同窓会異聞同窓会異聞先週、高校時代の同窓会に参加した。 「ひょっこり大学附属ひょうたん高等学校」である。東京で年2回、メンバーの一人である関西在住の医師が学会参加のため、上京して来る。それにかこつけて、在京のメンバーが集うのである。 通常、参加メンバーは10名前後。うち女性が2名程度毎回入るが、今回は男ばかり8名の参加であった。 久し振りに集まるのは良いものである。何せ、約40年前の高校生の集まりである。 で、何が話題で盛り上がるのか。何が話題だと、参加したいと思うのか。 やはり、高校時代の話題が中心となるのである。 そうなると、好きだった女の子の話しは盛り上がる。消息を知っている奴が近況を話す。皆が耳を傾ける。誰かが突っ込みを入れる。アルコールも入っているので、座は盛り上がる。初恋談義に花が咲く。初恋の相手だった女性も、今や押しも押されぬ56歳。見事なずん胴のおばさんになっている、という話しになる。これがウケル。この手の話しは尽きない。 次に、他界した人間の話しになる。同期であるから、皆、56歳である。いいおっさん、おばさんの年齢である。自分にそれを置き換えたとしても、何の不思議もない。何時死んでもおかしくない年齢だ。皆と会うたびに、誰かがまた死んでいることに気付く。 今回も最初から最後まで、この二つが話題の中心であったような気がする。それでも、高校時代の友人というのは、捨て難い。同じ話題になるのが分かっていても足が向くのである。いい友を持つことは幸せである。 同期同窓会夜話 先週、約2ヶ月振りにおいらの高校時代の同期同窓会に参加した。約40年前の高校生の集いである。 同期同窓の一人Kくんが関西在住の医師(医院経営者)であり、学会が開催される度に上京する。それを機に在京メンバーが集合するのである。 幹事役であるSくんのきめ細かな案内メールや場所の設営も嬉しい(写真は宴の後)。 さて、今回の参加者は7名。男子6名(K医師、Nくん、Yくん、Iくん、幹事役Sくん、おいら)、女子1名(旧姓Nさん)である。全員が高校時代の面影を残しており、皆56~57歳だとは到底思えない。尤もそう思っているのは、おいらたちだけであって、周りの連中は「初老のメンバーが集まって」と思っていても不思議ではない。 当日は、夕方7時から10時近くまで盛り上がってしまった。何故、盛り上がるのだろう。それは、時間が戻るからである。メンバーの顔を見た途端、突然高校時代に時間が戻るのである。この感じがたまらないのである。 しかも、全員がこの年で(当たり前だが)仕事上の利害関係も全くない。 したがって、話す内容は、他愛のないものばかりとなる。家族の話題(子離れ)、資産運用の話し(どの株を買えば儲かるか)、高齢化社会の問題(姥捨て山と尊厳死)、高校時代に好きだった女優の話し(松原智恵子派と吉永小百合派に分かれておりました。おいらは当時筋金入りの松原智恵子派)、高校時代の同級生のその後、病気(それそれのメンバーの持病)、海外探訪(アジア近郊都市の訪問情報)、老人の性問題?などのバカ話しがごった煮となって、盛り上がるのである。 前回も書いたが、高校時代の友人というのは大切である。毎回同じような話題になるのが分かっていても、足が向くのである。 いい友を持つことは幸せである。 付き合いたくない友 元通産省の佐橋滋事務次官は切れ者であったという。 三木武夫が通産大臣であったときは、佐橋大臣、三木次官と蔭では呼ばれていたほどである。 その佐橋氏が友について語った言葉がある。 「若いときには、思想信条が違っていても付き合えるものだ。 その違いがかえって面白く、議論を楽しむことができる。 しかし、歳を取るとだんだん考えの違う人とは、付き合いたくなくなるものだ」 という趣旨のことを云っておられたのである(経済評論家斎藤精一郎氏の結婚披露宴でのスピーチ。渡部昇一氏「知的余生の方法」による)。 う~む。佐橋滋氏でもそうなのか。 おいらはその気持ちは分かるが、思想信条と友とは、やはり別である。 どんなに考えが違っていても、友は友である。 いくら歳を取っても、友と激論を交わしたい。そう思うがなぁ。 それに、そうしないと、似た者同士でしか集まらなくなり、進歩はないように思うのだが…。 それとも、まだ、おいらが歳を取っていないということなのかのぅ。 ジャンル別一覧
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