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さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

新潟探訪記 自転車、命

 お休みのお知らせ

 本日より2泊3日で新潟を訪れます。月曜日の夕方に横浜に帰ってまいります。


こまどり姉妹1


 今回の新潟探訪は、昔お世話になった方の「退職祝賀会」への参加のためです。アラ還は忙しい。


 火曜日以降、「新潟探訪記」をお届けします。皆様よろしゅうに。


平成22年3月27日(土)


 謎の不良中年 柚木惇 記す


 新潟探訪記(前編)

 3月27日(土)午後4時32分、東京駅発「とき335号」に乗車した。


とき


 下の写真は、ときの車内で食したカツサンド。650円。確かに昔の味がする。と、云うよりか、カツサンドはこの味でなければカツサンドではないという、定番の味である。合格。現地では1次会が7時前に終了し、おいらは2次会に合流する予定である。だから、軽食にしたのである。


 カツサンド1


 さて、おいらは嘗て新潟で仕事をしていたのだ。勤務先の実質「最初の赴任地」が新潟だったのである。

 実質とは、新卒で採用された直後の4月に東京本社で研修を受け、おいらの故郷である広島で営業店実習という名目で、広島支店に2ヶ月間配属されていたからである。

 6月1日付で何の縁もゆかりもない新潟への配属を聞いておいらが咄嗟に思ったのは、会社を辞めた方がいいのかなと考えたことだ。おいらが自惚れていたのは事実だが、本社勤務になるとばかり思っていたからだ。それに時代は売り手市場。今から思うとウソのようだが、いくらでも就職口はあった。

 しかし、考えるところがあって、新潟も面白いじゃないかと赴任したのが、昭和48年6月。賄い付きの下宿に実家から布団を送り、そこからおいらの長いサラリーマン人生が始まったのである。

 と、ここまで書いて、新潟とおいらとの付き合いを書き始めたら、ページがいくらあっても足りないということに気付いた。

 はい、すんません。

 本題に入る。今日、その新潟で世話になった人の送別会が開催されるのである。その人の定年退職祝賀会である。おいらより、1歳年上という計算になる。おいらも歳を取ったのぅ。


湯沢


 途中、越後湯沢では一面の銀世界。トンネルを抜けると雪国というのは、今も変わらない。

 そうこうしているうちに「とき」は新潟に滑り込むように到着する


 新幹線口で三美神が出迎えてくれる(この項続く)。


三美神


 新潟探訪記(中編その1)

 今回の退職記念送別会でのおいらの出席は、退職する本人には内緒である。幹事がサプライズを狙って、OBの招待をしたのである。

 なかなか粋な計らいじゃのぅ。


新潟駅


 新潟駅前で2次会に移動するメンバーと遭遇し、そのまま皆さんと共に2次会の会場に入る。

 今回は、おいらが当時の新潟で世話になったK課長、K主任、Mくんも招待されており、K学校のメンバーに再び会えるという喜びもある。

 旧交を温め、また、盛り上がった先輩の送別会も無事終了し、その後もK主任、Mくんとで3次会に突入し、新潟の「へぎそば」を肴に痛飲した。

 げに持つべきものは、良い先輩と気の置けない友人である。


 さて、翌日は、昔、仕事で付き合いのあった友人I氏の墓参りに出向くことにした。

 Mくんは現在新潟に在住しており、彼も一緒に墓参りをするので、車を出してくれるという。有難い。

 時間が少しあったので、最初に新潟の旧市内を車で見物することにした。おいらが新潟に住んでいたのは、昭和48年から53年の春までである。

 最初は幸町にあった下宿に住んでいたのだ。

 車でそこまで行く。ありました。昔の面影を残した住宅がそのままありました。37年前においらはここにいたのである。

 この下宿のそばに、行きつけの喫茶店と、伝説のスナック「山頭火」とがあったのだが、今や影も形もない。国鉄の官舎も近くにあったのだが、マンション群に変わっていた。

 それに新潟は今では区政がひかれており、昔とは全く別の街になったという感じがする。

 最初の下宿を出た後はアパートに住んでいたので、そのアパートを探したのだが、少し探しただけでは場所が分からない。昔の住所表記は今と全く異なっているので(現在は何丁目何番地が導入されている)、記憶を頼りに徒歩で探すしか無い。

