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さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

大黒屋光太夫 無縁社会 表現の自由

大黒屋光太夫

 江戸時代の日本人が優秀であったとする証左として、大黒屋光太夫が引き合いに出されることがある。


帆船


 伊勢(三重県鈴鹿市)に生まれた大黒屋光太夫(1751年~1828年)は、偶然ロシアに漂着する。回船の船頭であった光太夫は、駿河湾沖で遭難し、アリューシャン列島に漂着した。

 その光太夫は、イルクーツクで学者のラックスマンに認められ、サンクトペテルブルクに行く。

 仏探検家ジャン・レセップスがカムチャッカの町に立ち寄り、ロシアの地方長官の家を訪問したとき、偶然大黒屋光太夫に会っている。

 レセップスはそのときのことを詳しく紀行録に残し、光太夫を自己の考えを堂々と述べる人物と評している。井上靖「おろしや国酔夢譚」もその紀行録について触れている。

 サンクトペテルブルクでも光太夫は、当時のエカテリーナ女帝に2度拝謁し、当時のロシア上流階級に一目を置かれる人物であったとされている。

 さて、ここで何が云いたいかというと、大黒屋光太夫は市井の人間であったということである。幕府のエリートでもなければ、学者でもない。選ばれてロシアに行った訳ではない。偶然、タダの町人がロシアに行ったのである。それが、ロシアで人生感を論じ、天下国家のあり方を論じていたのである。

 江戸時代の人間が全て光太夫のようであったというつもりはない。しかし、江戸時代の文化が爛熟し、このように当時の一般庶民でも人間的な資質の高さを有し、知的レベルが優秀であったことには驚かざるを得ない。

 今の世で一介のサラリーマンが大黒屋光太夫同様にロシアに漂着して、光太夫のように振舞えるかというと、疑問に思わざるを得ないだろう。

 今の日本は、どこへ向かって漂流しているのか。


日本人の規範

 7月中旬に発生した北海道大雪山系トムラウシ山の遭難は痛ましい事件であった。お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りする。


執金剛神


 いずれ、社会学者がこの事故をリスク論の観点などから分析するのだろうが、ここでおいらが云いたいことは、最近の日本人の規範についてである。

 これは明らかにツアーガイドの判断ミスという、人災である。しかし、ただ単にそういう言葉だけで終わらせて良いのだろうかと思うのだ。

 ガイドが考えた根底に、ツアーの日程が決められており、スケジュールを変えることが出来なかったということが挙げられる。ツアー参加者は、下山した日の格安航空便に乗車しなければならず、飛行機に乗り遅れたら再び航空券を購入しなければならない。

 それは、場合によっては、ツアー会社の負担とならざるを得ず、同時に、ガイド自身も派遣扱いのため、自分自身がクビになることを覚悟しなければならないのである。こうしたツアーの宿命がガイドの前に立ちはだかっていたのだ。

 だから、ガイドの規範は、会社の云いつけ、すなわちスケジュールを偏に守らなければならないということである。すべての行動規範は、スケジュールの順守であり、例え命を落とそうが、行動規範の変更などを考えてはいけないのである。

 しかし、この行動規範によって、ツアー参加者一五名中七名が死亡、ガイドも三人いた内の一人が死亡したのだ。

 早い時点で下山すべきだったのである。だが、現実にはガイドは強行した。そして、多くの犠牲を出した。おいらはこの事件を調べてみて、その根底にある日本人の行動規範がおかしくなっているのではないかと考えるのである。

 ガイドは何よりもツアー参加者の命を優先させるべきである。それは基本中の基本である。会社の云いつけの順守は当たり前であるが、誰に云われなくても、命が一番大切であることはそれ以前の規範である。

 現代は、そういうことが分からなくなるような時代になっているのではなかろうか。

 おいらがニューヨークに住んでいたとき、現地で運転免許証を取得した。そのときに、運転免許のための講習に参加した。今でも覚えている教師の言葉がある。

「横断歩道を渡っていない(ルールを守らない)歩行者がいても、その歩行者の安全が最優先である。それが運転の大原則です」

 このことを守っていれば、ニューヨークで車を運転しても大丈夫だとおいらは思ったものである。それは、この規範が普遍的なものだからだ。

 ところが、日本は何時の間にか弱肉強食で金が全ての世界、格差拡大の社会に変わってしまった。それに伴って、人間としての考え方まで変ったのではないだろうか。しかし、そうであったとしても、個人の規範まで変える必要はない。いや、普遍的な規範は変えてはならないのである。だが、現実には、ガイドは命よりも翌日のスケジュールを優先させてしまったのだ。

