、仕方なしにニューヨーク事情に疎い海外のベンダーと取引交渉。だからのちに世界の百貨店が真似をした「カントリープロモーション」(国ごとの全館イベント)を開催するようになったそうです。最近はレキシントン街の家賃は上昇、でも五番街に比べるといまも通りはゴチャゴチャ感があります。

私が帰国するのが1985年、それ以前に多くのストアは消滅しました。70年代後半カーター政権時代のリセッション(景気後退)が倒産の一要因だったかもしれません。

そして、21世紀に入ってからもどうにか営業を続けてこれた名門ストアもいま再び受難の時代。五番街西38丁目にあった老舗百貨店「ロード&テイラー」本店はついに閉店しました。企業としてはサックスと同じカナダのハドソンベイ社(イングランドの国策会社として1600年代に設立された北米最古の会社)傘下で名前だけは留めています。

ラグジュアリーブランド大型直営店が建ち並ぶ五番街で営業してきた「ヘンリベンデル」(西56丁目。以前は西57丁目でした)、そのチョコレートブラウンとホワイトのストライプ柄ショッパーや小物雑貨は日本でも有名ですが、今年の初めに閉店し、全国のモールにあった支店もすべてクローズしたようです。かつてモデルやスタイリストたちに重宝され、新人発掘のインキュベートストアだったファッション大店、その完全消滅は時代を反映しています。

そして二度目のチャプター11を今年申請した「バーニーズニューヨーク」、結局リアル店舗は維持できず全店閉鎖されるそうです。今後はサックスの中でインショップ形式のセレクトゾーンとして名前だけは残すとか。でも人影がほとんどなかったサックスが実際に継承できるのでしょうか、ちょっと疑問です。

私がバーニーズのお手伝いをしていた1980年代初頭、マンハッタンのアッパーウエストに数店舗構えるセレクトショップ「シャリバリ」はどこのショールームに行ってもバッティングする、バーニーズにとっては最大のライバルでした。バーニーズとはマンハッタン市場の独占契約取得を巡って激しく争奪戦を演じたストア、百貨店ではありませんでしたが先端ファッションを扱うカッコいい店でした。でも、早くに倒産してしまいました。

シャリバリ以外にもニューヨークのファッション事情を語る上で欠かせないセレクトショップが「ダイアン B」でした。当時ブティックがほとんどなかった倉庫街のソーホー地区に大型のコムデギャルソンFC店をオープン、そのロケーション、スペースの大きさで業界を驚かせました。ソーホー地区がファッションの街になったのはコムデギャルソンが開店して以降のこと、ダイアンの時代を読むアンテナは狂っていなかったと思います。しかし資金繰りに行き詰まり、結局この店はコムデギャルソンに売却、会社は倒産しました。

日本でも百貨店がどんどん消滅しています。私が松屋に入った1995年当時、銀座には松屋を含め百貨店が7つあり、店長たちの「七店会」という交流会がありました。しかし、現在百貨店として営業を続けているのは松屋、三越銀座店、阪急メンズ館の3つ、7店が3店ですから半減です。

銀座ですらこうですから地方都市にある百貨店の閉店は当然加速します。最近はほぼ毎月のように百貨店閉店決定のニュース、最終日にシャッターが閉まりきるまで整列して深くお辞儀する社員の姿がニュース映像で流れます。こんな映像はこれからもっと増えます。

考えてみれば、自分自身もネット通販の利用が随分増えました。ギフト、嗜好品から生活用品まで、いつの間にか商品ジャンルはかなり広範になり、リアル店舗の利用は減りました。こういう消費者は全国でどんどん増えているでしょうから、今後大型小売店やショッピングモールは抜本的な改革策を講じない限り消滅はまぬがれない。社会の関心高まる「食」に手を出さない(出せないのか)米国百貨店はなおさら、このままでは消滅しかありません。






Last updated  2019.11.14 10:14:32
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