 時間の制約もあり、今回はアパート探しをギブアップすることにした(この項続く)。


 新潟探訪記(中編その2)

 友人I氏の墓は長岡にあった。


本妙寺1


 友人I氏は、おいらが新潟で仕事をしていたときの戦友である。同じ勤務先ではなかったが、仕事上での付き合いがあり、年下であった彼がおいらを慕ってくれ、私生活ではよく一緒に酒を飲んだものである。

 彼とおいらの車(当時は、レザー張りの「クラウンハードトップ」に乗っていた。名車「MS51」である)を運転し、新潟から広島まで二人で帰省したことがある。実家で痛飲したことが昨日の様に思い出される。

 その彼が2年前に不慮の事故で亡くなったのだ。通夜に行けなかったので、機会があれば墓参りをしようと思っていたのだ。

 考えてみれば、おいらも友人の墓参りをする、という年齢になっった。

 彼が眠る本妙寺に到着。


本妙寺2


 花を手向け、線香に火をつける。彼が好きだったビールの栓を抜く。そのビールを墓石にかけ、友人の冥福を祈る。

 こういう形でしか、彼とはもう酒を飲むことが出来ない。胸がつまる。

 それでも、彼と再び酒を飲んだような気になるから不思議である。彼もそう思ってくれただろうか。

 合唱(この項続く)


 新潟探訪記(中編その3)

 新潟三日目は、旧市内を散策した。


レインボータワー1


 Mくんのおすすめによって、「レインボータワー」に搭乗することにした。

 地上100メートルから見下ろす新潟市内は絶景だという。

 450円払って、回転しながら上昇する展望台に搭乗する。座ったままで市内が360度展望できるのだ。

 月曜日の午前中ということもあってか、搭乗するのはおいらのほかにおばあちゃんとお孫さんの合計三人しかいない。それでも、展望台は上に昇って行く。

 以下、ゆっくりと新潟市内をご覧あれ。


新潟1


新潟2


新潟3


新潟4


 これが夜景になるとまたロマンチックになるんだろうなぁ。

 ところでこの「レインボータワー」、昭和48年に出来たのだそうだ。え? ということは昔おいらが住んでいたときにもあったということになる。

 護国神社そばの「日本海タワー」(回転展望台)に行ったことはあるのだが、正直、この「レインボータワー」のことは記憶にない。知らなんだ(この項続く)。


 新潟探訪記(中編その4)

 旧市内の散策は続く。「万代橋」を通って、「古町」まで行く。


万代橋


 恐れていたことが起きていた。「古町通り」がシャッター通り化しようとしているのだ。200年の歴史を誇っていた新潟一の書店「北光社」もこの春、店を閉めていた。


北光社


 百貨店の「大和」も長岡から撤退するのだそうだ。

 新潟出身の水島新司にあやかって、ドカベンの銅像が建っているのだが、これも何故か物悲しい。


銅像


「西堀ローサ」(地下街)も人通りがほとんどない。


ROSA


 古町が寂れていくのは時代の流れとはいえ、これでは新潟の文化が消滅するような気がしてならない。

 ところで、(どうでもいい話しではあるのだが)新潟の信号は横ではなく、縦である。ニューヨークの信号とおなじである。もっともニューヨークの信号は紐で吊ってあるのだが、ここ新潟では固定されている。


信号


「鍋茶屋通り」を久し振りに歩く。趣のある街である。


鍋茶屋


 新潟時代のことである。自費を支払うので「鍋茶屋」に行かせて欲しいと当時のW支店長に頼んだことを思い出す。一見の客は「鍋茶屋」には入れないのだ。

 芸者さんが電線音頭を踊ってくれたと云うハチャメチャな記憶があるのだが、愉しかった思い出である。

 そう云えば、あのときのメンバーもK課長、K主任、Mくん、そして今回体調不良で参加出来なかったSくんだったような気がする(Sくん、元気かぁ。次回は参加してチョ)。

 新潟は今でも続くおいらの青春である(この項続く)。


 新潟探訪記(中編その5)

