総揚げ 名古屋遊郭 11PM 一茶 吉原総揚げ死語である。「総揚げ」と聞いて、その意味が分かる人が今何人いるだろうか。 今の時代では出来なくなった遊びである。その昔、遊郭で全ての芸者や遊女を集めて飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをすることを総揚げと云ったのである。 実は、日本にも昭和33年まで遊郭は存在していた。今からわずか50年前のことである。当時、日本一の規模を誇ったのは、名古屋駅裏側、中村遊郭である。 総面積は3万1,629坪(平米ではない。坪である)。大正12年に当時のお上から名古屋の繁華街である大須から田んぼの真ん中に移転を命ぜられ、関東大震災で壊滅した東京の吉原を抜いて日本一の規模を誇ることになった。昭和12年には、娼家138軒、遊女は2,000人を超えたとある。 太平洋戦争による空襲で名古屋は市街地の4分の1が消失したが、中村遊郭はしぶとく生き残り、今でもその名残が残っている。 調べてみると、当時一番の格式を誇ったのは稲本楼である。江戸時代の吉原にその名を馳せた稲本楼の名にあやかったのだろう。この稲本楼、現在は料亭になっており(名古屋市都市景観重要建築物指定)、約700坪の広大な敷地に中庭を囲んで大小の座敷が並ぶ。 それぞれの部屋には意匠が凝らしてあり、傘張り天井の「伊吹の間」、小さい炉を切った「山家(やまがと読む)の間」、深紅の絨毯を敷き詰めて紫檀の象をあしらった椅子のあるシナ風の休憩室などがある。 圧巻は大広間である。柿色の壁に金屏風が並び、旦那衆はこの大広間に名古屋中の太夫や郭芸者、それに太鼓持ちを集めて飲めや歌えのお祭り騒ぎをしたのである。 この総揚げ費用、当時の金で百円、今の相場で約四百万円。このため、大広間は散財部屋と呼ばれたという。一晩で四百万、むべなるかなである。 しかし、非難を恐れずに云えば、総揚げが出来るというのは男の甲斐性である。夢である。これも立派な日本の育んだ文化である。 パーッと遊ぶ。それを糧にして働く。男を磨く。稼いだ金は世間様に返す。そして翌日から再び汗を流す。 今の世の中で、このような粋なことが出来るのか。 チマチマした世の中はおいらの性には合わない。いや、そうではなかろう、日本人はもともとこうした気質を持っていたはずだ。それが何時の間にかバブルでは品のない金の使い方になり、今では落ちぶれて皆、負け犬根性の世界である。 文化を亡くす。これほど悲しいことはない。昔より今が良いことばかりではない。 恐るべし名古屋の「金のしゃちほこ踊り」 ディープである。 名古屋が誇るお座敷芸「金のしゃちほこ踊り」をご存じであろうか。 恥ずかしながら、おいらも知らなんだ。昨夜、ネットサーフィンをしていたら、この秘芸を見付けたのである(朝日新聞名古屋文化グループ記者、原知恵子さんの取材による)。 この踊りは、両手と顔を支点にして倒立し、しゃちほこのように体を反りあげる、名古屋お座敷の名物芸だという。 おいらもお座敷遊びに詳しいわけではないが、それでも過去には赤坂などで本格的な芸妓の芸を何度か見せてもらったことがある。 無論、大石内蔵助の祇園での散財には遠く及ばないが、芸の雰囲気だけは少しは分かるつもりである。 しかし、この「しゃちほこ踊り」には驚いた。こんなの見たことない。インパクトありすぎ! 芸妓がしゃちほこになりきっている。しかも、粋だねぇ。それに遊び心が満載。 とどめは、脚さばきによっては裾がめくれ、「見えてしまう」危うさがある。こういうのを明るいお色気というのである。ええのぅ。 さきの原知恵子記者によれば、この芸は名古屋の芸妓には必須だという。 実際、名古屋の「名妓(めいぎ)連組合(現在19人の芸舞妓(げいまいこ)が所属)」では、このしゃちほこ踊りは必須芸で、新人はまずこの稽古に励むという。 ただし、この起源は不明であり、芸歴50年を超える大ベテラン組合長の金丸(きんまる)ねえさんによれば「私がこの世界に入ったとき、すでに先輩ねえさんがやっていた。遅くとも戦前にはあり、大正にもやっていたのでは」という。 この必殺芸、素人さんもやるらしい。では、名古屋での群舞を。 う~ん、名古屋恐るべし。おいらはますます名古屋を見直したのでござる。 名古屋探訪の記(前編) 先月末、名古屋を訪れる機会があった。名古屋を訪問したのは、おおよそ15年振りである。 さて、久し振りの名古屋である。そこでどうしても訪問したいと思ったのが、総上げで有名な「稲本楼」である(フリーページ「総上げ」参照)。 現存する、名古屋の遊郭を代表する建物(名古屋市都市景観重要建築物指定)だという。