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売り場に学ぼう by 太田伸之

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2018.09.06
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カテゴリ:太田伸之


(聖ヤコブ教会にて)


アントワープ宿泊先のすぐ横にバロック期を代表する画家ルーデンスが眠る聖ヤコブ教会がありました。ルーデンスの自宅はここから徒歩数分、この教会の信徒だったとか。私はキリスト教徒ではありませんが、数日前に妹の容態が急速に悪化していると義弟から電話をもらったので、この由緒ある教会でロウソクを灯し、お祈りしました。宗派はどうでもいい、祈らずにはいられない心境でした。

その3日後の8月7日お昼、スキポール空港で帰国ルートの変更手続きをしている最中に妹の訃報が届きました。仏教徒がキリスト教会にお祈りしてもご利益はないですよね。フランクフルト空港のターミナルで事件があってミュンヘン空港経由に急遽フライトを変更させられ、フランクフルト便に預けた荷物は心配、日本列島に台風接近中で羽田空港に着陸できるかどうかわからない、そこへ妹の訃報、私の頭は極度の混乱状態でした。

どうにか帰国した翌日通夜に出かける直前、今度は大変お世話になった松屋の前社長・古屋浩吉さんの訃報が届きました。さらに妹の告別式に来てくれた従兄弟が、沖縄の翁長知事と同じ病だった本家の従兄弟が知事の訃報に大変ショックを受けている、と教えてくれました。そして20日後、本家の従兄弟も亡くなりました。これで従兄弟18人中7人があの世へ、私の父方はどうやら癌血統のようです。

うちのオヤジは働き盛りのさなか十二指腸潰瘍と腹膜炎を併発、緊急手術の際の輸血の血に問題がありました。お決まりのC型肝炎、肝硬変、肝臓癌とどんどん悪化しました。オヤジの癌発症は輸血が原因とずっと信じて来ましたが、妹も従兄弟の数人も癌ですから太田家は元々癌血統なんでしょう。

オヤジは家業のお客様だった大病院の外科部長さんに勧められ、肝硬変の治療に名古屋の病院に通っていました。が、先生から「お父さんには内緒で病院にお集まりください」と連絡があり、オフクロと兄弟3人はこっそり医師のオフィスに。「実は肝臓癌です。あと2年と思われますが、手術なさいますか」。痛い目にあわせたくなかったので「手術はしないでください」と答えました。

そして、オヤジにはやんわりと「京都の病院へ行ってはどうか」と勧めました。オヤジの弟子の義弟Kさんがたまたま京大出身の有名な先生、診察してもらったら何かいい方法があるかもしれない。しかしオヤジは肝硬変なんだからわざわざ京都に行かなくても大丈夫と思っていました。

ところが、NHK特集で最新の肝臓癌治療の映像を観て、オフクロに「俺の治療と同じやないか」。オフクロは正直に「あんたは癌や」、このストレートな一言でオヤジは京都に飛んで行きました。K先生はオヤジからかなりの血を抜き取り、のちに本人に血を戻しました。一種の免疫療法だと思います。K先生の同僚、内田温士京大教授がお書きになった「ATKー人間を守る生命システム」という本には、弱気な患者は免疫療法でも治らない、ポジティブな性格の人には効き目があるかもしれないとあったので、私は入院したオヤジにこの書籍を届けました。

すると内田教授の本に感化され、オヤジはこの本を数冊取り寄せ、入院中の患者さんたちに配りました。こうすることで自分自身が肝臓癌に対してポジティブになろうとしたのでしょうね。ありがたいことにK先生の後輩が実家のすぐ近所の病院長、通常の診察はこの地元病院で、レポートは京都のK先生に送られ、K先生から時々指示が来る、そして年に一度京大病院で診察を受けることになりました。おかげで余命2年と名古屋の病院に宣告されたオヤジは8年間元気ピンピンでした。

K先生からの勧めで、一つ不思議な治療がありました。一般的に抗癌剤は患者に注射しますが、オヤジは先生のアドバイスで抗癌剤をポカリスエットで薄めて毎日少量ずつ飲んでいました。抗癌剤を飲む、しかもポカリスエット割り、聞いたことのない不思議な治療方法でした。でも、その効果でしょう、オヤジは肝臓癌患者とは思えないほど元気だったのです。

妹はオヤジのこの不思議な治療方法もK先生の存在も京大免疫チームのこともよく知っていたはず、しかし妹は京大には行きませんでした。名古屋の大きな病院で抗癌剤治療の道を選んだのです。免疫治療も抗癌剤治療も個人差があって、効果がある患者もいれば症状が好転しない場合もあります。妹がオヤジと同じような治療をやったからと言って助かった保証はありません。妹は自分で決めたこと、兄弟が口を挟むことではなかったと思っています。

私は前職を引き受けるとき、これまで経験のない難しい仕事なので、オフクロよりも先に逝く親不孝だけは絶対にしてはいけないと、病院嫌い医者嫌いなのに自ら進んでドクターに定期検診してもらい、エコーや血液検査を頻繁にやり、少しでも数値に異変があればさらに精密検査を受けてきました。激務だったのに病気らしい病気をせずにすんだのは、毎月の定期検診と親身になってくださったドクターのおかげでしょう。

そもそも私が健康を意識し始めたのは1994年の2月でした。前年の年末、パリから短期帰国中だった中本佳男さん(無名だったジャンポール・ゴルティエを発掘した元オンワード樫山パリ所長)が東京で急逝。一緒に会食する約束でしたが、帰国中の検診で癌が発見され、あっという間に亡くなり、約束は果たせませんでした。中本さんと親交のあったファッションプロデューサー大出一博さんから廣内武さん(現オンワードホールディングス会長)共々呼び出され、「二人とももっと健康に留意しないと中本みたいになるぞ」と説教され、きつーく禁煙と酒量減、当時話題になっていた有機野菜の「野菜スープ」を勧められました。

その翌日私はニューヨーク出張。現地で大雪に遭遇し、アポイントは全てキャンセル、ホテルから外に出られません。するとお尻にポツンと現れたニキビのようなオデキがどんどん大きくなり、最終日にはゴルフボール並みの大きさ、シートに座って飛行機に乗れない状態になったのです。大出さんの説教を「俺には関係ない」と聞き流したからバチが当たったと反省、切開手術のあとアドバイス通り美味しくない野菜スープを毎日飲むようになりました。

その1ヶ月後の東京コレクション初日、友人だった毎日新聞の市倉浩二郎編集委員に「あんたも野菜スープを飲め」と勧めたら、「あんな不味いもん飲めるか」と笑われてしまいました。が、それが市倉さんとのラストトーク。翌日彼は風邪の菌が原因で意識不明になり、帰らぬ人となったのです。生まれて初めて自分の目の前で人が亡くなる場面に立ち会い、生まれて初めて人の骨を拾い、自分の健康を意識するようになりました。

その後、野菜スープの開発者がバカなことで起訴されてブームは去りましたが、次に大出さんから中国の田七人参粉末を勧められました。野菜スープ同様とても不味い漢方サプリメントですが、以来20数年間私は毎日欠かさず朝と夜の2回、非常に飲みにくい田七人参を続けています。昨秋、妹から乳癌が肝臓にも転移していると聞いて、私は「不味いがこれを飲め」と田七人参を二度送りました。が、残念ながら妹には効果はありませんでした。

昨日も定例の診察、今年三度目の血液採取してもらいました。「子供の頃から注射嫌いです」と看護師さんに言ったら、「私自身も嫌いです」には笑いました。健康であれば人に迷惑かけず社会貢献できます。皆さんもどうかマメに検診なさってください。