 このトムラウシ山の遭難は、それを考えさせる重大な事件だと思うのだが如何か。


人生の機微

 人生の機微を軽妙洒脱に書く。それがエセーの極意だろう。


皿 清18世紀後半


 なかなかそういう名エセーは書けるものではないが、今でも思い出すエピソードを一つ。

 おいらが入社したのは、73年(昭和48年)である。

 新人研修の一環として、新人は皆、渋谷公会堂に集められた。

 入社した会社の所属する業界団体が新人への研修(講演)会を開催したのである。ドリフターズの「8時だよ、全員集合」を収録していた場所だ。

 今、考えれば、半日間の研修だったのかも知れないが、ほとんど一日拘束されたような記憶である。しかし、形式的な研修で、中身のない内容であった。大方の新入社員が寝ていたように思う。いや、おいらだけか。

 砂を噛むような講演が続き、最後においらの入社した会社の社長Mが登壇した。このM、只者ではない。同社を業界ナンバー2に押し上げた中興の祖である。

 眠気が吹っ飛んだ。型破りというのはこういうのを云うのだろう。

「つまらん話しを聞いても忘れるばかりだ。入社したばかりで知識を詰め込んでも無意味。それよりも人生には大事なことがある」

 そういう枕で、講演が始まったのである。

 恐らく10分も時間はなかったのではないか。

 そこで覚えているのが、次の名文句である。

「諸君、結婚するなら、自分と正反対の性格の人と結婚しなさい。男が賢くて、女も賢かったら、両立しない。それが上手くいくコツだ」

 昭和の名女優、大原麗子が惜しくも他界した。

 森進一との離婚会見で彼女が残した「家に男が二人いたようなもんです」とは、まさしくそのことだ。

 おいらは、男と女とは相性だと思っている。それは、男同士であっても、実は同じである。

 相性、それは磁石のプラスとマイナスであるかも。

 人生の機微を表す名文句に立ち会うことは、そうざらにあるものではない。おいらは、あのM社長の会社に入って選択を間違っていなかったとそのとき確信したのである。おいらとの相性が良かったのだろうねぇ。


 人生の機微を軽妙洒脱にエセーにする。難しい。


無縁社員

 先週の日経電子版(9月3日)に「無縁社員」という記事が出た。


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「誰とも話さず一日終わる…職場に広がる「無縁社員」

 オフィスでふと孤独にさいなまれる瞬間がないだろうか。

 不況を背景に職場は緊張感が高まり、個々の成果が厳しく求められる。

 連帯感は薄れ、ドライな人間関係が生まれている。机を並べていても同僚とのつながりをいまひとつ実感できない。そんな無縁社員が広がっている。

『お疲れさまです』。夕闇迫る勤務先の通用口。退社時に警備員から声を掛けられて、会社員のAさん(46)は、これがその日会社で初めて人と交わした会話だと気づいた」

 で、始まる記事であったが、その中身は「無縁社会」同様、社会構造の変質を述べたものに過ぎない。

 社会が都会化すれば無縁社会は必然であり、企業が機能集団(利益集団)になれば無縁社員も必然となる。だって、そうならざるを得ないでせう。

 かのマルクスは、それを疎外と呼び、無縁社員は資本主義社会の産物であると喝破した。

 だが、山本七平氏の名著「日本資本主義の精神」を持ち出すまでもなく、日本型資本主義の考え方は、企業が機能集団であると同時に集合体(共同体)であったことを見過ごしてはならない。高度経済成長時代と平成の前半までを支えてきたのは、この日本型資本主義である。

 仲間意識で仕事をしてきた日本型資本主義の企業に米国型の弱肉強食資本主義を導入すれば、企業は従来のような集合体ではなくなる。つまり、ただの機能集団にならざるを得ない。

 しかも、日本人は「利潤が善である」との結論を得るために、江戸時代以降「結果としての利潤が善である」という思想を創り上げてきたのである。

 金儲けとは仕事の結果であり、それ自体は仕事の目的ではない。それを忘れると資本主義は暴走する。無縁社員が増大するのは必然となる。

 無縁社員、無理もないのぅ。


夜店の当たりくじに当たりなし

 先月末、大阪の夏祭りで夜店のくじに当たりがないとしてテキヤが逮捕されたという。


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 容疑は、当たりの入っていないくじ引きで金をだまし取ったとした詐欺容疑である。

 事案は、大阪市阿倍野区の阿倍王子神社で開かれた夏祭りで当たりが入っていないくじ引きの露店を営業し、男女3人から計約1万4千円をだまし取った疑いだそうである。

 おいおい、もしそれが事実なら全国の夜店の当たりくじ屋さんは逮捕だろう。

 それに、そういう店が今後は本当の当たりくじを入れないといけないとしたら、露天から当たりくじの夜店はなくなるだろう。

 おいらは詐欺がまかり通ることを認めているのではない。

 露天は、そうやって世の中が出来上がっているということを皆が知る場所なのである。

 ややこしそうなお兄さんが店番をしているのだ。それで生活が成り立っている理由を考えれば、当たりくじがどうなっているかは自明の理である。いかがわしい場所には、いかがわしいルールがあるのだ。

 今回の事件は、夜店の側に明らかに非があるような、つまり「あこぎな」理由があったのだろう。そうでなければ、世の中全般が野暮になろうとしているように思えるのだが。


表現の自由と宗教への風刺

 表現の自由と宗教への風刺とが厳しく対峙している。


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 フランス全土では週刊紙テロ銃撃事件を受けて370万人がデモ行進し、過去最大の規模になったという。

