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さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

ショーケン 山城新伍 マグナム

ショーケン

「ショーケン」(2008年3月初版、講談社、表紙も本人が描く)を一気に読んだ。


ショーケン


 ひょんなことから手にしたのだが、これが、読ませる。

 ショーケンが大麻吸引事件で黙秘を押し通したところが特に面白い。過酷な取り調べを受けても、自分が他人を売るような真似は決してしない。自分の信念を曲げないのだ。

 自分を律すると、徹底する。黙秘すると罪が重くなると分かっていても、親友を売る分けにはいかない。

 ショーケンは人物である。

 さて、全編を通じて感じるところは、ショーケンが性格破綻者ではないかと一度は思わせることである。しかし、よく読んでみると、自分に正直で、実は根はシャイなだけなのだと気付かされるのである。

 ショーケンは瞬時に石原裕次郎も自分と同類であると見抜く。そうなのだ。シャイではにかみやなのだ。全ての表現はその裏返し。しかも極端な表現方法である。突き抜けるのである。

 映画監督の黒澤明も実は同類ではないか。それを知っていたからショーケンを使ったのだろう(影武者)。それほどピュアである。映像の中で光るはずだ。だから、ショーケンなのだ。

 しかし、いい年こいて、何時までもピュアはないだろう。人間は年を取るのである。年輪を重ねるのである。

 年を取って、どう狂気の人間を演じるのか。それが実は問題なのである。自分に何かが憑依して、ただ演じればそれでよいというものではない。役者は自分の表現を計算して演じるのである。

 これから彼が本当の役者になるのが楽しみである。


山城新伍死す

 惜しい俳優を亡くしたものである。


瘋癲老人日記3


 少し前の週刊誌が山城新伍のことを認知症で徘徊などと掲載していた。本人がすぐにテレビでそうではないと反論していたが、白髪が目立つその姿に往年のスターの面影はなかったように思う。

 マスコミは水に落ちた犬を叩く。

 しかし、ここで云いたいのは、そのようなことではない。

 新聞報道によると、死因は嚥下障害による肺炎とある。実は、母も同じ理由で肺炎になった。母の場合は運良く肺炎も治癒し、嚥下障害もなくなった。

 嚥下障害は、実は、難儀なのである。

 上手く食道からモノが飲み込めなくなるので、最後は「胃ろう(胃に穴を開けてそこから流動食によって栄養を取る)」を検討せざるを得なくなるからである。

この「胃ろう」という手術は、しかし、治療の一環である。

「胃ろう」により栄養が体内に入り、体調が回復することによって、嚥下障害が治れば、胃の穴を塞ぐことも簡単である(自然に穴は塞ぐのだそうだ)。現に、そういうケースも散見されるという。

 また、「胃ろう」になっても、日常生活上での支障はない。風呂に入ることも出来るし、旅行に行くことも可能である。だから、「胃ろう」という手術は一般的というのだが、胃に穴を開けるのが好きな患者などどこにもいない。

 何が云いたいのか。

 山城新伍の場合は、親族から絶縁されていたというし、本人の意識もしっかりしていたという。

 そうであれば、本人の意思で胃に穴を開けるのを拒否したのかも知れない。それは彼の最後のダンディズムである。

 良い役者がまた一人いなくなった。仁義なき戦いで見せたあのあくの強い、そして八方破れの演技は絶品であった。

 享年70歳。合唱。



ビッグマグナム黒岩先生(前篇)

 新田たつおの漫画作品に「ビッグマグナム黒岩先生」というのがある。


山口和彦1.JPG


「別冊漫画アクション」(双葉社)によって昭和57年より長期に渡って連載された(単行本は全7巻)。

 おいらは新田たつおが好きで、この漫画をよく読んだものである。

 ストーリーは単純で、不良生徒たちの校内暴力によって荒廃している学校にマグナムを携行した黒岩鉄夫が現れ、学校を建て直して行くという一話完結ものである。

 そのときの決め台詞が「私は文部省から銃の所持を許可されている」というハードボイルドもどきの作品である。

 無論、文部省に問い合わせるとそのような教師がいる訳がないとされる筋書きであった。

 これが昭和60年に横山やすし主演によって映画化されていた。

 出演者は横山やすしのほかに、西川のりお、長門勇、南利明、高田純次、ベンガル、たこ八郎、木村一八、陣内孝則、島田紳助、松本竜介、伊東四朗、チャンバラトリオ、白都真理、武田久美子、工藤静香などの錚々たるメンバーである。