Last updated  2019.03.08 11:26:02


2018.09.03
伊勢市駅前のビジネスホテルで早めの朝食をとり、7時前に徒歩数分の神宮外宮に参拝してきました。お伊勢さん、早朝から随分大勢の参拝客がいるもんですね、ちょっとびっくりでした。ここは日本の神社の総本山という意識で参拝するからか、ほかの神社と違ってなんとも荘厳、特別な空気を感じ、背筋がピンと伸びて元気をもらってきました。


(ここから先は撮影禁止)

午前9時過ぎ、「建築学生2018」のプレゼン会場に。ここで主催者から簡単な説明があり、ご近所の空き地に参加学生8チームが組み立てた8つのフォリーを視察(下の写真2枚)、作品を前に彼らが表現したかったことや組み立ての苦労話を各チームリーダーからヒアリング。説明不足の場合、伊勢神宮の熱血漢Oさん(広報室課長)や発想段階から熱い指導をなさってきた東京大学のS先生(准教授)が学生さんに代わって丁寧に補足説明してくださいました。みなさん実に優しい。

8つのフォリーの出来栄えを確認したあとプレゼン会場に戻り、各チームからそれぞれのコンセプト策定までの経緯、設計の意図、実際の制作などを改めて聴いて点数をつけるのが私たちの役目でした。私は建築の門外漢、「ファッションの世界では、美しいものにはワケがある、と指導してきました。今日はたくさんのワケを見せていただきます」と冒頭に挨拶しましたが、シロウトが点数つけていいのかと複雑な思いを抱きながら参加しました。


(竹とコーティングした布の揺らぎある作品)


(講評者は作品意図を屋外でヒアリング)

そして、下の作品を制作したチームが最高得点の最優秀賞に決まりました。白い麻のループが数本、触れてみると固いループもあれば柔らかくて構造には無関係なものもあります。3つのループが屋根(天井と言うべきか)を支え、ほかはダミーなんですね。講評なさった現代美術の先生が「トリックアートのようです」とおっしゃいましたが、屋根が宙に浮いているようなユニークなデザインでした。芯の役割のループ、最初は1箇所でとめるはずでしたが、それでは屋根の重量に耐えられなかったので組み立てながら現場で2箇所に変更したそうです。



(本年度最優秀作品)

ほかにも、外宮と内宮の鳥居をモチーフにした作品、宮川の河原で採取した石を主役にした作品、竹とコーティングした布を組み合わせて揺れをうまく使った作品、伊勢の粘土質の赤土をこねて土の大型ブロックを40数個積み上げた作品、杉の角材をランダムにつなげた作品などどれも甲乙つけがたい力作揃いでしたが、専門家の先生たちからはかなり手厳しい指摘もありました。

これまで私はファッション関係やプロダクト関係の学生ワークショップに参加したことはありますが、これまでは同じ学校のチーム編成、しかもデザインや事業のコンセプト、事業計画のシミュレーションのパソコン発表(主に理論)がほとんど。参加者自ら角材や竹を切ったり土をこねたり建材を組み立てたりと、実際にものづくりまで進む形式のワークショップは初めてなので新鮮でした。

北は北海道から南は鹿児島県の大学まで、参加した大学生や院生が5人ずつチームに編成され、知らない者同士が共に伊勢市や伊勢神宮の歴史、風土を調べて基本コンセプトを議論、具体的なデザイン、設計、そして原材料を決め、途中指導の先生たちに修正すべき箇所を教わり、役割分担を決めて作品を仕上げる。かなり濃密な実践的ワークショップでした。

過去、高野山、比叡山、明日香村、琵琶湖の竹生島などで建築学生ワークショップは開催されましたが、竹生島宝厳寺の管主や開催予定地の東大寺執事長が袈裟を着て会場に駆けつけ、さらに来年は出雲大社開催なので出雲市観光課の方も視察にみえました。みなさん、学生のプレゼンを父兄参観のようにハラハラしながらご覧になっていたようです。

それにしても、講評の専門家先生たち、神宮のご担当や伊勢市役所の職員のみなさん、材料提供やサポート役で協力した地元ゼネコン関係者、さらに次回以降の開催地関係者がこんなに温かい目と熱い思いでワークショップを応援する姿、感動ものでした。

その背景には、このイベントを主宰する大阪在住の建築家・平沼孝啓さんが関係者を丁寧に回って協力要請するからでしょう。私も平沼さんに「太田さんは三重県出身だから」と1年前に頼まれたので参加しましたが、ボランティで後進に素晴らしいワークショップの機会を提供する姿を見れば誰も断れません。これぞ実学、気持ちのいい、教わることの多いイベントに参加できて幸せでした。ファッションの世界でもこういう実学ワークショップ、できないものかなあと思います。






Last updated  2019.03.08 11:25:38
2018.08.28
​​数年前に友人から関西を拠点に活躍なさっている建築家の平沼孝啓さんを紹介されました。平沼さんは柱が一本もないガラスの建物を考案されていますが、ヴェネツィア・ビエンナーレの代表幹事を務める高名な建築家からそれを会場エントランスに建ててはどうかと誘われ、実現に向けて奔走しているときでした。

デザインはとてもユニークなのですが、日本から重量のある特殊ガラス構造物をバラして運び、現地で短期間のうちに組み立てオープニングに間に合わせるにはかなりの費用がかかります。支援してくれそうな企業や補助金提供してくれる役所を回ってそこそこのサポートは得られましたが、最終的に目標の金額には届かず、平沼さんは断念しました。私はこのとき少しお手伝い、そこからのご縁です。

平沼さんがロンドンの大学で建築を学んでいた頃、セントマーチン校のファッションデザイナー予備軍たちとかなりの交流があったそうです。だからか、ファッション業界人顔負けのおしゃれをしていつも私の前に現れます。

自らの建築事務所を運営する傍ら、設計事務所やゼネコンで働く若い建築家にチャンスを提供しようと、平沼さんは日本建築協会の活性化プログラム「U-35」(35歳未満の建築家の勉強会)を運営し、さらに全国の大学や大学院で建築を学んでいる学生を集い、歴史ある場所で夏季合宿させ、チームごとに集中議論とプロジェクト発表する「建築学生」を主宰しています。

最初の2010年は奈良の「平城宮跡」、翌年は琵琶湖の「竹生島」、15年が「高野山」、16年が「明日香村」、昨年が「比叡山」、そして今年は「伊勢神宮」を会場に9月2日学生さんのプレゼンが開催されます。

過去の会場、どこも由緒ある場所ですよね。なぜこのような場所をわざわざ選んで学生に建築を考案させるのか、「建築学生2018」のホームページに開催目的がこう記されています。




1)学生のための発表の場を作る
学内での研究活動が主体となっている学生にとって、一般市民に開かれた公開プレゼンテーションを行うこと自体が非常に貴重な体験となります。また、現在建築界で活躍する建築家を多数ゲスト講師に迎えることで、質の高い講評を参加者は受けることができます。また、ワークショップ終了後の会場での展示や、会期報告としてホームページや冊子の作成を行い、ワークショップの効果がさらに継続されるような仕組みをつくります。

2)教育・研究活動の新たなモデルケースをつくる
海外での教育経験のある講師を招聘する等、国際的な観点から建築や環境に対する教育活動を行うワークショップとして、国内では他に類を見ない貴重な教育の場を設けます。また、行政や教育期間の連携事業として開催することで、国内外から注目される教育・研究活動として、質の高いワークショップをつくることを目指します。

