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そしてガラスの舟にのる

私はALSなんですよね?

 
【私はALSなんですよね?】・・発症から告知まで・・


1995年1月    子供がほしい!と望んで、念願の第一子を出産。
           前置胎盤で出血し、一ヶ月の入院・安静の末、
           二ヶ月早く帝王切開で出産。
           退院後、育児と引越しの片付けに追われ、
           体力も筋力も出産前に戻ったと思っていた。

           ふと右手の親指に違和感を感じる。
           洗濯バサミが上手く開かない。
           仕事で一番酷使していた指に、疲れが出たのだと分析。
           手術時の麻酔の影響かとも。

           子供を連れて行ったデパートで、離れた子を追いかけようと、
           一歩目を出すと同時に転倒。
           初めての感覚。
           いくら30才になったからって、考えられない。
           物に躓くでも、滑るでもない。足から力が抜けていく感覚。
          

1997年3月    第二子、帝王切開で出産。
           トラブルではなく子宮破裂のリスク軽減の為。
           退院後は一人を抱き、一人の手を引き移動するので,
           歩行の変化の自覚はなかった。
           右手の違和感は強まり、手のひらを使い家事をする。
           左手も脱力を自覚する。

          
1998年10月   第三子、帝王切開で出産。
           両手共に指が動かしずらくなり、階段を下りる際、
           膝がかくかくとふらつく。


1999年8月    近くで働きながら子育てを手伝ってくれていた母が、
           幼馴染との再婚で帰郷が決まる。

           その前にと近くの整形外科を受診。
           若く歯切れの良い医師に、すぐさま転院を進められ、
           その場で日本赤十字病院の検査予約を入れる。
           紹介状には「脊椎症の疑い」とあったが、脳や神経の腫瘍、
           神経系の病気の可能性がある事も告げられる。
          
           神経内科で一通りの検査を通院で受け、
           MRIにて胸髄7番8番に腫瘍発見。
           整形外科で夫と説明を受ける。
           経過から良性の可能性が強い事。
           腫瘍が大きくて神経を圧迫しているので、後遺症の危険がある事。
           腫瘍の位置から手の症状の原因ではない事。

          
1999年12月   脊髄腫瘍摘出。後遺症なし。
           コルセットの取れる4月までは経過観察。


2000年6月    MRIで検査。
           神経も正常に戻るが手足の症状に改善なし。
           再び神経内科に戻り、神経、筋肉系の検査を始める。

           腫瘍摘出までは手術後は元の身体に戻ると信じていた。
           整形外科医の「原因は別」の言葉も、
           神経内科医の「気のせい、過労だ」の言葉も答えではない。
           朝、目覚めると手が動く、思い切り走れるはずと、
           時を重ねても、何も変わらない。
           どんなに無視してもそこに正体のわからない不安は確実に存在する。
           治っていない自覚を持ち、新たな検査を願い出る前に、
           医学書の数々を読みあさる。
           結論は、「運動ニューロン疾患」
           中でも完全に経過、症状が一致するのは
           「筋萎縮性側策硬化症」=ALSだけ。
 
           検査が進んで行っても何の説明もなく苛立ちながら、
           針筋電図検査を受ける。
           二人の検査技師のささやきが聞こえてくる。
           激痛に耐えながら納得できる答えが出たと安堵さえした。
           「ニューロンだな・・・」
           小さな優しいつぶやき、彼らは聞こえた事に気づいていないだろう。
           私にとってはこれが「告知」だった。
           実に自然に、涙も戸惑いもない。
           自分の中で疑問と納得のふたつのピースがスキマなく重なった。
  

2000年8月    もう後は告知を待つだけなのに、時は訪れない。
           「私ALSですよね?」
           「ありえない。」
           転院を申し出、検査資料持参でK大学病院へ。
           

2000年10月   検査入院で、重複した無駄な時を過ごす。
           結果はわかっているのだ。Drから聞きたいだけ。
           明らかな錐体路系障害を無視して、
           「進行性脊髄性筋萎縮症であり、
            進行は10~20年の単位で天寿を全うする」と言い切る。
           この時点では脊髄性筋萎縮症は難病指定されていなかった。
           それなのに難病指定申請しなさいと言われる。
           申請の病名はALSになっていた。
           唯一のALS治療薬の服用も始まったので聞いてみる。
           「私ALSですよね?」
           「あなたみたいな若い患者はいないよ。」
           もう35才になっていた。
           優しい先生、あなたが思っているほど私は馬鹿じゃない。
           あなたが思っているほど私は弱くもない。


2002年10月   難病担当の保健師さんが整わない支援体制を慮り、神経難病相談会に参加を勧める。

           都立神経病院のDr.Kの前に座る。
           これまでの経緯を聞いてらしたDrは一通り診察し、5分程で口を開く
           「ALSです。転院しますか?」
           穏やかな口調で、はっきりと真っ直ぐに向き合う姿勢が伝わってくる。
           初めてDrの前で泣いた。
           悲しいのではない、やっと信頼できる人を見つけたのだ。
           求めていたのは優秀なDrではなく、私の生き方を見てくれる人、なのだ。
           「もうあなたはすべての整理が終わっているようですね。
           一人で抱え込まない体制を作りましょう。」
           何からも逃げていない強い意志に感動した。
           
           簡単な確認の検査を外来で済ませ、夫と告知を受ける。
           いずれ呼吸器、胃ろうと進行する事。
           呼吸器の装着を最後まで勧め、生きてほしい事。
           無意味な民間治療にはしって、お金と時間を無駄にしない事。
           
           告知の後、私の生活は一変する。
           泣いてる暇も与えられず、人と物の支援ネットワークが整えられていく。

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