 これだけの共演者である。それに横山やすしの怪演が想像できる。コメディ映画の傑作が期待できるではないか。

 おいらは上映当時この映画を観たいと思っていたのだが、残念なことに見逃していたのである。

 ところが、先日、「70年代プログラムピクチャの雄 山口和彦NIGHTS」というチラシ(写真上)をゲットし、その映画が「ラピュタ阿佐ヶ谷」のレイトショー(夜9時開始)で上映されると知ったのである。

「ビッグマグナム黒岩先生」の監督が山口和彦で、彼の作品群(11作)が上映されるのである。

 おいらがいそいそと阿佐ヶ谷に出向いたのはいうまでもなかろう(この項続く)。


ビッグマグナム黒岩先生(後篇)

 さて、映画「ビッグマグナム黒岩先生」の感想を云う前に「プログラムピクチャ」について触れておかなければ片手落ちである。


山口和彦2.JPG


 このレイトショーには「70年代プログラムピクチャ」と冠がある。

 だが、どうもこのプログラムピクチャと云う意味が今一つピンとこないのである。なぜなら、プログラムピクチャの定義には定まったものがないからである。

 ウイキペディアによれば、「B級映画と同じように用語の使い方によって微妙にズレる場合がある」とされている。

 だが、今回のチラシのような使われ方をしている場合のプログラムピクチャとは、次のようなものだ。

 映画の年間プログラムを埋めるために作られる作品(ピクチャー)群のことを云い、本邦では1950年代から70年代にかけて量産された映画のうち、メインではなくむしろ添え物(B級映画)として作られた作品をさすことが多い。

 そうだとすると、低予算ながらも監督の趣向が色濃く出る映画である。

 中村和彦は70年代の東映ポルノ映画や千葉真一、梶芽衣子、志穂美悦子らの主演映画を監督している。彼の「ネオンくらげ 新宿花電車」や「怪描トルコ風呂」などの作品はまさしくプログラムピクチャである。

 それに昨日書き込んだように横山やすしの怪演が期待できる。

 そう思って定員48名の会場に入る。(16年1月)22日(金)の楽日であったが、入場者は半分以下の20数名。そんなものなのか。

 さて、その映画「ビッグマグナム黒岩先生」であるが、結論から云うと失敗作である。

 ちらしによれば、「ナンセンスとアナーキーを極めた80年代漫画原作映画の金字塔」とあるが、ナンセンスもアナーキーも中途半端であった。これでは金字塔が泣く。これは脚本が悪いせいか。

 それに横山やすしの出来も悪い。

 漫才の出来に遠く及ばないのである。台詞は棒読みに近い。これは一体どうしたことだ。西川のりおの方がまだのびのびと演じていた。コメディアンに性格俳優をやらせたら天下一品が多いのに驚きである。やっさんよ、映画をなめてもらったら困る。

 結局、この映画で山口和彦は不完全燃焼であったはずだ。俳優陣がよかっただけに余計残念である。

 ま、期待しすぎて観る映画によいものはないという格言は当たっているのかもしれないが…(この項終り)。


ビッグマグナム黒岩先生(余話)

「ラピュタ阿佐ヶ谷」のことについて、余談を書く。


ラピュタ阿佐ヶ谷地図.gif


 まず、どうでもよいことだが、「ラピュタ阿佐ヶ谷」の場所を見つけるのは難解であった。無論、事前に地図を見ていたし(上)、駅前で念のため場所を確認していたので、楽勝のはずであった。

 しかし、夜間だったこともあってか探し辛かったのである。

 ラピュタ阿佐ヶ谷は普通では考えにくい場所、つまりちょっと路地に入ったところに鎮座していたのである。しかも、映画館とロビーが隣接している構造なので、これが映画館の構造物か?と最初は驚くのであった(皆さまもお気をつけあれ)。

 とまれ、まっすぐスロープを上がると映画館、右手を向くとどうやら「もぎり」らしく、右手のドアを開けて中に入るとそこはロビーであった。

 おいらは入館料千円を支払うと14人目だと告げられる。なるほど定員一杯になったらおしまいなのだろう。

 しかし、ここまでであれば何もこのブログに書き込む必要はない。

 おいらが「むむ、お主できるな!!」と思ったのは、ロビーでトイレを借りたときであったのである。だから、本日はそのときのことを書く。

 巴里を訪問したときのことを思い出したからである。

 トイレの内部は下のとおりである。


IMGP7141.JPG


IMGP7149.JPG


 東京でも古いビルではまだこの手の上部のタンクのレバーを下に引く水洗式トイレがある可能性がある。

 それが、比較的新しい建物のトイレに据えられているのだ。

 しかも、巴里を彷彿とさせる便器である。これはいいねぇ。おいらはすっかり嬉しくなっちまった。

 こういう独創的な(いやノスタルジアチックな)スタイルを貫くところがいいのだよ、ラピュタ阿佐ヶ谷は。う~む、おぬしもやるよのぅ。




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