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あけやんの徒然日記

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あけやん2515

あけやん2515

2021年01月17日
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カテゴリ:雑感
1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生しました。私は当時、神戸三宮にある貿易センタービルにあった職場に勤務しておりました。当時28歳で就職して8年目、神戸勤務になってからは2年目の勤務でした。堺市にある実家から神戸三宮まで約2時間かけて通勤するいつもと同じ朝を迎えるはずでした。しかし、その日は平穏な普通の朝を迎えることはできませんでした。幸いにも私の住む団地には何の影響もなかったのですが、テレビから伝えられる映像は最初のうちは情報が少なくてよくわからず、とりあえず通勤で使用していたJR鳳駅に行ってみたものの列車は運行していませんでした。ただ、運転士の話によると、神戸方面はかなり被害が出ているということで心配しつつ家に戻ってテレビをつけると、信じられない光景に目を疑い、気が付けば涙を流していました・・・。
 それから1週間ほど経過して神戸の職場へ行ってみると、見るも無残な状況でした。机やロッカーが地震の揺れで動き回ったのか元がどの位置だったのかわからず、書類は散乱していて足の踏み場のないような状況でした。これが勤務時間中だったらと思うと、机やロッカーで挟まれたりして無傷では済まなかっただろうと思います。
 そんなこともあって、私は毎年この日だけはたとえどこに出張に行っていても、午前5時46分には神戸の方を向いて手を合わせています。
 
 さて、朝日放送のHPにおいて「激震の記録1995」という当時の映像が見られるサイトがあります。朝日放送や視聴者が撮影した震災当時の映像やその後の復旧に至る状況を映像として残しているもので、私もいくつか見ていました。
 今でもそうですが、災害発生となればマスコミが先を争うようにヘリコプターを飛ばして空中映像を撮影し、地上では取材班が被災者の撮影とコメントを取ることをしています。あれって本当に迷惑なんですよね、ヘリコプターの音で助けを求めている人の声や聞こえなかったりするし、被災した人のコメントを取ったところで悲しいに決まっているだろ!って思うし、そんなの役に立たないだろうって思っています。ただ、「震災の記録として映像を残す」、そして「そういう震災があったことを後世に語り継ぐ」という点では、ある意味正しいと思っています。

 そのいくつか見ていた映像の中で、貿易センタービルの敷地内に臨時のダイエー三宮南店ができたときの映像があって、これはよく覚えています。まだ職場周辺で買い物しようにも不便なことがあったので、至近にできたのでかなり便利になったなぁという印象でした。当時の通勤時には、必ずリュックに水や食料持参で動いていましたが、代替バスが混雑&定時運行でなかったことから歩くことが多くて、その疲れも蓄積されていたことから、途中で食べたり飲んだりすることも考えると水や食料の確保をすることが大事だったんです。

 それから、阪神が青木まで復旧工事が完了したときの映像もありました。私はこの青木駅から最初は代替バスで三宮まで行っていましたが、道路は大混雑で歩いた方が早いのでは、と考えて悪天候の時以外は歩いていました。青木駅南側の焼けた落ちた状況を見たのも覚えています。
 その後、阪神は御影まで復旧、JRも住吉まで復旧したので、御影または住吉から代替バス利用または引き続き徒歩で三宮まで行っていました。JRが住吉までつながった時は、少し歩いて阪急御影駅から被災した阪急神戸線の中でいち早く復旧した御影~三宮間を利用したこともあります。

 代替バスの話が出たついでに、代替バスは阪神、JR、阪急が不通区間となったところに自社の路線バスはもちろんのこと、観光バスや系列のバス会社からも応援が来ていました。特にJRには赤い車体のJR九州バスの路線バスも応援にやってきていて、私も実際に乗ったことがありますし、映像にも残っていました。私も写真に収めたかったのですが、とてもそんな余裕はなかったです・・・。
 
