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さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

新聞広告の悦楽 週刊誌の行方

新聞広告の楽しみ

 密かに毎週木曜日の朝、楽しみにしていることがある。


新潮


 それは、週刊新潮と週刊文春の新聞広告である。今朝も最初にその広告から目を通した。

 特に週刊新潮の広告の見出しは秀逸である。今朝の見出しでは、「吉本の金正日」というのがよい。「なるほど、そうだったのか」と頷ける。

 もともと、週刊新潮はスキャンダル雑誌である。同じ記事であっても、新聞の補完を考えている週刊文春とは性格が全く異なる。

 したがって、他の雑誌の広告が「東京スポーツ方式」(=見出しの最後に「か」とか「?」を付けて記事の中身はスカスカ)という見出しであるのと異なり、週刊新潮はスキャンダルに徹しているので、記事の本文も読み応えのあるものに仕上がっていることが多い。

 地下鉄の中吊り広告でも、週刊朝日やサンデー毎日の広告が物足りないのは、その雑誌の上品な性格である。ただし、最近の週刊朝日は鼻息が荒い。スクープ連発で雑誌に勢いがある。

 さて、そういうことから云うと、おとうさんのための夕刊紙についても同じことが云える。

 日刊ゲンダイにインパクトがあって、夕刊フジにインパクトが欠けることが多いのは、夕刊フジが新聞を目指しているからである。それに対し、日刊ゲンダイは、タブロイド新聞の体裁を整えてはいるが、実は新聞ではないのである。あれは、スキャンダル雑誌なのである。

 そう思えば、腹も立たない。いや、そう思って買うから面白いのである。


やる気のある者は去れ

 未だに古い新聞を読むのが好きである。


花


 一昔前の新聞もよいが、2ヶ月くらい前の新聞が丁度よい。今の時期だと8月中旬の新聞である。連日、北京オリンピックの記事が花盛りで、もう過去の話しだと思っていたが、見方によっては昨日の話しである。

 そのオリンピックの記事に隠れていた「週刊文春8月28日号」の広告が目に留まった。毎回述べているが、週刊誌の見出しを見るというのは、悦楽である。

 白眉は、

「『テレ朝の天皇』が初めて語った、
たけし、タモリ、欽ちゃん『天才の秘密』、
▼タモリ座右の銘は『やる気のある者は去れ』」

 である。

 広告の見出しだけなので、タモリの内容は読まないと分からない。

 しかし、おいらなどは現役時代、「やる気のない者は去れ」と上司から脅されたものである。おいらの名誉のために云っておくと、おいらが人事部に頼まれて新入社員の講師を務めたときなど、こんな大時代的な「やる気のない者は去れ」などとは決して云わなかった。気持ちが悪いだけである。

 そのおいらも唸ったね。

「やる気のある者は去れ」

 逆説的な云い方をしていることも考えられるが、恐らく本気なんだろう。

 やる気のある者というのは、ときにして、危なっかしい。やる気がなければ、「いい加減」という強みがあり、大化け(おおばけ)する可能性を秘めている。何より、やる気がないから挫折などしない。

 記事の中身は、全然違う内容かも知れない。しかも、文春を買いたくても2ヶ月前の週刊誌だから、買うことは出来ない。だから、内容を想像するのが楽しみなのである。だから、古い記事はやめられないのである。


 日経電子版とは

 新聞は、ウエブで読むことが多い。


牛1


 無論、自宅で購読している新聞がない訳ではない。某紙を愛読しており、重宝している。

 しかし、一番面白いのは、帰宅途中に買って読む「日刊ゲンダイ」である。商業紙が書けない、権力や権威に対抗する姿勢が心地良いからである。

 さて、日経電子(ウエブ)版である。朝日も読売もウエブ版で読んでいるが、日経のウエブ版とは重要な違いがある。

 それは、日経の場合、記事の途中までしか読めないことである。

「ここから先は、登録していないと読めませんよ」という表示が出て来るのだ。ストレスが溜まるのぅ。

 ただし、「登録」すれば、無料でも一定の範囲内で読むことができる。だから、読みたければ、登録すれば良い。

 実は、これに腹が立つのである。有料で購読させようという魂胆が見え見えだからである。

 日経は、云うに違いない。無料サービスも提供しているのだから、登録しても良いじゃないですかと。

 確かにそのとおりかも知れない。

 しかし、おいらは云いたいのである。

 それならそれで、最初から無料で読める範囲をウエブに掲載しておけば良いではありませんかと。それ以上を読みたいのであれば、有料で申し込むようにすれば良いではありませんかと。何も登録までさせる必要はないのである。

 何となく、さもしい、いや、卑しい気がするのじゃがのぅ。

 坂本竜馬がこれを見たら何と云うのだろうか。

週刊誌の行方(前篇)

 週刊文春のスクープ連発が光る。


週刊文春.jpg


 ベッキーとゲス川谷の「不倫疑惑」のスクープを皮切りに、甘利明経済再生担当相の「口利き疑惑」、育児休暇を主張した宮崎謙介議員の「不倫」とスクープは続く。

 1年半前には清原和博容疑者の「シャブ中疑惑」まで報じている。古いスクープで思い出すのは「ロス疑惑(三浦和義)事件」である。

 これに対し、新聞やテレビ局がスクープをものにしたという記憶はほとんどない。実際、最近でのスクープでは、数年前に朝日新聞がものにした「徳洲会による猪瀬直樹元都知事への五千万円供与事件」くらいである。