昭和33年までは、現役の遊郭だったのだ。 稲本楼という名前は、江戸時代の吉原にその名を馳せた稲本楼の名にあやかったのだろう。この稲本楼は、約700坪の広大な敷地に中庭を囲んで大小の座敷が並ぶのだ。 ウエブで調べてみると、この遊郭跡は現在、割烹になっているという。本来なら食事でもしようと思ったのだが、名古屋訪問の日はあいにく月曜日であり、その日は定休とある。 それでも、建物だけは見ておこうと名古屋駅裏側から稲本楼に向かって歩き始めた。 この時期、日が暮れるのが早い。夕方からのスタートで少々あせりながら歩く。 駅西銀座(写真上)に入り、西側に向かって歩く。ネットで場所を確認していたが、念のため、途中にあった電気屋さんで稲本楼の場所を聞くと、割烹は先代がお歳を召され、店を閉めたはずだと年配のご主人が教えてくれた。 そうか、もうやっていないのかと思いながら、大門に辿り着く。風情があるのぅ。 その大門の側に立派な遊郭跡を見付ける。 こりゃ、昔は相当立派なものだったのだろうなぁ。 この建物のすぐ側に、目指す稲本楼があった。 粋な赤塀で目を引く。驚いたことに、現在は福祉関係の事務所に模様替えされていた。 塀の中を覘くと、立派な中庭である。 建物の後ろに回ると、窓がまた粋である。建物の中は相当凝った造りだったのだろうと想像する。 しかし、老朽化が激しい。華麗であったはずだけに、その落差には哀れさえ催してしまう。 栄枯盛衰。 男の夢の世界がこのようになっていようなど、昔の人が今この景色を観たら何と云うのであろうか(この項続く)。 名古屋探訪の記(中編) 翌日は、「桃厳寺(とうがんじ)」に足を伸ばした。 移動は地下鉄の一日乗車券(平日740円)を使う。名古屋の地下鉄は環状線と直線の組み合わせであり、網の目のように張り巡らされている。こりゃ、便利だわ。 地下鉄本山駅から名古屋大学方面に5分歩くと左手に桃厳寺がある。 織田信長の父である信秀公(法名「桃厳道見大禅定門」)のために次男である信行公が法名の二文字を取って建立した寺である。 この寺は知る人ぞ知る秘仏でも有名であり、ねむり弁天尊像は「一度は拝しておきたい」仏像である。 不老門から境内に入場する。 まずは、織田信秀公の廟所をお参りする。 続いて本堂に行き、拝観料千円を払って秘仏殿に上がる。 本堂からつながる廊下を渡って秘仏殿に入る。秘仏殿入口右手にねむり弁天尊像がいらっしゃった。いや、これは凄い。釘付けになった。 解説は不要である。 続いて、秘仏殿内に入る。これまた、秘仏のオンパレードである。 リンガ(男根)崇拝の寺でもある。 最後に名古屋大仏を拝観する。 う~む、この大仏は新しい。大仏を拝むにも、大仏自身に年季が必要な気がする。 名古屋に出向いたら、この寺に行かない手はない(この項続く)。 名古屋探訪の記(後編) 付き並みだが名古屋城にも顔を出したいと思った。 おいらが学生時代、親父と二人で名古屋城を訪れたことを思い出したからである。 親父が癌の再発で亡くなる数年前のことであった。親父は49歳という若さで他界した。今から考えると、当時の親父は死と向かい合いながら生きていたはずである。 だから、名古屋城は親父との思い出の場所でもある。 考えてみれば、約40年振りの名古屋城である。驚いたのは、天守閣が思っていたほどよりも小さかったことである。 人間は、イメージを無意識の内に心の中に抱いている。名古屋城の天守閣は大きいと思い込んでいたものだから、それがおいらの心の中で独り歩きをしたのであろう。 少々拍子抜けしたが、名古屋城を観て、親父の笑顔を思い出した。親父よ、おいらとの思い出を作ってくれて有難う(この項続く)。 本日はお休み 本日は天皇誕生日につき、お休みです。 写真は、名古屋中村区の素盛男(すさのう)神社。稲本楼のすぐ側にあります。昔は、ここに中村区の遊女もお参り行ったのでしょうか。 それでは、皆様よろしゅうに。 平成22年12月23日(木) 謎の不良中年 柚木惇 記す 名古屋探訪の記(おまけ) 今をときめく名古屋市庁である。 「河村たかし市長の評判はどうか」と地元の人に聞くと、これがすこぶる良い。 何故良いかというと、約束したことを実行に移すからである。抵抗勢力に抵抗するからである。どこかの党のようにマニフェストを反故にするようなことはしないからである。 河村たかしは、民意を味方にしたのだねぇ。 それに対し、民主党は見るべき方向を誤ったのではないだろうか。結局、同党は抵抗勢力と変わらないということが世の中に露呈したのである。 これでは、何時まで経っても二大政党制の実現は不可能である。 おいらのように二大政党制を理想とし、民主党を贔屓にしてきた人間はどうしたら良いのだろうか。 