3)地球環境に対する若い世代の意識を育む
現在、関西地方には、世界に誇る貴重な文化遺産を有する京都や奈良、琵琶湖や紀伊半島の雄大な自然など、豊かな環境が数多く残っています。しかしながら、近年の社会経済活動は環境への負荷を増大させ、歴史的に価値の高い環境をも脅かすまでに至っています。このワークショップでは一人一人が地域環境の特殊性、有限性を深く認識し、今後の建築設計活動において環境への配慮を高めていくと同時に、地球環境の保全に貢献していくことをねらいとしています。次世代を担う学生たちが、具体的な経験を通じて環境に対する意識を育むことは、環境と建築が共存できる未来へと、着実につながるのではないかと考えます。

4)地域との継続的な交流をはかる
歴史、文化、自然が一体となって残る地域の特色を生かしたプログラムを主軸に、特殊な地域環境や、住民との交流によって生み出される制作体験を目的としています。各地域には、それぞれの土地で積み重ねてきた歴史や文化、風土があり、短期間のイベントであればそれエラを深く知ることはできませんが、数ヶ月に弥継続的な活動を前提として取り組むことで、より具体的な提案や制作によって、地域に還元していくことができると考えています。

全国の学生さんに自費参加のエントリーをさせて見知らぬ者同士をチーム編成し、チームごとに由緒ある会場のことを調べ(*)、いろんな角度から建築や環境について議論し合い、みんなでプレゼン用の制作物をつくって発表、これを識者が講評する。なんともユニークな実践的教育ですが、会場の交渉から、学生宿舎の手配、資金集め、関係機関との折衝、講評担当の手配などボランティアで一人の建築家とその仲間が汗をかいている、実に素晴らしい人材育成プログラムではありませんか。ここで貴重な体験をした若者が、将来、世界的な建築家に育つかもしれませんよね。

私は建築業界の人間ではありませんが、三重県出身ゆえ本年の講評に参加してくれないかと平沼さんから1年ほど前に頼まれました。他の委員の方々はほとんどが建築学科で教鞭をとっている先生や建築家、ファッション専門の私が何を基準に学生さんのプレゼンを講評していいのかわかりません。きっと恥もかくでしょうが、面白い人材育成の形なので勉強のつもりで参加させてもらいます。

私は1985年にニューヨークから帰国し、自分が体験した米国式実践教育を日本に伝えたいと、CFDのオフィスで私塾「月曜会」を開き、その後業界リーダーたちとIFIビジネススクール(ファッション産業人材育成機構)の立ち上げに尽力しました。平沼さんの一生懸命な姿を見ると、あの頃の自分が懐かしいです。門外漢ながら「建築学生2018」に参加しますが、発表する建築家科の学生さんと講評する先生方に触発されて新しいファッションデザイン界の人材育成プログラムを言い出すかもしれません。

週末、伊勢市でのプレゼンを楽しんできます。



(*)場所のもつ歴史や意味、地形や風の流れ、風土といった文脈を読むことを始点として建築はつくられていきます。つまり建築という行為の原点には、「場」を読み解く力こそが始まりであり、最も重要なことだといえます。これを国内でも稀にみる森林空間と古来の伝統的建築様式を今に伝える聖地・伊勢の神宮で学ぶことは、建築の道を歩み始めた次の日本を担う学生にとっては大切なことであり、これから建築をつくる揺るぎない基軸ともなっていくことでしょう。​​(ホームページより)






Last updated  2019.03.08 11:24:44
2018.08.24
前職でお世話になった社外取締役から頼まれ、今年4月に上海周辺のファッション事業者訪日団に初めてセミナーをする機会がありました。日本のファッションデザイン界の発展の軌跡と私なりに考える今後の課題がテーマでした。すると、この訪日団関係者から、好評だったので7月に来日するアパレルの経営陣に再度セミナーをと依頼され、ここでは日本は世界市場とどう戦えるのかをお話しました。さらに今週水曜日、写真の「広東青英会」訪日団でもセミナー。「皆さんは主にどんな職種なのでしょうか」と冒頭に質問したら、「バイヤー」という返事でした。


(東京大学本郷キャンパスの講義室にて)

そして、来月初旬にはまたアパレル事業者が来るので話をして欲しいと頼まれ、10月には北京に迎えたい企業があると要請を受けました。このお招きはこちらの海外出張と重なりそうなので実現は不可能でしょうが、中国ファッション業界から講演依頼が止まりません。関係者の間で私の講演のことが噂になっているのはありがたいのですが、このまま行ったら毎月中国の講演依頼を受けなくてはならなくなりそう。

かつて日本のファッション産業界が発展途上だった60年代から70年代前半、ヨーロッパやアメリカ視察団がこんなふうに現地の企画会社やマーケティング専門家に講演、講習をたくさん依頼し、欧米のファッション事情やその変遷、ビジネススキルを教えてもらったわけで、今度は我々が近隣諸国にお返しをする番、簡単に断ると失礼にあたるのではないかと考えてしまいます。

今週はブランドビジネスにとって重要なこと、そして画家と画商の関係について話しました。近年有力ブランドは数社の大資本傘下に集約されたからか、まるで一般企業の人事異動のようにデザイナーやクリエイティブディレクターが交代します。ブランドを牽引すべきデザイナーがコロコロ交代しようがブランドの持ち味、特性をしっかり守っているケースはあります。が、交代するたびに方向性が大きく変化するケースも少なくありません。これって本当に正しい姿なのでしょうか。

写真のホワイトボードに私が「DNA」と書いたのは、受講者からの質問に答えたから。「(後継指名される)デザイナーにはそれぞれ強い個性があり、創作的なエゴもある。ブランドの経営者は起用したデザイナーの個性を尊重すべきなのか、それともブランドの伝統を守らせるべきか」、そんな質問でした。だから私は「どんなにデザイナーが交代しようがブランドの世界観、ブランドのDNAや仕事の仕方は守るべきと思います」、と答えました。


(シャネル2014年Springより)


その例として、シャネル日本法人のリシャール・コラス社長から以前伺った話を出しました。シャネルのアトリエでデザインを考案する際、あるいは広報宣伝チームが広告ヴィジュアルを企画する際、「ココ・シャネルはこんなデザインをするだろうか」と冷静に考えるそうです。ココ・シャネルはバッグのデザインをするとき、生活する中での機能性をいつも重視、機能を無視したデザインは排除したとか。だからデザインチームが新作バッグをデザインする際、いくらデザインがユニークでであっても機能軽視であれば「ボツ」に。広告ヴィジュアルも同様、ココ・シャネルはこの図案を承認するだろうかと議論、「ノー」であればやり直し、とコラスさんから伺いました。

また、コラスさんはこうもおっしゃいました。「なぜシャネルは(作れば売れるであろう)紳士服を発売しないのか、それはココ・シャネルが紳士服を手がけていなかったから」。なるほど、発売すればかなり売れるでしょうが、あえてやらないとは立派ですね。後継チームは常にブランド創業者がどう反応するかを推測し、「ココならきっと承認しないだろう」と結論が出たら企画をストップ、これぞまさにブランドDNAを守ることであり、だからこそシャネル人気は長続きするのではないでしょうか、と説明しました。

デザイナーである以上、誰もが自分が継承したブランドをもっと伸ばそう、もっと粋のいいものにと考えます。同時に、自分の個性もブランドに盛り込みたいと考えるのはごく自然なこと。しかし、自分らしさを盛り込もうとするあまりブランドDNAを軽視、無視してしまう危険性もあります。自分の描きたい世界観を追求するのであれば、自分自身のブランドでそれを徹底的にやるべきで、ブランド継承するのであれば歴史あるブランドのDNAはしっかり守るのが王道ではないのか、と私は考えます。古い考え方かもしれませんが。