 旧市内の散策を続ける。


iイタリア軒


 新潟大和を起点にして、北上すると新潟の老舗であるホテル「イタリア軒」(写真上=明治7年創業)がある。日本で最初のイタリア料理店でもある。フランス曲芸団員として新潟にやって来たイタリア人が大けがをして置き去りにされ、後に牛鍋屋を興したのが前身だと云われる。

 そこから「地獄極楽小路」を目指す。


地獄極楽小路


 江戸時代から続く料亭「行形亭」(これが極楽)と旧新潟刑務所(もちろん地獄)を分けた小路として有名である。

 西側に少し歩くと「新潟大神宮」があり、そこに坂口安吾の生誕碑を発見する。安吾は新潟出身なのである。


新潟大明神


安吾石碑


 そう云えば、野坂昭如も疎開のため一時期新潟にいたはずだ。実父が新潟県副知事を務めていたと記憶する。その副知事公舎跡も残っているという。

 歴史が古い街だから、旧市内にはそういう史跡もどきがごろごろしている。

 思い起こせば、当時のA課長のマンションもこの辺りにあったはずだ。新巻鮭を持参し、ご自宅でどんちゃん騒ぎをしたこともあったなぁ~。


オギノ通り


 そうそう、あのオギノ式の荻野久作博士も新潟にお住まいだったのだ。今ではその荻野医院のあった通りが「オギノ通り」となっている(この項続く)。


 新潟探訪記(後編)

 さて、新潟探訪記もそろそろお仕舞いにしよう。写真は「新潟カトリック教会」。スイス人建築家の設計による、ロマネスクとルネサンスの折衷様式という木造教会である。


新潟カトリック教会


 今回は新潟に2泊した。直近では5年前にK課長のハッピー・リタイアメント祝賀会で新潟に逗留したが、慌ただしいスケジュールで新潟市内を満喫する時間は充分にはなかった。

 旅はおおまかな予定だけ立てて、後は現地でその地の趣を愉しむ。やはり、そうでなければならないのだろう。


 それにしても、今回の訪問は実質的には昭和53年以来の新潟訪問であった。あれから32年が経っている。

 年々歳々同じ桜は咲くが、年々歳々人は変わる。おいらも馬齢を重ねたようだ。しかし、いずれ、新潟時代のことを書いた小説をものにするときが来るような気がする。

 新潟時代は波乱万丈であった。しかし、人生のうちでこんなに愉しい時期はなかったと思うのである。

 それは何故か。本音で仕事が出来たからである。

 広島支店で営業店実習を受けたときは、支店の中の雰囲気がサラリーマン根性一色であった。働くのは給料を貰うのだから仕方がないという空気で蔓延していた。それでいて、格好だけは付けるのである。

 しかし、新潟支店は違った。皆が地(じ)で働いていた。本気で働いていた。皆、自分のために働く。結果として支店の成績が上がる。そういう店だと直感した。新潟支店、第2期黄金時代が始まろうとしていた。

 いずれ、当時のことを書きたい。この小説のタイトルは、「少年H」ならぬ、「新社会人K」で決まりだろう(この項終り)。


本日から3日間お休み

 本日から3日間は連休につき、お休みです。


金井写真館


 写真は、今年の春に新潟を探訪したときの金井写真館。

 明治21年、新潟初の写真館を創業した金井弥一氏が、中島泉次郎氏の設計により写真館本店として建設した洋風建築だそうです。

 住宅街にポツンと建っているのです。でも、この風情がよろしい。手前の彫刻も映えます。

 昔の建築物に郷愁を感じるのは何故だろう。


平成22年9月18日(土)