 あと、代替バスが定時運行できなかったことについて、これは復旧作業のために多くの関係車両が一気にやってきて大混雑したことによるもので、のちに代替バスが通行する「専用レーン」が設けられたことによって少しは改善されたのですが、それでもどうしてもそれらの車両と交差するところを起点として混雑していたように記憶しています。そんなこともあって、私は歩くことが多かったんですけどね・・・。
 その復旧作業のための関係車両には、確か警察だったか自治体だったかがはっきり覚えていないのですが、発行したことを証する証票が発行されていました。そして、それをフロントガラスに掲出することにしていたのですが、その証票が偽造だったりコピーされたものだったりということがあったと思います。阪神間を通る国道2号線、国道43号線は通常でも交通量が多いところですが、震災で阪神高速道路神戸線が倒壊して通行できなかったことも拍車をかけていて、いつの時間帯も車の列が並んでいました。車の通行規制をするのが混雑緩和になるのは当然ですけど、神戸周辺の多くの建物や構造物が一気に壊れたものを復旧させるわけですから、そんなことなんてできるわけがない。災害が起こった時に車の移動をどうするのか、というのはなかなか解決策ってないんですよね・・・。

 映像を見ながら1995年当時の神戸やその周辺の状況を見ながら、また涙していました・・・。





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最終更新日  2021年01月17日 08時10分56秒
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Re:あれから26年・・(阪神・淡路大震災)(01/17)   MoMo太郎009 さん
思い出と言うとなんか被災されたみなさんには申し訳ないのですが、拙は当時は海外にいて、なんか大変なんで一時帰国して、西神にあった実家の方へ行きました。
実家は無事でしたが、小中高と過ごした西宮に住んでいる友達の様子が心配で、行ってみました。水がなかくて困っているかなと思って、キャリーバッグにペットボトルの飲料水を持っていったのですが、すごく重かったです。
それから、不思議だったのは浜田温泉という銭湯が阪神の久寿川駅の近くにあったのですが、そこが営業していました。本当に温泉だったのか、ガスではなく薪で風呂を沸かしていたのかどうだったんでしょうね。
それからしばらくするとコンビニに商品があって、それも大したものだなと思いました。
なんか書くと一杯あって、また、折を見て整理して書いてみたいと思います。 (2021年01月17日 21時52分29秒)

Re[1]:あれから26年・・(阪神・淡路大震災)(01/17)   あけやん2515 さん
MoMo太郎009さん、いつもありがとうございます。

震災後数日は飲み水も食べ物も不足していたので、私も当時の上司が仁川に住んでいたので、西宮北口から水や食料を持って歩いて行きました。
その友人の方は大丈夫だったんでしょうか?

そういえば、水を入れるためのポリ容器が不足していて、阪神西宮近くに住んでいた同僚からポリ容器を貸してほしいといわれて、貸してあげたのを思い出しました。入れ物がなければ水があっても溜められませんからね。 (2021年01月17日 22時09分54秒)

Re[1]:あれから26年・・(阪神・淡路大震災)(01/17)   あけやん2515 さん
MoMo太郎009さんの書き込みでもう一つ思い出したことが。

浜田温泉は、ガス炊きだったか油炊きだったか、はたまた薪炊きだったかは覚えていないのですが、昨今の地震や災害に備えて薪炊きが可能な銭湯には、災害時に使えるような薪や水、食料などを備蓄するようにしているところがあるそうですね。銭湯は減ってきているとはいえ、災害時の拠点になるとは心強いですね。

災害の復興作業で疲れを癒すのは、温泉でさっぱりすれば落ち着くと思うのですが、浜田温泉周辺の方はありがたかったでしょうね。
そういえば、JR尼崎駅近くにキリンビール尼崎工場があったんですが、ここは奇跡的にボイラーが使え、水も出るということで近隣の方に飲み水や温泉を提供したとのこと。災害時にこのような支援は本当にありがたいものだと思っています。 (2021年01月17日 22時23分09秒)


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