(サンローランにダッフルが登場した時は驚きました)

サンローランを継承したエディ・スリマンは初めてのコレクションから退任するまでの間、いわゆるパリのエスプリではなく、米国西海岸の自由奔放な空気をこれでもかこれでもかというくらい吹き込み続けました。そのストイックな姿勢は立派だと感心しますが、フランスの至宝イヴ・サンローランが創業したブランドは果たしてこの路線で良かったのどうか....。

もしもエディ路線のサンローランを経営側が良しとするなら、ファンの多くが受け入れてくれていたなら、そして経営側が満足いくビジネスができていたら、エディはサンローランを去ることはなかったのでは、と勘ぐってしまいます。退任後に違約金を巡って裁判になったそうですが、円満退社なら法廷で争うことはないでしょうね。ブランドのマンネリ化を止めて新しい息吹を投入しようとする姿勢は間違いではないでしょうが、ブランドのDNA継承は必須条件と思います。

サンローランに限らず、ビッグブランドの多くはここ数年でデザイナーがコロコロ交代、専門家やファッション事情通でなければ、いま誰がどのブランドのデザイナーなのかわからない状況です。また、ビッグブランドのデザイナーがかなり高齢化しており、大きな世代交代の波はすぐにやってきます。後継者選びにはいろんなタイプがありますが、皆さんはどうお考えでしょうか。






Last updated  2019.03.08 11:24:17
2018.08.20
社長として最後の決算監査を受けたとき、帰り際に監査法人のプロフェッショナルに質問しました。「監査法人はどこまで企業の決算報告に目をつぶってるんでしょうか」、と。

自社は公的な組織、会計検査機関のチェックは厳しいので経費の不正や間違いには超過敏、委託している監査法人には数字操作一切なしのナマの報告をしてきましたが、昨年から東証一部上場の名門企業の不正、粉飾、飛ばしや在庫隠しニュースが連続しています。店頭状況から想像するとかなりの在庫を抱えているはずなのに、公開されているバランスシートの「製品」欄はかなり少ない、なんてケースも意外に多いと思います。ですから、監査法人は監査している企業の数字操作はわかっていても、どの程度なら目をつぶっているのか、ストレートに聞いてみました。

企業の飛ばしや在庫隠しのニュース、近年急激に増えました。ごまかしの度が過ぎて株主総会に決算報告が間に合わないなんて恥ずかしい企業もありました。歴代の経営トップが自分の在任期間では修正せず後継社長に先送り、リレー競技じゃあるまいしと思います。部門担当役員が損益や在庫を勝手に操作してトップが知らなかったケースもあれば、トップがごまかしを承知、あるいは自らごまかしを指示していたケースもありました。ニュースになった日本を代表する大企業の決算操作、監査法人は監査の過程で全く気がつかなかったのか、それとも監査法人は加担していたのか、会社によって事情は違うでしょうがほんとのところを知りたいですね。




ファッション流通業の破綻の多くは過剰な在庫が原因です。売上狙いで作り過ぎて大量に売れ残って破綻したケースもあれば、事業部(ブランド)責任者がごまかして正直にトップに報告せず、在庫の実態が不明で破綻したケースもあります。とにかく在庫に目を光らせるのが流通業界の経営者トップの仕事、事業部の責任者のごまかしが露見したら断固とした処置をとるのが務め、ごまかさない社風を作るのが仕事と私は思います。

在庫は、入庫でも出庫でも簡単に操作できます。入庫では、決算日寸前の納品を外部機関にお願いしてしばらく止めてもらい、決算日が過ぎたら納品してもらえば、決算日の在庫量はどうにでもなります。出庫ならば、決算日の直前に委託取引の小売店に出荷して一旦売上を立て、決算日が過ぎたら返品してもらえば、決算日時点の売上は実勢以上にお化粧できます。それを現場任せにして知らん顔するか、姑息な手は使うなと強く命じるか、経営者の姿勢で企業の決算は大きく変わります。

かつてこんなことが化粧品業界でありました。私が尊敬するFさんが社長に就任して最初の決算、在庫処分で数百億円の特別損失を計上しました。全国の化粧品店、薬局、百貨店など取引先に委託販売で決算直前に出荷、決算日が過ぎると返品、この操作で売上は立派な数字でしたが宙に浮いた在庫は半端ではありません。こんな操作が何年も続いていることを知っていたFさんは社長に就任すると在庫の大量処分を決断、数百億円分の商品を破棄したのです。

ところが、一部のメディアがFさんの英断を「お坊ちゃま経営」と揶揄する記事を書いたのです。不思議な記事でした。新社長が創業者の身内だったから皮肉られたのでしょうか、それとも操作に関わってきたきた幹部の誰かが社長を刺したのか、私にはわかりません。不良在庫を社長就任早々処分する社長は果たしてダメ経営者なのでしょうか。巨額の特別損失を出すことへの金融機関、株主からのいかなる批判も受けて立つ覚悟がないと決断できませんから、私はFさんを大変尊敬し、同じように会社経営に携わってきました。

Fさんに秘書として仕えたIさんが後年同社の社長に就任されたとき、F社長の英断をいつも頭において自分は経営しているとIさんの社長就任会食でお話したら、「Fの在庫処分から10年以上も経過するとまた同じように在庫は膨らみ、一気に特損を出さねばならないのですよ」と新社長から意外な言葉が返ってきました。経営トップは常に在庫に目を光らせていないと、業界の仕組みが大きく変わらないからまたすぐ元に戻ります。取引先は十分な店頭在庫を担当営業マンに求め、現場は目先の売上を追い求めてつい増産、取引先の希望に応えようとします。それが結果的に大量の宙に浮いた在庫になってしまいます。

化粧品もアパレル商品も、生鮮食料品のように腐りません。倉庫の中でイヤな臭いが出るわけではありません。もしも腐って悪臭が出るのであれば、どんな企業も在庫を持たないような事業計画を立てるでしょう。しかし幸か不幸か、化粧品もアパレル商品も古くなったら悪臭を放つものではない、それゆえ気が緩んで作り過ぎるのです。

でも、倉庫に長く積んでおけば、化粧品のパッケージは変色、変形したりします。白いシャツやブラウスは時間が経てばビニール袋の中で少し黄ばんできます。倉庫の環境によっては、ポリウレタン入り商品はビニール袋の中で劣化する場合もあるでしょう。段ボールの表面に「⚪️⚪️年AW」とか「⚪️⚪️年SS」と書いて倉庫に積むのは日常茶飯事、その在庫を管理しているはずの担当者が交代すると段ボールは忘れられた存在になってしまうことがよくあります。越年在庫は絶対にやめるべきなのです。

どの事業部も適量生産していれば、会社全体の指針プロパー消化率を上げ、消化率を上げるマーチャンダイジングの教育をしっかりやっていれば、売れ残りは減少して不良在庫は少なくなります。だから、経営者はプロパー消化率アップを全社的に説くべきだ、とこれまで訴え続けてきました。

上場企業の決算は株主でなくてもネットで誰もが検索できます。PLの売上高と利益の欄につい目が行きますが、バランスシートの製品欄(在庫金額)とPLを見比べると、ちょっとおかしいなあと思う会社がたまにあります。皆さんもぜひネット検索してください。これだけ大企業のごまかし露見が続いているのです、公表されている数字は素直に信用できませんよ。