 謎の不良中年 柚木惇 記す


長岡の古書店

 昨日、新潟からの帰路、新津、長岡、水上、高崎を経由して「青春18切符」をしたので、その顛末を明日から3回に渡って連載する。


雑本堂1.jpg


 それに先立ち、本日は長岡市内の古書店「雑本堂古書店」を紹介しよう。いわば予告編である。

 長岡駅前から大手通りを歩き、長岡城跡(二の丸跡)交差点を右折して少し歩くと上の写真の雑本堂に出くわす。駅から徒歩5分という感覚である。

 Recycle Book Storeと書いてあるので、こういう類の店はブックオフの真似のような店かなと思って中に入ってみると(おいらは真似が嫌いである)、これが大当たり。

 中野のまんだらけを彷彿とさせる店づくりで、扱っている古書も期待を裏切らない。店主の矢尾板さんのお許しを得て店内の写真を撮らせてもらった。


雑本堂2.jpg


 おいらはこういう風に本に囲まれるとあたかも森林浴のように心が落ち着くのである。本に埋もれているときは至福のときなのである。聞けば店主は若かりし頃、東京中野にお住まいであったとか。

 さて、この話しの続きは、明日以降で。


青春18きっぷ(前篇)

 新潟に出向いたのは、おいらが世話になった人から飲みに来いと誘われたからである。


とき.jpg


 友遠方より来る、また、愉しからずや、と歓待していただいた。痛飲して、夜遅くまでお互いの青春(中年?)時代を語り合ったのである。

 無論、行きは新幹線だが、帰りは時間のことを心配しなくてもよい。新潟には4年前にも旧友の墓参りで訪問しており、そのときには市内見物をしている。

 したがって、今回は新潟よりも長岡で途中下車してみたいと思ったのだ。おいらは約35年前に仕事で新潟支店勤務だったことがあり、長岡にはよく行ったものである。

 そうと決まったら、青春18きっぷのお出ましである。何、鈍行列車のことであるが、おいらはJR東日本の某会員なので料金の割引もある。

 早速、みどりの窓口で各駅停車の横浜行きを購入する。長岡まで行きたいというと、2番線で40分も待つ必要があると云う。おいおい、新津行きが直ぐ出るのではないかと尋ねると、連絡がないので新津で長岡行きを待たなければならないという。

 そうか、だったら、新津見物だ。おいらは新津行きのワンマン列車に飛び乗った。信越本線に乗車すること約20分。懐かしの新津駅に到着した。ここにも仕事でたびたび来たことがある。


新津行き電車.jpg


 驚いたことには、新津は新潟市内に編入されていた。昔は新津市だった。それが今や、新潟市秋葉区。聞いてないよぅ。もう10年以上前のことだという。平成の大合併はこういうところに影響を与えていたのだ。あの月岡も今や新発田市内に編入されているという。ビックリである。

 ということは、新潟市は巨大な市になったということか。市長の権限も県知事に匹敵するのではないか。


新津駅.jpg


 さて、駅前に降り立つ。この町の駅前商店街もシャッター通りになっているのだろうか。


新津駅前.jpg


 そう思いながら、駅の1階にある鉄道資料館サテライト「ていしゃば」に入った。


ていしゃば.jpg


 思い出した。新津は鉄道の町なのだ。信越本線と羽越本線、磐越西線が交差し、鉄道基地があったのだ。上越新幹線が開通して規模は縮小されたが、今でも車両製作所があり、鉄道の町として健在のようだ。往年は、住民の4人に一人が鉄道関係者だったのである。

 時間がないので、約30分の新津見物だったが、よい思い出になった。さあ、次は長岡だ(この項続く)。


青春18きっぷ(中篇)

 新津から長岡まで乗車する。


良寛さま.jpg


 長岡へは約50分かかった。その間、加茂、三条、見附と懐かしい地名の駅を通過する。特に三条には営業所があったので、よく出向いたものである。

 おいらは長岡での滞在時間を約1時間半と決めた。実は、青春18きっぷで横浜まで帰るとなると、電車の接続(連絡)が大きな問題となる。

 1時間半後の電車に乗って、横浜駅に到着する時間が午後7時半の予定である。電車の接続(連絡)がよくても、長岡から横浜までは約6時間かかるのである。

 そうと決めたら効率的に動かなければいけない。

 長岡駅に降り立つ。やはり35年前とは変わっていた。まず、良寛さまの像があった(写真上)。良寛さまは長岡近くの出雲崎の出身である。越後平野を托鉢して回った人生の達人である。