 おいらは思うのだが、宗教への風刺だと述べても「良い風刺」と「悪い風刺」があるはずだ。

 おいらはこれを「二元論」と呼んでおり、風刺なら何でもよいと云うのはいただけないと考えている。だいたい、程度の悪い風刺ほど胸くそ悪いものはない。

 繰り返すが、下手な風刺は非難されても仕方がない。

 おいらは仏週刊紙シャルリエブドの風刺画を見ていないので評論する立場にはないが、それが優れた風刺なら物事の本質をつかんでいるはずであり、イスラム教を否定することは一切認めないという立場の人達にとってもその心を揺さぶるはずである。

 しかし、それが例えば最近ソニーの創った北独裁王朝の頭目を暗殺するというコメディ映画の場合、いかにパロディが許されるといってもその頭目を殺すのはまずいと思うのである。風刺の域を超えており、品がない。

 だから、何が何でも表現の自由は正しいというのも誤りで、良い表現の自由もあれば悪い表現の自由もあり得るのである。

 不勉強で申し訳なく最近知ったことだが、チャップリンの映画「独裁者」はヒトラー存命中に製作公開されていたという。

 これには驚いた。

 この映画の公開は日本では1960年であり、おいらが小学校4年生のときであったのだ。

 しかし、チャップリンがヒットラーのパロディ映画を創ったのは1940年であり、米国では同年公開(ヒットラーは当時存命しており、その5年後に死亡)されている。これこそが最大の風刺の精神の発揮であろう。

 もちろん、本家のドイツや三国同盟を締結していた日本でリアルタイムに放映されることなどあり得なく、後から創った映画だとおいらは思い込んでいたのだ。

 だから、風刺は弱者にとって権力者への最大の武器となり得るのである。しかし、これが大切なのだが、風刺は命がけでもある。時と場合によっては、命を落とす。それが風刺の宿命でもある。

 同時に、上質な風刺、これをパロディとも呼ぶが、それを受け入れる度量が権力者や権威者にとっては必要となる。それを許さないというのは狭量以前にその権力者や権威者が偽物であるということである。

 今回のテロ襲撃事件はいかなる理由があろうとも許されるものではないが、同時に表現の自由なら何でも許されるというのをおいらは素朴に疑う。

 そう考えることが今後の宗教への風刺否定と表現の自由との問題解決への歩み寄りの一歩になると思うのだが…。
 


少年A

「絶歌」という、出来のよくないタイトルの本が世間をさわがしている。


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 この本についてはマスコミがさわいでいるのでおいらはそちらに論評を譲ろうと思っていたが、おいら自身がしっくりとこなかったのでここで書く。

 しっくりこなかったというのは、元少年Aが手記を発表することについて、書くのは自由(出版するのは自由を含む)という立場と被害者感情を考慮すべきなどや手記の内容が猟奇的な部分に言及しており世の中に悪影響を与えるなどという意見の対立についてである。

 で、そこまでは単に論点を図式化したものでしかないので、お互いに云い分があり、ある意味では不毛の議論である。

 しかし、ことはそう単純ではないはずであり、おいらはこれまでその本質が分からずにいたので、おいら自身の考えがまとまらなかったのである。

 その理由が何かと考えていたのだが、あの本に書いてあることは皆、ウソではないかと気付いた時点で目からうろこが落ちたのである。

 いや、正確に云うと、あの本では肝心のことや本当のことは書かれていないのではないかと思い当ったのである。もちろん本人に都合の良いことは書いているはずだが、そうでない部分はフィクションの可能性が高い。

 その理由は、少年Aという匿名で書いているからである。手記なら実名で書くべきである。それが贖罪である。それが更生の証である。

 だから、匿名で書いているのは卑怯なのである。

 しかし、それでも匿名で書いたという理由は、内容をウソで固めても良いと暗黙に思ったからである。ネット社会の常識では、匿名の書き込みはウソであると思った方が良いことである。

 だから、呉智英氏が云った「手記の出版が、少年Aが更生していないことを如実に物語っている」という指摘は的を得ているのである。

 だから、あの本を匿名のままで出版した会社のレベルは低い。儲けるために出したのがミエミエである(そうでないのなら、出版社の利益は全部遺族に渡しなさい)。


 なお、この問題に関してネットサーフィンをした結果、香山リカ氏の「『絶歌』から『元少年A』の脳の機能不全を読み解く」(2015年6月24日)が面白かったので、興味のある方には一読をお勧めする。

 それによれば、少年Aがサイコパス(外見上は人あたりが良く理路整然としているが、心の中には一切の良心がないこと)である可能性にも言及されており、その記述を読んで北野武監督の映画「龍三と七人の子分たち」のワンシーンを思い出した(映画を観ていない人にはごめんなさい)。

 おいらたちと違う感覚を持っている人に出会うというのはホラーである。やはり、あの本は出したのが間違いだろう。




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