Last updated  2019.03.08 11:23:38
2018.08.13
オランダはマリファナ吸引が合法ということもあってたくさんの外国人が訪れます。世界的に有名なミュージアムがアムステルダム以外にもあり、レンブラント、フェルメール、ゴッホの絵画や現代美術を目当てに訪れる観光客、昔から交易で発展してきた国ゆえビジネス客も少なくありません。アムステルダムを歩いて意外に多いと感じるのはイスラム圏からの観光客。ヒジャブを被った女性たちを頻繁に目撃します。バタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社が香辛料貿易で活躍、オランダがインドネシアを統治していた関係もあるのでしょう。



(ダム広場に面したバイエンコルフ百貨店)


アムステルダムの中心地ダム広場には1870年創業のバイエンコルフ百貨店があります。創業は松屋とほぼ同じ、もうじき150周年を迎えます。1階はサンローラン、グッチ、プラダ、ルイヴィトン、エルメスなどラグジュアリー系雑貨のインショップがズラリ、3階婦人服フロアにはセリーヌ、ドリスヴァンノッテン、ステラマッカートニーにまじってサカイも展開されています。

この館の最も魅力的なフロアは5階「食」のフロア。フレッシュジュース、寿司、イタリアン、アジアンフードなどフードコート、オリーブオイルやヴィネガー、各種瓶詰めソース類など食料品が並んでいます。自家栽培で使用しているかどうかはわかりませんが、壁面にはハイテク葉物野菜栽培ガラスケースも。大企業の社員食堂のようにトレイに注文した料理やドリンクを乗せて集合レジに、お客様は好きなテーブルに座って飲食します。隅っこには美容サロン、ここは富裕層らしき地元マダムたちの出入りが目立ちます。

館のサインは写真のようにDE BUENKORF、ネット検索するとde Bijenkorf。かつて米国投資ファンドが経営権を取得していた時期は社員の士気はやや低下したとも言われていますが、現在はロンドンのセルフリッジと同じ資本傘下らしく、そう聞くとどこかセルフリッジと同じにおいだなあ、と。一言で表すならオシャレな空気が漂う百貨店です。


(同店3階婦人服フロアにはパリコレ上位人気ブランドが並ぶ)


(同店5階の食フロア)

このバイエンコルフにケンカを売るように最近ご近所に出てきたのがカナダの巨大資本ハドソン・ベイ。ニューヨーク5番街に本店を置くサックス・フィフス・アベニューを買収したことで日本でも有名になった大手小売業。ダム広場から徒歩1、2分の至近距離に4館体制で営業していますが、4館とも全て閑古鳥なんてものじゃない、完璧に従業員しか目に入らない店なのです。従業員は接客チャンスもないのでスマホいじりか仲間内おしゃべり、とても対面販売の百貨店とは思えません。しかもこちらはバイエンコルフとは違ってラグジュアリーブランドの扱いは雑貨でもファッションでもありません。大衆路線が悪いわけではないでしょうが、商品そのものにも陳列方法にも魅力がありません。とにかくガラガラを通り越して、いつ閉店に追い込まれるか、なのです。



(トラムのダム駅には赤い矢印でこの地点から徒歩230メートルと表示)


(トラムのダム駅ハドソン・ベイの看板)

ところで、ハドソン・ベイは北米大陸のすべてのジャンルにおいて最も歴史ある企業ってことはみなさんご存知でしょうか。Wikipediaでチェックするとその歴史にはびっくりします。設立は1670年、つまりアメリカ合衆国建国の100年以上前イングランドの国策会社としてビーバーなどの毛皮を主に扱う会社、最高経営責任者はいまも「総督」の称号がつくようです。以下はWikipediaからの引用です。

設立時、イングランド王チャールズ2世の勅許状に記された正式名称は「ハドソン湾において通称に従事するイングランドの総督ならびに冒険家の一団』(The Governor and Company of Adventurers of England trading into Hudson's Bay)という。同湾に流れ込む全ての河川の流域での毛皮独占販売権を許され、初代の総督をチャールズ2世の従兄に当たるカンパーランド公ルパートが務めた。(中略)

1732年、イギリス東インド会社へ1万ポンドを投資して無用な競争を避けた。オグデンとブラックが親交を深めた結果、1821年ライバル会社のノースウェスト会社を合併することができた。カナダをイギリス通貨圏に収めようという国策からすれば、ごく自然な出来事であった。純粋な通貨の絶対量が不足していた時代において、軽い毛皮が通貨のように使われた。多ければ倉庫証券としてボストン商人などの手にわたって流通した。(中略) 1869年、ハドソン・ベイ・カンパニーはルパートランドをカナダ自治領政府に譲渡し、毛皮貿易から小売業へ事業の中心を移した。

どうやら一般的なプライベートカンパニーではなさそう。長い歴史の中で相当儲けてきた組織、売り先を探していたサックスの買収に止まらず、大衆店メイシーズや高級店ニーマン・マーカスとも買収交渉をしてきました。そんな巨大小売店がどうして今頃アムステルダムに、しかも老舗のバイエンコルフから徒歩1、2分の場所に出てきたのでしょう。売場の商品は近隣商店街のファストファッションよりも魅力はありませんが、どうしてそんな勝てるはずのない大衆路線で都心のど真ん中に出てきたのか、不思議でなりません。インバウンド客も多いエリア、出てくるならば傘下のサックス・フィフス・アベニューのようなハイエンド業態で出てくるべきではなかったのかなと思います。

今後大都会のど真ん中で百貨店営業するのであれば、世界どこでもインバウンド客を呼び込めるお店でなくてはならない、いやインバウンド比率が低いお店では今後都心部でお店を維持できないとさえ思います。人影の極端に少ないハドソン・ベイに比べてバイエンコルフには賑わいがありましたが、5階美容サロン以外ではヒジャブを被ったインバウンド客も少なくありませんでした。

外国人観光客急増の東京都心部でインバウンド売上は多い店でもまだ20%程度、少ない店なら10%前後。この数字、まだまだ低いと言えます。将来のことを考えると、都心部百貨店のインバウンド比率は現在の2倍以上になるべきではないでしょうか。良いか悪いかではなく、そうならなければ都心部で百貨店型ビジネスを継続できなくなるでしょう。ロンドン、パリ、ニューヨークしかり、アムステルダムもしかり、賑わいのあるお店に貢献しているのは実は多くのインバウンド客、そのことを我々はちゃんと受け止めるべきです。

バイエンコルフとハドソン・ベイ、この対照的なお店は今後の百貨店業を考える上でヒントがたくさんあります。関係者には比較視察をお勧めします。






Last updated  2019.03.08 11:23:17
2018.08.11
カテゴリ:太田伸之
2001年1月に亡くなったオヤジの古い写真が実家にあります。

大正8年(1919年)12月10日三重県桑名市の地主で紺屋(染色業)の三男としてオヤジは誕生しました。小学校の頃は学校から帰ると家にカバンを置くやいなや仲間と近く田んぼや川で遊んでばかりいた、喧嘩に強い「やんちゃ坊主」だったそうです。





日本人がキモノをだんだん着なくなり、紺屋の注文は下降線、なので自分が洋服屋になって洋装の世界を見返してやる、とおかしな大志を抱きます。ネットもない時代にどこで調べてきたのか、尋常高等小学校を卒業すると名古屋の松坂屋の面接に行きます。同行したのは三重大学の学生だった長兄、面接の席で「僕は洋服屋になりたいんです」と繰り返し言ったら、面接官が「うちには洋服部がないので名古屋の洋服屋を紹介してあげるよ」と親切にも紹介状を書いてくれたとか。長兄に伴われてオヤジは市内で最も大きな中島洋服店を訪れ、見習いとして入店することに。そのためプライドの高い祖父の逆鱗に触れた長兄は勘当同然、実に気の毒な人でした。このオジキ、私の親友が通っていた小学校の校長先生で退官しました。