こうなったら、方法は三つしかない。 一つ目。政界再編とし、次の(次の)総理を、河村たかしにすることである。それ位のことをしなければ、日本の政治は永遠に闇から抜け出すことはできない。 二つ目。民主党にもう1回チャンスを与えるというのであれば、蓮舫を総理にするしかなかろう。 最後の選択肢は、全く違う次元の総理として、櫻井よしこを擁立することである。おいらは、総理として彼女のことを捨て難いと思っているのだが、これだけは好き嫌いがはっきりしているだろうなぁ(この項終り)。 本日と明日はお休み 本日と明日は休日につき、お休みです。 写真は、引き続き名古屋のひとこま。 千種区にある「猫ケ洞池」です。尾張名所図絵にも掲載されている古くからの池です。のどかじゃのぅ~。 それでは、皆様よろしゅうに。 平成22年12月25日(土) 謎の不良中年 柚木惇 記す 懐かしの11PM ビデオテープのDVDへの移管整理を続けている。 先日も面白いものを見つけた。平成11年(1999年)11月11日午後11時からオン・エア(放送)された「11PM」11回忌だ。今から約7年前のビデオである。 11PM(日本テレビ)は、昭和40年11月8日(月)に第1回放送が行われた。第1回放送から既に41年経過していることになる。その後、平成元年3月末まで、実に25年間に渡って放送された長寿番組であった。 何せ昭和40年当時の放送は、白黒である。その日の録画がフィルムで残っており、その放映を観たが、流石に時代がかっている。おいらが15才、中学3年のときだ。しかし、今、考えてみれば、画期的であったには間違いない。その後、おいらの青春と共にイレブンも成長する。 朝丘雪路が11PMの冒頭、「朝、まるで弱い朝丘雪路です」と当時、キャッチ・フレーズで言っていたのを思い出すが、今では「朝の6時には起きる」そうだ。思わず笑ってしまった。他人事でなく、頷ける話しだからである。 この日の参加者は、大橋巨泉、朝丘雪路、愛川欣也、藤本義一、前田武彦、カルセール麻紀(本名、平原鉄男だったかなぁ)、小野やすし、安藤孝子ほか錚々たるメンバーが出演していた。懐かしい限りである。 さて、11PMは、様々な意味で金字塔を建てた番組であった。考えてみれば、親に隠れて見ていたときが一番面白かったという記憶があるが(大学生になって自由に見ることが出来るよいうになると案外面白くなかったりして)、何と言っても凄かったのは、ヌードとベトナム戦争を同じ番組で同時に扱っていたことである。他番組では出来ない芸当だった。平凡パンチと朝日ジャーナルが一緒の雑誌になったようなものだ。考えられない芸当である。これは、あの大橋巨泉のキャラクターだから許されたのだろう。彼は、あれで実は立派な思想家である。 この番組の中で大橋巨泉が述べていたが、当時の11PMが面白かったのは生放送だったからである。現在のディレクターは生放送が怖くて、録画のものしか撮っていないから、面白みに欠けるのだと言う。そうかもしれない。深夜のワイドショーをライブにしないのは、テレビにとって自殺行為である。 地デジ対応は財産権の侵害 いよいよ来月でテレビのアナログ放送が終わるらしい。 我が家の大型テレビはアナログ仕様である。阪神大震災の年に購入した。あまり観ないこともあって、まだ充分現役である。 おいらのテレビを観る流儀は、録画した番組を自由時間にみるというものである。流石にニュースやカープ観戦のときはオンタイムで観るが…。 だから、HDDレコーダーは必需品である。このレコーダーはブルーレイ対応であり、地デジもOKであるから新たにチューナーを接続しなくても問題はない。 問題は実家である。 母の施設においている小型テレビは古いが、映りは良い。買い変えるつもりはないので、チューナーを接続するつもりでいた。 ところが、チューナーを求めようとしたら大きな問題が発生した。 このテレビ、相当古いので、チューナーからのアンテナ接続ができないのである。具体的には、テレビに赤白黄色のアンテナケーブル入力端子がないのである。 そこで、チューナーのアンテナ出力端子とテレビのアンテナ入力部分をつなぐアダプターを家電量販店に求めに行ったら、売っていないという。店員に相談したら、秋葉原に行けばあるはずだと云うのだが、そこまで労力を使うつもりはない。 て、ことは、このテレビ、捨てるしかないのだ。オイオイ、まだ十分使えるテレビがアナログ放送中止でオシャカかよ。 これって、財産権の侵害にならないのかなぁ…。 寅さんの口上 映画「男はつらいよ」の主題歌(作詞・星野哲郎、作曲・山本直純、歌・渥美清)をゆっくりと聞く機会に巡り合えた。 