 駅前も全くの変わりようである。新幹線が通るということは、駅とその周辺の視野を根本的に変えるものだと今更ながらに気付く。

 その駅前で三尺玉の花火筒。でかいわ。こんなのなかった。


三尺玉.jpg


 長岡が生んだ英雄のパネル石碑もある。

 河井継之助、小林虎三郎、山本五十六、堀口大学など長岡出身の英雄が目白押しである。こうしてみると、この地は多くの有名人を排出しているのだ。


長岡の英雄.jpg


 その隣に「まちなか観光案内」のパネル石碑もある。おいらは駅の観光案内で市内の地図と見所スポットを聞いていたのだが、こういうパネルを置いているのはエライ!

 その足でおいらの勤務先の出先の長岡支店があった場所に行こうとした。この支店にはその昔、数えきれないほど行った記憶がある。体が覚えているので、支店があったはずの場所に向かおうとして大手通りに向かった。

 そうすると、昭和を彷彿とさせる旅館が鎮座しているではないか。典型的な昔の駅前旅館である。嬉しくなっちゃうのぅ。


長岡の旅館.jpg


 大手通りを北の方向に向かう。支店は長岡城跡の交差点を左折した先のセントラル通り右手にあったはずだ。

 しかし、交差点に立つと、目指す場所には高層マンションがそびえている。ひょっとしたら、移転しているかも知れない。他方で、おいらは山本五十六記念館にも行きたい。

 おいらが新潟にいたころ、山本五十六に興味がなかったわけではない。だが、結果的にこの日本を戦争に追い込んだ人物には違いない。その評価は別にして、人物像は興味深い。おいらは長岡城跡の交差点を右折したのである。

 その先には、目指す山本五十六記念館がある(この項続く。なお、調べてみると支店は昔のままの場所にあった)。


青春18きっぷ(後篇その1)

 おいらは、山本五十六記念館を目指した。


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 歩道は雪国特有のアーケードになっている。おいらは、その昔、教科書で見た新潟県高田市(現・上越市)のがんぎ(雁木)を思い出していた。

 高田市の雁木は、木造で総延長が16kmであった。現存する雁木の長さでは日本一である。その高田と同じだったであろう雁木は、今や洒落た造りとなっている。もはや、木造ではない。

 と、そのとき、雑本堂古書展が目についたのである。気にかかったので時間のことなどお構いなく入店する。


雑本堂1.jpg


 どうやらこの店は映画関係がご専門らしい。ガス燈のちらしが目に入った。買いたいと思った。200円。復刻版だが様子がよい。ガス燈のほかに洋画の絵葉書も一緒に買いながら、店主の矢尾板恵一さんと古本談議をした。


DSC00901.JPG

 
 珍しいお名前なので、よもや東洋フライ級チャンピオンの矢尾板さんとご関係があるのではないかとお尋ねすると、ご親戚だと云われる。世の中は狭いのである。

 この矢尾板さん、コミュニティシネマの事務局や長岡読書倶楽部も関係しておられる。

 地方都市で古書店をやるのは難しい。矢尾板さんにはぜひとも頑張ってほしい。数多の英雄を排出した長岡の民度は高いはずだ。

 はっと気付いた。時間がない。おいらは矢尾板さんに鄭重に礼を云って山本五十六記念館に急いだ。

 交差点で自転車に乗っているおじいさんに聞いたら、すぐそこだが、手前に山本五十六の生家があるという。親切にもおいらをそこまで連れていってくれるという。長岡の人間はやさしい人ばかりだ。


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 だから、その生家に入らない手はない。入場無料。勝手に入ってよいのだ。ここで山本五十六は生まれ、育ったのだ。生家の周りは公園になっている。


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 記念館に行くには時間がまだあるが、再築とはいえ(戦災で消滅したという)この生家の雰囲気にはかなわないだろう。ここをゆっくりと観よう。人は、生まれた環境に影響を受けるのだ。