奉公があけてオヤジは東京・西新宿の日本洋服専門学校に。そこでパタンメーキングを修得、当時オヤジが引いたパターンの帳面が現存していますが、実に丁寧で惚れ惚れする美しい曲線、腕の良さがわかります。駒形のどじょう屋が大好きでよく通ったとか。私は駒形の「どぜう」の前を車で通るたび、「どじょうを食い過ぎて鼻血が出たことある」というオヤジの言葉を思い出します。




(洋服学校講師の頃、さすがにカッコいい)


インパール作戦で生き延びて終戦、しかし帰国は許されずミャンマーの収容所に入れられました。そのとき収容所の鉄条網の間からミャンマーの地元住民がお米などを差し入れてくれ、オヤジたち捕虜は栄養失調を免れました。帰国後ミャンマーからの留学生を支援する活動に協力していたのは、収容所でミャンマー人に親切にしてもらった恩返しでした。「お前のコムデギャルソン、古いのでいいから送ってくれないか」と弟(当時コムデギャルソン勤務)や私によく電話をしてきたのは、海外送金規制があって満足に衣服を買えないミャンマーの若者たちにプレゼントしてやりたかったから。現在のミャンマー政府高官や経済界のリーダーの中には、私たちのコムデギャルソンのジャケットやシャツに袖を通した人が何人もいるはずです。

インパール作戦は悲惨でした。兵隊は行き先も作戦内容も知らされず、食料もなくジャングルをただひたすら行軍します。連合国軍の補給拠点インパールを目指した日本軍は武器弾薬もなく、雨季のジャングルで栄養失調、マラリアにかかる兵士は多く、途中作戦を諦めてUターン。連合国軍の追撃を受け、数メートルごとに日本兵の遺体が転がる「白骨街道」ができました。敵の銃弾に撃たれた兵士、マラリアで亡くなった兵士、営養失調と睡眠不足で頭上から飛んでくるジャングルの吸血山ヒルを追い払う気力もなかった兵士も。オヤジの部隊のほとんどは戦死、だからでしょう祖父のもとにはオヤジの戦死通知が届きました。帰国後、理不尽な作戦だったことを知ったオヤジは、インパール作戦に関する書物をたくさん読んでは司令官や陸軍参謀の名前をあげて怒っていました。



(陸軍に召集された頃)

松坂屋のパタンナーのあと、私の誕生を機に洋服店を開業。月に2回は東京に出張、紳士服デザイナーの報酬でうちの職人たちの給料が払えたと言いますから、当時としてはかなり厚遇されていたのでしょう。メーカー側から注文洋服店を閉めて東京に引っ越してはどうかと何度も持ちかけられますが、悩んだ末に断りました。尋常高等小学校しか出ていないので英語のファッション雑誌が読めない、そんな学のない田舎者にいつまでもデザイナーが務まるとは思えない、これが断った理由でした。

自分のお店に専念することになったオヤジは前項で書いたヨーロッパ視察に出かけます。そのかいあって新店舗はストアインテリアデザインの賞をもらいました。そして、長男の私に「勉強しろ」を繰り返す嫌な教育パパになりました。私を有名大学に入れ、ロンドンのサビルロゥに修行に出し、家業のテーラーを継がせたかったのです。遊びたい小学生の私にはとんだ災難、正直オヤジを恨みました。ま、愚れたといった方がいいかもしれません。

中学時代は部屋に引きこもって硫酸、塩酸、硝酸など劇薬を薬局から買ってきて化学実験、失敗して毒ガスがシューシュー立ち込め数日自室に入れなかったこともあれば、過塩素酸カリウムを入手して恐る恐る爆弾作り(爆弾になるはずがいつも花火になってしまった)もしました。高校時代は朝から晩までサッカーと歴史書の読書に明け暮れ、勉強はほとんどしたことがありません。

事業を拡大し、朝から晩まで働きっぱなしだったオヤジが急性十二指腸潰瘍と腹膜炎で救急搬送されたのが高校3年の10月、テーラーの顧客でもある外科医に「ちゃんと見ておきなさい」と切開したボロボロの胃袋を見せられ、このままオヤジが死んだら受験浪人なんてできなくなるとここから猛勉強を開始。教室の席はそれまで一番奥のドアの前が指定席(授業中に抜け出すため)だったけれど、改心してからは一番前の先生の前に移動。受験科目でない授業はすべてパス、図書館で受験科目の勉強をしたものです。

進路相談で担任の小林明男(タバコで補導されたりして迷惑をかけたが、いまも恩師とは交流あります)に希望する受験校を言ったら、「太田、滑り止めも受験しないと浪人するぞ」、と。「なに言ってるの、南山大学を2つも受験するやないか」と言い返したら、南山大学出身の小林先生は「お前の成績で南山合格は無理や」。確かにオヤジの手術前では絶対に無理でしたが、「俺は絶対に合格するんや」と反論。次に、「早稲田や明治って言うけどな、お前の行きたい学校は東京六大学やぞ。名門校ってわかってるんか」と先生が言うので、「六大学は野球の話やろ、先生、知らんのか」と。結局、猛勉強のかいあって南山大学経済と経営の2学部、明治大学経営が合格でした。

ここでまた難敵オヤジが出てきます。地元の南山大学に行って、夏休みは松坂屋でアルバイトをして、うちの職人と一緒に洋服の技術も身につけろと言うのです。勘弁して欲しい、自分はこのオヤジの側にいたら潰される、ここは東京の大学経験のあるおじさんたちに明治大学を勧めてもらうしかありません。親族会議があっておじさんたちはオヤジを説得してくれ、ようやく私はオヤジから解放されました。もしオヤジの命じる地元の南山大学に通っていたら、全然別の人生が待っていたことでしょう。

上京を認めてくれたオヤジですが、条件付きでした。昼は普通に大学に通い、夜はオヤジがパタンメーキングを修得した日本洋服専門学校夜間コースで技術を学ぶこと。加えて、将来の渡英に備えて英会話を修得せよ、この2つの条件付きでした。私は製図道具一式、パタンメーキングの書籍、英会話カセットテープを持って上京、夜間コースにも通うことになりました。さらに、夏休みにはオヤジが推薦する科学的パタンメーキングの先生に個人指導も受けました。

オヤジに強要されたパタンメーキングでしたが、学校の講義はつまらないものの服作りそのものは楽しく、私は自分サイズのオーバーオールのパターンを引き、新宿オカダヤで生地を買って裁断し、実家に送って職人に縫ってもらい、ものづくりに俄然興味を抱くようになりました。

渡米してから今日まで、内外のデザイナーやアパレル企業に服づくりのいろんなアドバイスをしてきましたが、その素地は大学時代に身につけたもの。オヤジの希望するロンドン行きではなくニューヨークを選択、家業こそ継ぎませんでしたが、ずっとファッションビジネスの世界でそれなりに仕事をしてこれたのは、やはりオヤジのお陰、オヤジの存在なくして私はなかったのです。






Last updated  2019.03.08 11:22:24
2018.08.10
カテゴリ:太田伸之
​​1964年10月、日本中が東京オリンピックで盛り上がっていたとき、オヤジは三重県認定第1号の国際免許を取得して1ヶ月に及ぶヨーロッパ視察に出かけました。現在のEU各国のお店を自ら運転してまわり、経営するテーラーの店舗デザインのヒントを得るためだったと聞いています。