この曲の台詞(せりふ)に味がある。 歌詞カードから転載してみよう。 「私生まれも育ちも葛飾柴又です 帝釈天で産湯を使い 姓は車 名は寅次郎 ひと呼んで フーテンの寅と発します とかく 西に行きましても 東に行きましても 土地 土地のお兄貴さん(おあにいさん) お姐さん(おあねえさん)に ごやっかいかけがちなる若造(わかぞう)です 以後 見苦しき面体(めんてい)お見知りおかれまして 今日こう万端(ばんたん)ひきたって よろしくお頼み申します」 前段は主題歌の頭にあたる部分であり、皆さんがよくご存知のとおり。しかし、後段の、歌では最後に唄われる部分は案外知られていないのではないか。こうして、歌詞をゆっくりと見ると、時代を感じさせる台詞である。 最近では、こういう啖呵(たんか)をきる人もいなくなっており、そのうち死語になるのであろう。「若造」はまだ分かるにせよ、いずれ「面体」とか、「万端ひきたつ」などの言葉は使う人がいなくなるんだろうなぁ。 的屋(香具師)も近代化され、古い文化は廃れるのみか。 色と欲の人、小林一茶(前篇) 山田風太郎の「人間臨終図鑑」(昭和61年、徳間書店)はおいらの座右の書である。 この書の小林一茶の書き出しは、次のとおりである。 「十五歳で江戸に奉公に出され、(中略)、俳句の世界から外に出れば、金銭的にも性欲にも、エゴイズムと強欲の化身であった」 いやはや、恐れ入る話しである。江戸を代表する俳人の一茶も風太郎にかかるとケチョンケチョンである。 しかし、一茶のことをこれだけ簡潔に述べる風太郎の力量には脱帽である。 さて、その一茶である。 代表句「我と来て遊べや親のない雀」のイメージがあるので、歌人の良寛和尚(新潟出雲崎出身)のような温厚な人物だと思っていたが、実際は違ったようだ。 来歴を調べてみると、一茶は宝暦13年(1763年)、信濃北部の柏原(かしわばら)宿の農家の長男として生まれている。 3歳で母を失い、8歳のときから継母に育てられる。だが、この継母とは折り合いが悪く、また、腹違いの弟とも仲がよくなく、孤独で内向的な性格となる。 15歳のとき江戸に奉公に出され、25歳のころから俳人として身を立てるようになった。 29歳のとき、江戸を出て関西西国筋へ俳諧修行に出かけ、7年間におよぶ俳諧行脚を終えて江戸に戻った一茶は酒脱な作風で俳壇に知られることになる。 しかし、当時、俳句で生活していくのは容易ではなく、また、江戸を代表する俳人といえども生活は楽ではなかった。一茶の憧れは松尾芭蕉であったが、芭蕉のように漂白することもできなかった。 その一茶は35年間故郷を棄てていたにもかかわらず、父が死ぬと腹違いの弟が故郷で働き続けていた家の財産の半分をおれのものだと主張し、12年間も相続争いを続けたのである。 結局、一茶は彼らの住んでいた家を二つに仕切り、片方を自分のすみかとしたのである。 このときの取り分は家屋敷半分と世帯道具一式のほかに田約5反、畑3反歩、山林3ヵ所であった。なお、この資産規模は柏原では中の上クラスだという。まさしく欲の塊である。一茶、50歳のときであった。 故郷に戻り、一句。 「是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」 一茶は、この年以降柏原村の本百姓として登録され、翌年からは弥太郎名義で年貢も納めている。 そして52才で結婚し(初婚)、有名な「一日三交」のすさまじい色の記録を残すのである(この項続く)。 色と欲の人、小林一茶(後篇) 一茶は母親の実家の当主で従兄の徳左衛門の薦めにより、28歳の菊(出戻りではなくひとり身)と結婚した。 江戸帰りの俳句の宗匠52才が28歳の女と一緒になったのである。このときの彼の色の記録が露悪癖を示すものといわれている。 文化13年(一茶54才)1月の日記。 「15日 晴。三交 16日 晴。三交 17日 晴。夜三交 18日 晴。夜三交 19日 晴。三交 20日 晴。三交 21日 晴。四交」 いやあ、すさまじい。「雀の子そこのけそこのけ一茶が通る」である。このような連日連夜の交合の記録は一か所だけではなく、何カ所もあるから恐れ入る。欲だけでなく、色の塊である。 ただし、一茶が老年期になって発症した性欲亢進症と決めつけるのは早計である。 頻繁な交合そのものは江戸時代の農民夫婦にとって不思議ではなかった可能性が高い。 当時の農民夫婦をめぐる状況を考えると、夫婦にとって陽が落ちると灯火はないも当然で、ましてやテレビもラジオなどの娯楽もない。簡素な飯を済ませて、囲炉裏の明りで藁仕事をした後の二人は一つ床につくしかない。 