|
カテゴリ:小説
62
入院から3日が経ち、彼女の表情にも疲れが見えていた。初めてのデートの帰りに僕がこんな事になればそれも当然の事だろう。まだ、付き合ったとは言えないくらい短い時間しか一緒にいないのに、彼女は献身的に僕の事を看てくれた。そんな彼女に感謝しつつも、もう来てほしくなかった。 感謝の気持ちどころか何も彼女に伝えられない、そんな僕をこれ以上見てほしくなかったからだ。 手が、足が、指さえも動かない。そんな状況の中、自分の体が急に変化し始めた。それはたぶん、僕にしかわからない変化なんだろう。彼女も医者も気づいている様子はなかった。僕の中心に種が植えられ、そこから根が生えていくような、そしてその根がどんどんと拡がっていくような、そんな感じがした。 その根は僕の体を動かそうとしているのがわかった。 まず、指が動くようになり、それから右手が動くようになった。左手、足、声も出るようになった。初めて発した言葉は彼女への感謝の気持ちだった。 そして、入院から1週間目、あれはいったい何だったんだろうと思えるほど、僕の体は元に戻っていった。 彼女は涙ぐみ、そして僕を抱きしめてくれた。 63 退院したばかりだと言うのに体の調子はすこぶる良かった。入院前より確実にいいと思えるほどだった。考え方に関しても何かポジティブになっている自分に気が付いていた。頭の回転もすごく良くなっているようだった。 でも、退院した後はこんな感じなのかな、と思っていたせいもあって、たいして気に留める事はなかった。 久しぶりの通勤電車。もうすぐ、彼女が乗ってくるはずだ。僕はどんな風に声をかけようか、どんな話をしようか、そんな事をたった一駅の間に一生懸命考えていた。そんな楽しい事を考えるには一駅という距離は短すぎた。もう、ホームには彼女の姿が見えた。 「おはよう。」 僕と彼女の声が重なった。こんな事でも楽しくなり、二人ともクスリと笑った。彼女はさりげなく僕に寄り添うような感じで隣のつり革に掴まった。 「もう、大丈夫?」 こんなに元気な姿を見てもまだ彼女は心配そうだった。こんな可愛い彼女を心配させる訳にはいかないと思い、僕は腕まくりしているYシャツで思い切り腕の筋肉を動かして見せた。その隆々とした筋肉は彼女を安心させるには十分だったようだ。 「すごい筋肉。大河内君って着痩せするタイプなんだね。」 そんな風に言う彼女の期待に応えるように返した。 「鈴木さんくらいなら簡単にお姫様抱っこ出来るね。」 笑いながらそう言う僕に彼女はちょっと怒っていた。その表情を見て僕は気が付いた。これからは彼女の事を“鈴木さん”ではなく“友里さん”と呼ぶように約束させられていた事を。 「ごめんね。友里さんだったね。」 それを聞くと彼女は本当に満足そうだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年08月08日 23時43分46秒
コメント(0) | コメントを書く
[小説] カテゴリの最新記事
|