帰国後、現地で200本以上撮影したカラースライド写真や8ミリフィルムの上映会が我が家の定例イベントになりました。ほぼ毎晩夕食後、オヤジの話を聞かされるのは子供3人と10人余の若い職人さんたち、いまも印象に残っている写真はなぜかピサの斜塔、モーツアルトの生家、小便小僧です。私のお宝箱の中には小便小僧の小さなブロンズ像がありました。きっとオヤジが土産物店で買ってきたものでしょう。

小便小僧の存在なんて半世紀以上私の頭からは完全に消えていましたが、先週ベルギーの首都ブリュッセルを訪れた際、ホテルのフロント係が見物を勧めるので行ってきました。正直、なんじゃこれは、でした。思っていたよりかなり小さな男児の像、これにスマホを向けて撮影する大勢の観光客、なんともユーモラスな光景でした。店舗デザインには全く無関係の小便小僧を前に、半世紀以上前オヤジはここで一体何を思って撮影したのだろう、そんなことを考えながら私もおのぼりさん撮影してきました。




我が家の上映会のことを担任の先生に話したら、「学校(
桑名市立益世小学校)でもお父さんにやってもらいたい」となり、小学校の講堂に集まったたくさんの生徒を前に、スライドを紹介しながらオヤジは楽しそうにヨーロッパの国々の事情を話したことをいまもはっきり覚えています。こういうオヤジに感化されたのでしょう、小さいときから私の中では外国は遠い存在でも特別なものでもありませんでした。のちに大学を卒業してすぐニューヨークに渡ったのも、オヤジのヨーロッパ上映会が少なからず影響しています。

オヤジの生家は戦前まで大地主、戦後の農地改革で土地を没収されるまでは裕福でした。祖父は地元で紺屋、つまりキモノ生地の染色工場だったそうです。日本人が和服から洋服を着るようになった昭和初期、オヤジは将来洋服屋になりたいという夢を持ちます。弟の夢を叶えてやろうと、優しい長兄(当時三重大学の学生)はオヤジを連れて当時名古屋で最も大きかったテーラー中島洋服店に弟を預けてきました。いわゆる丁稚奉公、しかしこのことが祖父の逆鱗に触れます。素封家の祖父にすれば、どうしてうちから丁稚なんだ、お前は大学に行っている、丁稚にやって平気なのかと責められ、長兄は長男ながら太田家を継承できなかったとオヤジから何度も聞きました。

丁稚奉公を終え、東京の日本洋服専門学校を卒業、成績優秀で同学校の講師になったオヤジでしたが、召集令状が来て軍隊に、悲惨で有名なインパール作戦に参加させられ、戦後しばらく現地ミャンマーの収容所で暮らします。恐らくB,C級戦犯の面通しのためでしょう。一方、実家の祖父にはどういうわけか息子の戦死通知が届きました。しかし祖父は、あいつは要領がいいから絶対にどこかで生きていると、帰国してすぐテーラーができるよう多くの服地を買って蔵に積んでいたそうです。

ミャンマーの収容所を解放されてオヤジは帰国、中島洋服店に同行してくれ祖父の逆鱗に触れた長兄の嫁の妹と結婚します。私の母です。当時、オヤジは将来テーラーを開業するための勉強にと、名古屋の松坂屋紳士服部の社員パタンナーでしたが、実家からもらった銀行通帳(大金が入っていたようです)を母に渡して自分の給料はうちに入れず、賞与の存在すら母には隠していたようです。もちろん毎晩の飲み代でしょうね。後年自営して帳簿をつけ始めた母は初めて賞与なるものを従業員に払わなければならないのでその存在を知ったとか、母も呑気なもんです。

二人の間に最初生まれるはずだった女児は残念ながら死産、その2年後待望の子供が生まれます。それが私です。出生直後の名前が「亮之介」、しかし母が猛反対して「伸之」となりました。2年後には弟の秀之、そのまた2年後に妹の育子が生まれました。私の誕生を機にオヤジは松坂屋を退職して独立、技術力は抜群だったので松坂屋時代のお得意様や飲み屋仲間が顧客になってくださり、松坂屋とは紳士服納入業者としても長くお付き合いがありました。別途、毛芯メーカーを設立したり、東京の紳士服アパレルメーカーの顧問デザイナーにも就任、テーラー仲間とは別の都市に共同経営のショップを開業するなど地方都市のテーラーとしてはなかなかのやり手でした。

私たち兄妹は住み込みの職人さんに囲まれ、業務用ミシンや糸巻き、ハサミが遊び道具、毛芯をぬるま湯につけて足で踏んだりちょっとしたアイロンがけを手伝ってお小遣いをもらって育ちました。オヤジがヨーロッパ旅行をした当時、私が小学5年生、秀之が4年生、育子が1年生でした。あの頃、私と弟は町内の少年野球チームに没頭、職人さんたちともキャッチボールに明け暮れ、太田家ではいつも妹はポツンと一人ぼっちでしたね。やんちゃな兄二人がケンカばかりするのを横でシレッと見てた育子、だからか我慢強くものごとに動じない性格でした。

一昨日、ヨーロッパから戻るフライトの搭乗手続きをした直後、予期せぬ育子の訃報が届きました。1週間前「ドクターから年内と宣告されました」と義弟から国際電話をもらったばかり、その朝は「月内かもしれない」と連絡をもらって数時間後に容態急変、信じられない展開でした。

昨秋、妹が乳癌が肝臓にも転移と診断されたとき、「弱気になったらあかん、完治してやるぞと前向きに生活しろ。肝臓に良いから不味いがこれを飲め」と自分が長年続けている漢方の田七人参粉末を送りました。
先月26日に妹から「夏バテもあって身体がだるいです」とメールがあったばかり、これが兄妹最期の交信でした。通夜の席で育子の一人娘が「まずい、まずいと言いながら、田七は飲んでました」。兄の押し付けを受け入れやれることはなんでもやってくれたようですが、結局効果はなかった。

小便小僧は天使なんだとか。半世紀以上前にオヤジが撮影したこの小さな像を私が撮影したことと育子の逝去とは関係ないでしょうが、ひょっとするとあの世にいるオヤジが「天使を見送ってやれよ」と導いたのかもしれませんね。兄妹の中で、総勢18人の従兄弟の中で、一番若い妹が老母よりも早く逝ってしまうとは、兄として辛いです。
​​​​​​​​​​​​​​​​​​






Last updated  2019.03.08 11:21:46
2018.07.31


タイ・バンコクの中心部に大型ラグジュアリーモール「サイアム・パラゴン」、隣がカジュアル路線の「サイアム・センター」、そしてその先にはLOFTなどが入ったオシャレな「サイアム・ディスカバリー」と3つの商業施設があります。運営会社はSiam Piwat(サイアム・ピワット社)、2代目の女性CEOが陣頭指揮をとっています。この会社、政府高官だった創業者が国王所有の不動産を任され、バンコクに初めて海外からの富裕層が宿泊できる最高級ホテルを建てたのがそもそものはじまり。いまもサイアム・パラゴン(東南アジアにラグジュアリーモールは数あれど、ここが一番の賑わいです)のすぐ後ろにはなかなか予約がとれないラグジュアリーホテルなホテルがあります。

かつて西武セゾングループがインターコンチネンタルホテルを傘下におさめていた頃、ホテル誘致で友好関係にあった西武の堤清二さんにこの女性CEOは「バンコクにLOFTを導入させて欲しい」と申し出ました。堤さんはその申し出を快諾、当時の西武香港チームにプロジェクト推進を命じました。恐らくLOFT初の海外展開がここバンコクではなかったでしょうか。以来、サイアム・ピワット社はLOFTを続けています。