床に入れば、寝床の中で暖をとるのはお互いの人肌しかないのである。抱きついて脚をからませるのは自然の成りゆきである。 江戸時代の農民夫婦はみな一茶のような生活を送っていたのである。いや、江戸時代ではなく、戦前までの日本の地方ではこのようなことは普通だったと思われる。一般に日本人は性に淡泊と考えられているが、実は性には奔放で濃厚だった可能性が高い。 さて、一茶の赤ん坊は次々に生まれたが皆早死にだった。菊も疲労困憊のためか、精神神経症と痛風の発症がもとで37歳の生涯を閉じている。一茶60歳のときである。 62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるが半年で離婚する。 64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女(やた)をもうける(なお、やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。 一茶の記録によると、2回目以降の結婚後も連夜の交合に及んでおり、脳卒中で58歳のときに半身不随になり、63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやまなかったとある。 文政10年(1827年)7月、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。その年の11月、その土蔵の中で三度目の脳卒中により、色と欲の64年に渡る生涯を閉じた。 「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」 いやはや一茶は偉かった。昔の日本人も偉かった(この項終わり)。 ディープな街、吉原詣で(その1) 数年前の国営放送でタモリが吉原を探訪していた。 そのときのタモリの言葉は忘れることができない。「NHKが吉原を取り上げるとは思わなかった」(写真上は吉原交差点にある「見返り柳」。真下から撮影) さて、おいらは数えきれないほど浅草には訪問しているが、その北にあるディープな街、吉原には足を運び入れたことがないことに気づいた。 考えてみれば岡林信康の「山谷ブルース」で有名な山谷のドヤ街にも行ったことがない。 山谷は、吉原のすぐ近くである。 「あしたのジョー」で有名な泪橋も地図で知っているだけである。ここも浅草から遠くない場所である。 そもそもおいらが吉原に興味を持った理由は、写楽を調べ始めたからである。 写楽は蔦谷重三郎、通称蔦重を版元として浮世絵を出した。その蔦谷は「吉原細見」で一世を風靡した。吉原細見は、今で云う吉原の遊女の情報誌である。 だから、写楽は蔦谷の関係から吉原に出入りしていたはずである。さすれば、写楽の謎を解くヒントは吉原遊郭にあるかもしれないという推理である。 そう思っていたら年末、ひょんなことから浅草に立ち寄ることになった。 浅草で自由になる時間が午後の早い時間に1時間半程度できた。渡りに船とはこのこと、遊郭のあった吉原を探訪しない手はない。 年末で忙しいのである。しかし、おいらは忙しくなると余計なことをしたくなる性格のようだ。 その吉原探索なら昼間がよいという。確かにああいう場所は、夜は喧騒の場所である。それに夜だと沈没する恐れもある。なんのこっちゃ。 吉原は浅草駅から徒歩で行けない場所ではない。しかし、時間がないので流しのタクシーを拾うことにした。 年末の晴れた日の昼下がりにおいらは吉原大門交差点(写真上)に到着した(この項続く)。 ディープな街、吉原詣で(その2) 吉原大門、「よしわらおおもん」と読む(写真下は、見返り柳方向を望む現在の吉原大門。見る影もないが…)。 まず、ここから躓く(つまずく)のぅ。普通は「だいもん」だろう。 しかし、「だいもん」と読ませるのは芝の増上寺などの神社仏閣に限られ、庶民の場所との使い分けをしていたのである。 だから、全国各地にある遊郭の大門もみな「おおもん」である。 どうでもよいことだが、大地震を「だいじしん」と読まないで「おおじしん」と読むのと関係はあるのだろうか、あるはずはない。 では、タクシーはどういう順路で浅草から吉原まで行ったのか。 これは吉原の歴史にかかわる話しである。 写真上は、江戸時代の吉原の地図である(ブログ「旧吉原遊廓をゆく 消えた遊郭・赤線の跡を訪ねて9」から転載させてもらいました。下の現代の地図も同じ。)。 碁盤のようだが、不思議に思うのは大門が北を向いていないことである。これは、不自然である。 