私が住んでいた団地・・・
私の堺市に実家のある団地、母親が施設に入ったことにより不要となったモノを全て撤去したことによって、どんがら状況になりました。1972年1月に大阪市内の住吉区我孫子から引っ越してきていて以来、53年にわたり暮らしてきましたが、本日この部屋の鍵を返却しました。 1972年1月というと私がまだ4歳のころ。我孫子のアパートからトラックに荷物を載せて真新しいこの団地へやってきた日のことは今でも覚えています。当時は田んぼの真ん中に真っ白い団地が並んでいましたが、周りにはお店が一切無くて日々の買い物は徒歩片道20分の小さな市場まで行くか移動スーパー(大型バスを改造したもの)が頼りでした。そこから、だんだん開発されて住宅が建ち並んで、団地内にスーパーが出来て便利になっていきました。 私も弟も地区内の幼稚園~小学校~中学校と通って、高等学校も堺市内の学校に通いました。就職してからも結婚するまでの間はこの団地から職場まで通っていました。1996年に結婚して西宮へ引っ越すまでの24年間暮らして、その後も子どもが産まれて帰省するなどいろんな思い出のある部屋でした。 荷物を撤去すると、ポスターや子どもの頃に旅先で買い求めたペナントが長らく貼ってあったところはそこだけ色あせから免れていました。また、この団地の壁は塗り壁ではなくて、ベニヤ板のような壁だったことから亡き父が壁紙を貼っていました。かなり古い時期に貼ったものは剥がせたのですが、新しい時期に貼ったものはきれいにとれずにそのまま放置にしました。これは、この団地が「入居停止」となっていることから、原状復帰をしなくてよいということによるもので、これはかなり助かりました。 亡き父と母親の部屋です。私の子どもができて帰省すると、ここでよくみんなそろって食事しましたね。晩年は腰の悪い母親がここにベッドを置いて寝ていました。 私の部屋があったところです。古い事務机を置いて高校まで勉強していましたね。 弟の部屋です。タンスがたくさん置いてあって、阪神大震災の際によく倒れなかったなぁって思いました。 キッチンです。ここで親子4人で食事していました。狭いながらも工夫して座っていましたね。焼き肉好きな亡き父でしたので、焼き肉はここでよくやりましたよ。 トイレと洗面台です。トイレのドアの装飾も亡き父が施しました。元々建築士だったし、このような作業は得意でしたね。 風呂です。最初は強化プラスチックのような風呂桶でしたが、私が中学くらいの時にこのステンレス製の風呂桶に代えました。風呂釜も亡き父の知り合いに頼んでより性能のいいものにかわりましたし、その他にも使い勝手の良いようにしていました。 納戸です。ここには、日持ちがする食材やあまり使わない食器、もらったけどそのままになっていたコップなどがたくさん入ってありました。その扉には、私が子どものころに貼ったシールの残骸がありました。 拡大しましたが、なにだったか覚えていません・・・。 キツネの絵と鳥の絵だった記憶があります。何かのキャラクターだったかな? そういえば、私が子どもの頃ってビニールのフィルムに絵が描いてあって、それをガラスやこのような木製のところにこすりつけて転写するおまけか何かがあったような・・・。また調べてみますね。 そんな思い出の多い部屋でしたが、どんがらになってその部屋を出て行くというのはなんとなくさみしいなぁって思いました。 最後に、私が子どもの頃によく遊んだ団地裏の公園にも久しぶりに行ってみました。今となっては遊ぶ子どもの数がいなくなって、シーソーとブランコしか残っていません。子どもの頃は、砂場もあったし鉄棒もあった。象さんの形をした滑り台もあったかな。そんなところの隙間を使ってキックベースボールをしたのもよく覚えています。それだけ子どもの数が多かったんですよね。 もうこの団地に戻ることはありませんが、わたしのところの墓はこの近くにありますので、墓参りには何度もやってくるとは思います。その時にまたふらっと立ち寄ってみようかな。