LOFTが入居するサイアム・ディスカバリーの久しぶりの全面改装計画を進めていたとき、私は彼女からその構想を伺い、館全体のデザインをnendo佐藤オオキさんに依頼しているので建物の模型を見て欲しいと言われました。nendoの佐藤さんとはかかつて仕事をお願いしたことがあると言ったからです。彼女のオフィスで模型を見ながら、商品展開の問題点などを指摘してあげたので大変喜ばれ、以来サイアム・ピワット社の幹部たちとは非常にフレンドリーな関係にあります。

早くLOFTに着目したり、nendoを起用したり、蔦屋家電の情報をオープン直後に掌握していたり、彼女の時代変化を読み取る能力とセンスはたいしたものだといつも関心しますが、それには秘密があります。世界を飛び回っているタイのファッション誌編集長やファッションディレクター数人をブレーンとして採用しているようです。だから情報が早い、センスのいい仕事ができる、と私は思います。日本の大手不動産会社や大型小売店、多くのファッション専門家を社外ブレーンとして活用しているでしょうか。



(内装も外壁もnendoのデザイン)

サイアム・ディスカバリーが改装オープンしてから、私は多くの企業経営者に同館の視察を勧めています。タイの大手ディベロッパーが日本のデザイン会社に改装を委ね、それがすこぶるカッコいいこと、日本のファッションや生活雑貨、文房具を美しく展開「クールジャパン館」のようであること、日本企業がプロデュースする商業施設よりもクールジャパンっぽく感じること、これが視察を勧める理由です。そして視察から戻ってきた経営者たちは皆「素晴らしい」と言います。

小売業は消費者よりもちょっとだけ前を走っていなければなりません。施設を開発する場合、消費者に明解なビジョン、コンセプトが伝わらなければなりません。消費者に夢を、楽しいショッピングを、新しいライフスタイルを提供するのであれば、館全体はカッコよくなければなりません。日系企業が日本の商品を海外で大きく展開するケース、はっきり言ってほとんどがカッコよくないですよね。日本がやるとどこか泥臭くて感動しないのに対し、このタイの企業は実にカッコよくやってのける、なぜなんでしょう。タイでも、ほかの東南アジアでも、中国でも、日系企業の大型商業施設はたくさんありますが、日本のブランドを、日本の商品をここまで魅力的に見せているビル、百貨店は残念ながらありません。




サイアム・ピワット社の場合、経営者自身のセンスのよさもありますが、社の幹部たちは謙虚に海外事情をよく研究し、我々に接する態度は実に優しく礼儀正しい、加えて社外ブレーンたちの時代を見る感度も鋭い。そして全員がうぬぼれていないんですね、ここがホントいいんです。

実は、前職の社長退任発表があった夜、ちょうど同社幹部と若手チームが東京出張中でした。私が部下を赤坂方面で慰労している間、彼らは西麻布の居酒屋で私が顔を出すのを待っていてくれ、退任の祝杯を一緒にあげてくれました。アドバイスしたことはあっても、在任中に事業を共にしたことがない去りゆく者に、ですよ。義理堅い。

彼らがタイに戻って私の退任ニュースをCEOに報告したら、私たちとの関係が希薄になるのではないかと彼女が心配しているというメッセージを受け取りました。なので、「心配ご無用、弊社内できちんと受け継ぐから」と返事しました。私たちも、私が退任したから関係が切れるなんて不義理はしちゃいけないですし、日系企業以上にクールジャパンを推進してくれている人たちですから、日本は謙虚に彼らから学ばないといけないと思います。






Last updated  2019.03.08 11:27:39
2018.07.29
長年指導してきた会社の海外研修、パリのボンマルシェの特別催事があった年以外はずっとニューヨークとその近郊ショッピングセンター視察を勧めてきました。出発直前、参加者に視察ポイントを例年レクチャーしてきましたし、私自身が研修団を引率した回数は15回以上もあります。フリーランスになったので今秋は久しぶりに私が引率の予定です。

が、今年はあえてニューヨークを止めてシアトルとサンフランシスコに若手社員を連れて行きます。理由は単純、いまアメリカで新しい価値観を体感するならニューヨークではない、新興企業が集積する西海岸の北部以外にないと思うからです。




(顧客満足経営で有名なノードストローム本店@シアトル)


現在アメリカ経済を牽引するグーグル、アップル、ファイスブックはサンフランシスコ近郊、マイクロソフト、アマゾンはシアトルに本社を構え、カリフォルニア州サンフランシスコ近郊、オレゴン州、ワシントン州のアパート家賃やホテル宿泊代は近年急上昇しています。新興IT企業はこの3つの州の市町村に本社あるいは本部機能の移転を持ちかけ、用地提供やインフラ整備などで有利な条件を引き出そうと交渉します。新興企業の高所得者が大挙して流入するとなれば誘致した地方自治体には多額の住民税が入るので、どこもあれこれ良い条件を提案するそうです。

新しいタイプの富裕層がどんどん流入すれば、周辺地域のライフスタイル、住民の生活価値観はガラリ変わってきます。極論すれば、新興企業で働く新富裕層の価値観は従来のニューヨークやダラス、ハリウッドのキンピカ富裕層とは違うのではないでしょうか。例えて言うなら、オフィスから近いエリアに居を構え、通勤はあえて自転車、でもオフの日はフェラーリやランボルギーニなど高級車に乗っているかもしれません。無駄な家具などは買わずシンプルライフ、キンキラキンのアメリカンには顔を背けてMUJIに通ずるテーストのものを愛し、添加物入り食品にはネガティブ、美と健康への関心はすこぶる高い、と私は想像しています。いまどきのリーディング企業のCEOは記者会見時はノーネクタイでもノージャケットでもなく、Tシャツにジーンズかチノパンですよね。わかりやすく言うなら、トランプ一家とは対極のテースト、ライフスタイルの持ち主ではないでしょうか。

ワシントン州シアトルやオレゴン州ポートランド、あるいはサンフランシスコから「スターバックス」や「サードウエーブコーヒー」など新しい飲食の業態が生まれるのは、新しい価値観の持ち主がこのエリアで急増しているからだと思います。つまり現代のアメリカンライフスタイルの担い手は、旧来の東海岸エスタブリッシュメントや巨大生活産業の企業群ではなく、西海岸の新富裕層と新しいサービスを考案する新興企業でしょう。

だから、彼らの暮らしぶりや新しいビジネスの芽を売場から読み取り、将来のファッション流通業を考えるヒントとするためには、例年通りのニューヨーク視察ではなく、あえて西海岸北部に行くべきではないだろうか、と今年は海外研修の目的地を変更しました。

もう一点、研修参加者に体感させたいことがあります。顧客満足経営でシアトルから全米に店舗網を拡大していったノードストロームの本店で、どのようなお客様サービスが行われているのかを実際に体験し、そのサービスは今後も小売店の武器となりうるのかをどうかを考えてもらいたい。モノを買うだけならいまやネット通販で買えない商品はありませんし、デリバリーも早いので不便は感じません。レジをいちいち通らなくてもいいビジネスモデルも実験中の世の中、従来型の小売店はモノだけ売っていては絶対に将来はありません。モノ販売と、コト、トキをどのように絡ませて付加価値を高めるのか、対面販売サービスをどこまで向上させねばならないのか、それを考える上でノードストローム本店にはヒントがあるのではないかと期待しています。もちろん視察してがっかりする可能性もあるでしょうが...。






Last updated  2019.03.08 11:33:40
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