吉原はもともと日本橋にあったのだが、江戸の街が増殖するに連れ、お江戸の真ん中に悪所があってはまずいだろうということから明暦2年(1656年)、田舎に移転させられたのである。 つまり、田んぼの真ん中に造成したわけだから、碁盤のように造るのなら京都のように北を真上にすればよい。 しかし、遊女が北向きで寝るのはまずいだろうということや、身売りされてきた女性たちの自殺を防止させるという意味もあり、わざと北東を真上にしたというのである。なるほど。 疑問は、まだある。 出入り口である大門の位置を北東側にしたことである。 そもそも吉原は城郭にならい廓とも呼ぶのだが、出入り口は大門しかない。 しかも、四方を塀と掘に囲まれているので(蛇足ながら、遊女がお歯黒をすすいだ水を堀に捨てたので、この堀は「お歯黒どぶ」と呼ばれた)、遊女は一歩たりとも吉原から外に出られなかった、いや、遊女の逃亡防止のためにそのように造ったのである。 無論、客も出入り業者も大門以外を通って吉原を出入りできない。つまり、吉原は大門をボトルネックとする袋小路なのである。 だから、朝帰りするときなどは浅草に近い南西に大門があれば便利だったはずなのであるが、わざわざ浅草から遠い北東に玄関を造ったのである。 つまり、吉原を論じる場合、「なぜ南西に入口を作らなかったのか」という素朴な疑問が生じるのである(この項続く)。 ディープな街、吉原詣で(その3) だが、この答は簡単である。 当時、日本橋から吉原に行くには陸路ではなく、大川を船で上って今戸で降り、日本堤を通って行くのが普通だったからである。 つまり、人の流れを計算して大門という入口を作ったのである。 大門から入って間口約350メートル、奥行き約230メートル四方に囲まれた場所が吉原という非日常だったのである。 大門の外である娑婆は、いったん内側に入れば浮世を忘れる不夜城、往生安楽国か極楽か、はたまた地獄の世界か、に変わるのである。 しかし、ここで云いたいことはそういうことではない。何が云いたいかというと、吉原は袋小路なので大門から一番近い江戸町が花形であり、一番奥の京町がどん詰まりの場末だったということである。 だが、人の流れというのは怖い。 江戸が明治になって吉原は赤線となる。 堀は埋め立てられ、都電(当時は市電)が浅草から千束町(吉原)に開通すると、皆、浅草から電車に乗って吉原に繰り出すようになったのである。 何のことはない、吉原に行くのにわざわざ大門まで遠回りして行く必要がなくなったのである。 このため、どん詰まりだった京町が吉原の表玄関になり、花形だった江戸町が場末になってしまうのである。 時代が変わるというのは怖い。昔の入口であった大門まで行こうとする人は少なくなってしまったのである。 だから、おいらも浅草からタクシーに乗ったので、南西から東北に上る仲之町通りを北上して吉原大門にたどり着くルートになったのである。 江戸時代には考えられなかったルートで吉原大門入口交差点に到着。 吉原大門から土手通りを北西方向に向かって斜め前を観た写真が下。 北西方向にまっすぐ観ると、スカイツリーがそびえている。 斜め前にある創業128年の天麩羅屋「土手の伊勢屋」は大繁盛。この店舗の様子はいいよねぇ。 その昔、見返り柳前のある店は吉原に行く前の腹ごしらえか、帰路のすきっ腹を満たすための客で繁盛したという。 今でもそうなのだろうか、年末にもかかわらず、土手の伊勢屋には行列が出来ていた。 土手通りを北西方向に少し上るとあっと驚く大三元。 あしたのジョーに出会ったのである。 そうなのだ、ここはジョーの生まれた泪橋に近いのだ。こんなところでジョーに出会うとは(この項続く)。 ディープな街、吉原詣で(その4) 気を取り直して吉原大門交差点に戻る。 見返り柳を左に見て、前方が吉原である。 現在は、左手がガソリンスタンド、右手がラーメン屋であり、往時の面影は全くない。 さて、江戸時代の遊郭に戻ると、当時はこの場所から両脇に茶屋が並んでおり、茶屋を経由して吉原に案内してもらう。 ここから先は、武士といえども馬、籠、槍は厳禁である。帯刀は認められていたようだ。 しかし、ここでも細工がしてある。道路が直線ではないのである。 これは城郭なのだ。真っ直ぐの道だと城が前方にすぐに見えてしまうが、ゆるやかなカーブになっていると前方が見えない。 城の場合は攻撃されないようにということで分かるが、ここは廓である。何もそこまでしなくてもと思うのは、風流を解さない野暮というものである。 じらすのである。曲がりながら三味線の音や喧騒が聞こえ、光が漏れてくるとわくわくする造りなのである。分かってらっしゃる。 現在でも右に道路が曲がっているのがよく分かる。 この道路をなだらかに右に曲がりながら進む。 