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 長岡駅への帰路、「国際メンコ射撃場」のあるビルが駅前にあった。メンコを射撃? 意味が分からない。地方都市とは、こういうのが良い。


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 さて、短い時間ではあったが、長岡を満喫した。長岡はおいらが敬愛するH大兄(このブログ「人生の達人」参照)の生まれた場所でもあることを思い出した。

 その昔、おいらがまだ二十代のときにその先輩宅に泊らせていただいたのである。しかし、今ではその先輩も都内に移り住み、昔の場所がどこであったのか皆目分からない。そう思いながら長岡を後にした(この項続く)。


青春18きっぷ(後篇その2)

 青春18きっぷの続きである。


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 長岡から水上行きに乗車する。

 電車はボックスシートである。4人乗りに一人で座る贅沢である。それでも乗車している人の数が少ないので、あたかもグリーン車に乗車しているようなゆったり度合いである。

 途中、六日町を通過する。前回の青春18きっぷでは(と云っても約10年前だが)、ここで下車して一泊している。温泉に浸かったのだ。

 ただし、今回は日程の関係でやむなくパス。

 余裕があれば泊りたいのだ。しかし、現在、11月末締め切りの小説を書いている最中である。このことは項を改めるが、残り2週間しかないので、さすがに逗留はあきらめたのである。

 電車の中で先ほど買った絵葉書を取り出し、世話になった人への礼状を書く。おいらは葉書人間なのである。

 その水上へは長岡から約1時間で着いた。水上での停車時間は10分。

 ここでも駅から一旦出て、先ほど書いた葉書を駅前のポストに投函しようとする。駅から出るときに駅のハンコを押してもらう。

 駅を出たところでは旅館の人が旗を持って予約の客を待っている。「ポストはどこにあるのですか」と聞くと、少し先だが郵便局が駅前にあるのでそこにあるという。おいらはダッシュして絵葉書を投函した。


 水上から高崎までも丁度1時間。この電車もボックスシートであった。ゆったりと時間を過ごすことができるので、電車内で持参しているタブロイド型パソコンで小説を書く。

 途中、車窓からの紅葉が絶景である。木々が色づき、目の保養となる。自然の美。


DSC00780.JPG


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 高崎に到着し、国府津行きの湘南新宿ラインに乗車した。この電車からはベンチシートとなる。都会の香りだ。横浜まで約2時間。少々長いが小説を書くには絶好である。そうしていると、あっという間に横浜に到着した。

 やれやれ、青春18きっぷはこれにて終了。今回の新潟行きもまた面白い旅となった(この項終わり)。



自転車、命

 自転車が好きである。別に自転車そのものへの興味やツールドフランスなどに参加するという趣味があるわけでもない。


自転車


 ただ単に、自転車で近所を散策するのが好きなだけである。ママチャリに毛の生えた程度の自転車で良い。写真はニューヨーク時代での自転車(ソーホー地区)だが、碑文谷のダイエーで5万円くらいで買った自転車を彼の地に持ち込んだものにすぎない。

 7段内装変則自転車(ギアは島津製作所)で少々の坂なら平気である。現在でも現役で、横浜の坂を縦横無尽に走っている。

 自転車の効用は、歩く早さとほぼ同じで、さりとて少しばかりの遠出も可能である。早い話が散策に向いているということである。

 なぎら健一氏がふらっと自転車で隣町までというのをエセーで読むと、我が意を得たりとなる。実際おいらもニューヨーク時代は、ミドルマンハッタンからマンハッタン南端のスタッテン島行きフェリー乗り場まで自転車で何回か行ったものである(もちろん1日仕事となり、帰りはお尻が痛いが)。

 これも路地裏を走りながらの、車では味わえない自転車の愉しみである。

<付録>
 ニューヨーク時代の自転車の問題は、駐輪であった。普通の鍵ではまず盗まれる。ひどい話だが盗まれる方が悪い?ので、鎖付きのとてつもないでかい南京錠でポールなどにくくり付けていた。写真では分かりづらいが、この絵もそうである。


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