 テレビに至っては、新聞記事をそのまま報道している体たらくである。論じるに値しないよなぁ。おいらは高市早苗総務大臣の放送法による停波発言は憲法違反もの(表現の自由違反)だと思っているが、その前にテレビはもう死んでいるよ。

 だから、新聞は、ときの権力の監視役を務めるのが本筋なのだが、その新聞はどうも考え違いをしているように思えてならない。

 一体、新聞はいつから御用新聞化したのだろうか。

 新聞には「記者クラブ」という便利な存在があって、官僚や大企業が配るペーパー(ニュースリリース)をそのまま右から左へ報道していればそれでよいと思っているフシがある。

 最近では高給取りと云われなくなっているようだが、それでも新聞記者の年収は1,500万円以上が当たり前ではないだろうか。身分が保障されていて、ニュース源も確保されているのであれば、報道ではなく、宣伝である。権力と慣れ合いになるなど以前の問題である。

 また、暗黙の了解だろうが、広告主に都合の悪い記事は載せることができない。

 しかも、噂や「よた」記事は確証がないので、新聞では扱わない。

 確証があるかどうかを取材するのが記者の本分なのに、しない。そういうゴシップやスキャンダルはテレビや週刊誌が扱うものという不文律にしているからである。しかも、その手の媒体は新聞より一段低いマスコミだとさげすんでいるのだから、たちが悪い。

 だから、新聞は文春に抜かれるのである。だから、文春の後追い記事しか書けないのである。

 残念だよなぁ、新聞記者の皆さん(この項続く)。


週刊誌の行方(中篇)

 週刊誌の行方と銘打って文春のことを書いたので、週刊現代(講談社)とポスト(小学館)について触れなければ片手落ちである。


マタハリ2.jpg


 最近、残念なことは電車の中吊り広告で週刊現代とポストの広告が消えたことである。

 これは、消えてから久しいのである。

 この理由がふるっている。両誌の想定する読者のターゲットが団塊の世代の男性サラリーマンであり、この世代は定年を過ぎて電車に乗らなくなったからだという。

 考えてみると確かに最近の両誌は老人特集ばかりで、しかも、カネとセックスの話題ばかりである。

 この両誌にスクープなど期待できるわけがないよなぁ。

 だとすれば、いずれなくなる雑誌だと認めているようなものである。

 両誌の新聞広告は続いているが、おいらは朝日と産経しか確認していないので他の新聞は分からない。だが、少なくとも産経は週刊現代とポストの広告を掲載していない。

 新聞広告を継続している理由は単純である。老人はいつまでも新聞をとるからである。しかも、両誌は反体制のポーズをとっているので朝日には掲載するが、産経には掲載しない。分かりやすい構図である。

 ところで、現代とポストはお互いにしのぎを削っているが、その中で面白いのはカネの予測である。

 両者の予測は正反対で、現代は株の大暴落を予測しているが、ポストは未曾有の好機到来説を唱えている(「唱えていた」と云うべきか)。さすがのポストもこの2週間はそういう特集記事から手を引き始めているが…。

 株は今の時期が底だから買いと見るのか、まだまだ下がると見るのかによって判断は分かれるが、今のところポストの云うとおりにしていた人は大損のはずだから、ポストの完敗である。

 現状では株の予測は弱気にならざるを得ない。だが、安倍政権が今夏の参議院選挙対策で何かすることによって一時的な上昇の機運があるかもしれない。しかし、こういう時期である。株は手仕舞いしかないよなぁ(この項続く)。


週刊誌の行方(後篇)

 週刊誌で忘れてならないのが、新聞社系の週刊朝日とサンデー毎日である。


ゴッホ 浮世絵.jpg


 だが、この二誌は今やなくてもよい週刊誌となっている。

 実は、週刊誌の黄金時代を創ったのは週刊朝日である。名編集長の扇谷正造がいたからである。今は昔の話しである。

 週刊誌戦争は新聞社系の週刊朝日とサンデー毎日が老舗であり、出版社系の新潮、文春、現代が後発(新潮は昭和31年、文春と現代は34年発売)である。

 その後、団塊の世代が入社する頃の昭和44年に小学館からポストが新参ものとして誕生した。

 なお、このポストの前身は小学館の「ボーイズライフ」である。ポストは、あの懐かしの「ボーイズライフ」を吸収したのである。

 ところで、出版社系の週刊誌が誕生したとき、新聞社と違って出版社には編集者しかいない。新聞社には遊軍となる記者がいたのだが、出版社にはいないのである。

 そこでアウトソースの必要性が生じ、ルポライターなどのトップ屋が登場してくることになる。

 トップ屋として活躍したのが梶山季之と草柳大三である。梶山についてはこのブログで書きこんでいるのでそちらを参照されたいが(フリーページ「梶山季之という作家がいた」)、特筆すべきは草柳大三である。

 草柳大三がすごかったのは、特集記事の料理の仕方が天才的であったことである。記事になる材料さえあれば、天下一品の記事に仕上げてしまうのである。

 これはなかなか真似をすることができない芸当である。例えて云えば、箸にも棒にもかからないインタビュー記事があったとしても、草柳大三は特集となる題材の全体像を把握しているので、そのインタビューだけで立派な記事を書き上げてしまうのである。

 草柳大三は大宅壮一の弟子であったときにその才能を開花させたという。

 ま、このあたりの話しは面白すぎて、また余裕があるときに稿を改めたい。

 話しは最初に戻るが、未だに文春と新潮はスクープにしのぎを削っている。頼もしいかぎりである。

 それに対し、週刊現代とポストは、やはりなくなる運命なのかななぁ。寂しいのぅ(この項終り)。




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