S字型に蛇行しているので大門の前は左側に曲がると右手に吉原交番がある。 なだらかに左に曲がりながらその先に吉原大門。 交差点から約100メートルで現在の吉原大門。 明治時代の写真は次のとおり。立派な鉄製の大門であったが、戦時中の資材供出で取り外されてしまい、復活することはなかった。哀れである。 ここから先の遊郭は別世界であった。非日常だったのである。木造3階建ての豪華絢爛な高層の妓楼がびっしりと立ち並び、とてもこの世のものとは思えない、とここまで書いてもリアリズムがない。 そりゃそうだ、だっておいらも観たことがないのだから。 しかし、数年前に物好きにも名古屋の中村遊郭跡地を訪問し、おいらはそこで観た遊郭(写真下)に圧倒されたことは覚えている。 それから想像するしかないのかなと思っていたのだが、最近、この別世界について新説を発見したのである(この項続く)。 ディープな街、吉原詣で(その5) それは、おいらが吉原についてネット散策をしていたときに発見した。 「『千と千尋の神隠し』を遊郭という角度から考察する」というブログであった。 それを一言で表すと、宮崎駿監督は舞台のモデルに遊郭をヒントにしたというものである。 これは鋭い指摘である。確かに上の建造物は遊郭そのものである。 遊郭の色は、真紅。建物は当時の和洋折衷で唐の様式が入っている。こりゃ、エキゾチックである。 現代で一大テーマパークを造る場合、おいらたちの感覚だとディズニーランドやハウステンボスのように西洋をイメージして創るのだが、それに逆らって遊郭のイメージを持ち込むとは脱帽である。 なぜなら、おいらの世代ではこういう桃源郷をイメージする場合、やっぱ竜宮城である。江戸時代の好色一代男に出てくる女護島のイメージも竜宮城がモデルだろう。 その竜宮城を模したのが江戸時代の遊郭だったのではないか。それに気づいた宮崎駿は天才だな。 上のシーンなどは海上に浮かぶ「須崎(すさき)遊郭(現・江東区東陽町。戦前、須崎パラダイスの名で吉原に次ぐ巨大遊郭として存在した。今は絶滅)」と同じではないか。 須崎遊郭には高くて大きな時計台があり、周辺は云うに及ばず遠方からも時間が見えたという。 だから、千と千尋の舞台は大人が見てもワクワクドキドキの世界として完成したのだ。いや、それ以上のいかがわしさまで漂よわせることに成功したのである。 このイメージから遊郭時代の吉原を考えると、当時の吉原は見渡すかぎり唐様式の木造3階建て!!の朱塗りの大妓楼が軒を連ねていたに違いない。 しかも、メインストリートには柳の街路樹があり、その中央には桜の季節には桜、5月になれば菖蒲(あやめ)、7月と8月に灯籠飾りなどが持ち込まれ、夜間は無数の提灯でライトアップされるのである。 こういう異次元の世界が吉原だったのである(この項続く)。 ディープな街、吉原詣で(その6) 明治になってもこの異次元の世界の流れは変わらず、明治11年(1878年)には木造6階建ての「金瓶楼(きんぺいろう)」が出現する。 上が「新吉原江戸町壹丁目 金瓶楼上図」(歌川芳虎作。早稲田大学が所蔵)である。 確かにこりゃ竜宮城だわ。遊郭に入った男は非日常の世界にはまるわな。 金銭感覚も確実に麻痺するのぅ。 では、このめくるめく世界の経済規模はどうだったのであろうか。 吉原で動くお金は一日千両と呼ばれた。1両が10万円とすると1億円の日銭が動いたことになる。 当時、日銭が1億円動いたのは吉原のほかに市場と芝居しかなかったという。 では、このときの遊女はどうだったのだろう。 金瓶楼の遊女と伝えられている写真が早稲田大に残っている。。 解説は避けるが、江戸時代の遊女はただの遊女ではない。 江戸時代、花魁と遊ぶにはしきたりを踏まなければならない。金があればふらりと吉原に行って遊ぶということなどできない。一見(いちげん)さん(フリの客)はお断りなのである。 しきたりとは、文化と云い換えることができるかも知れない。庶民が吉原に行くには、そのための身なり、付き添いが必要であったのである。そのため、長屋では大家が付き添いをすることになり、羽織袴で登城したという。 また、遊女の格についても触れておかなければならない。 遊女であっても、遊女は客と対等という感覚であった。 同時に、庶民も遊女を対等とみていた。だから、遊女を見受けして妻にするというのに違和感はなかった。身分のある町民が遊女と結婚して幸せになったという話しは枚挙に暇がない。 また、遊女の中でも格の高い花魁は武家の殿様であっても袖にしたというから痛快である。 これは、当時の性に対する意識の違いが根底にあったとは云え、ある意味で文化の結実である。 吉原とは、実はそういうところだったのである(この項続く)。 ディープな街、吉原詣で(その7) では、現在の吉原はどうなっているのだろうか。 吉原大門から目と鼻の先にある交差点が吉原交番前交差点である(写真上)。 この交差点の先が現在の吉原遊郭である。 ネオン看板がなければ、何の変哲もない景色である。関東大震災で焼け野原となり、戦災で再び消失したとしても遊郭の名残は見事に何もない。 都市の目抜き通りの光景と変わらない商業ビルが並んでいるだけである。 だが、この交差点から次の交差点(千束4丁目)まではソープ街となっている。 休日の昼間ではあったが、まばらに黒服のお兄さんが立っており、写真を撮る雰囲気ではない。 メインストリートである仲の町通りを南下する。 途中、何軒も喫茶店に出くわす。中から出てきた中年の男性に入っていきませんかと声をかけられたが、無視する。 吉原で何が嬉しくて喫茶店などに入るのだ。 しかし、これも後で調べてみたら、喫茶店とはソープ店などの情報を教えるガイド店だったのである。もともとは情報喫茶などと云われていたらしいのだが、当局が情報という言葉を禁じたため、喫茶のままだという。 よく分からない世界じゃのぅ。 本来はここで南下するだけでなく、横の路地に入ればよいのだが、あいにく時間も限られており、メインストリートだけを通過することにした。 途中、カートを引きながら道路を横断するうら若き女性と遭遇。その道の女性とお見受けしました。やはり、そういう場所なのである。 千束保健センター交差点まで歩く。ここが吉原のどん詰まりである。 気づいたことは、意外にソープ店が少ない(それでも約150店存在するらしい)。その代わり、空き地(駐車場)やマンション、ホテルなどが目立つ。 公娼が廃止された昭和33年までは旧吉原遊郭の跡地いっぱいにその筋の店が立ち並んでいたが(地図下)、売防法の施行で店を廃業したあと、飲食店や旅館などに鞍替えした店もあり、吉原は衰退した。 その後、ソープのメッカとして再び脚光を浴びるが、バブル崩壊と風営法の改正などにより、ソープ店を営業できる場所も吉原の中で限定的とされ、かつてのソープ黄金時代のような趣はない。 歴史のある場所だが、これではいずれ須崎遊郭(前出)のように跡形もなくなる恐れもあるのだろうなぁとつまらん心配をしてしまうのである(この項続く)。 ディープな街、吉原詣で(その8) 仲之町通りを南下して千束保健センター交差点が吉原のどん詰まりであった。 ここから先を歩くと右手に吉原病院(現・台東病院)がある。もともとは吉原が赤線時代には性病専門の病院であったが、売防法施行後、都立台東病院となり、その後台東区立台東病院となって2009年に現在の立派な建物となった。 少し歩くと左手に吉原神社が見えてくる。 吉原神社は吉原の総鎮守である。関東大震災前の社殿は見返り柳の向かいにあったのだが、震災で焼失。その後、現在の場所に社殿を建立したが、戦災で再び焼失した。 したがって、現在の社殿は昭和43年に新たに建立されたものだ。 吉原神社から少し歩くと同神社内の境内地に吉原弁財天が見えてくる。 鎮座している吉原弁財天。 ここには吉原遊郭で亡くなった遊女たちが慰霊されている。 特に関東大震災では吉原が焼失、吉原内にいた遊女は多くが閉じ込められ、逃げ場を失った遊女490人がこの地の弁天池に飛び込み溺れ死んだ。 そのときの写真が境内に掲示されており悲惨極まりない。 吉原弁財天には、弁天祠がある。この祠の壁がサイケである。 弁天祠の社殿は遊郭のように装飾されている。 あたかも台湾か香港の社殿のようにケバイ。初めてアジア諸国の神社仏閣を訪れるとその異様な雰囲気に圧倒されるが、神社仏閣と遊郭には何か相通じるものがあるような錯覚に陥る。 以上、駆け足であったが、おいらの吉原探訪はとりあえず終了。いやはや、吉原とはまっことディープな街であった(この項終わり)。 <付録その1> なお、この後、タモリ氏にならい、浅草・吉原そばの「待乳山聖天」を訪問した。この話しは割愛。 大根は良縁成就、夫婦和合にご加護があるということで、大根がからみ合っている提灯。 <付録その2> この吉原連載中に落語の鬼であるM氏から耳よりな情報をいただいた。 「二階ぞめき」という吉原にまつわる落語をご教示いただいたのである。 YOU TUBEでではやる気のない談志師匠がいやいやこの落語を演じるのだが、これが絶品であった(YOU TUBEで検索可能!)。 吉原を探訪するのであれば、この落語を聞かない者はモグリである。ほんまかいな。 Mさん、毎々ありがとうございます。 以上、吉原にまつわるお話しは、これにておしまい。 |