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さすらいの天才不良文学中年

二科展 君田淳一 日展 ピカソ

二科展たいしたもんじゃい

 恥ずかしながら、生まれて初めて二科展に行ってきた。


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 六本木ミッドタウン傍にある国立新美術館である。

 歯が痛くなったときにおいらが通院している、某駅前歯科医院の君田淳一先生が二科会写真部会員であられるのだ。

 この歯科でお世話になるときは、待合室や診察室に先生の力作が掲示されており、目を楽しませてくれるのである。

 先日、このブログでも書き込んだとおり、歯が痛くなったので、再び先生の門を叩いたところ、写真談議に花が咲き、帰りしなに先生から第97回二科展の招待状をいただいたと云う次第である。

 その二科展は9月5日(水)から17日(月)まで開催された。おいらは先週の水曜日に時間を割いて六本木まで行ってきた。

 いや、驚いた。

 絵画、写真、デザイン、彫刻など約2千点が展示してあるのだ。応募総数はその10倍程度であるので、合格率は約10%(ただし、写真のみに関して云えば、1,053点入選に対して18,112点の応募だから、合格率は約5%)である。

 その2千点以上の作品群が所狭しと会場に展示してあるのである。これは、圧巻である。

 早速、君田先生の作品を探す。

 ありました。


君田先生マドラスの少女1.JPG


「マドラスの少女」。

 マドラスはインド南部の大都市で、現在の名称はチェンナイ。

 いやぁ、観せるねぇ。何でもない風景が芸術作品に変わるのである。舌を巻く。

 おいらが写真の師匠としているMademanさんに叩きこまれたことは、「1に構図、2に露出、3,4がなくて5にピント」であるが、それら全てが文句なし。

 近年、君田先生の作品は中近東を訪問しての作品が多いようである。

 さて、二科展全体を観ての感想。

 やはり、芸術は独創性にある。それは奇をてらうということではなく、今まで誰も試みたことのないことに挑戦するという意味である。

 そういう作品は光っている。他を圧倒している。絵や写真が上手くても、今まで観たことのある作品は所詮それまでである。

 そういう、ごく初歩的なことを思い出させてくれた二科展であった。君田先生、有難うございました(下の写真は、彫刻部)。


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 初心、忘るべからずである。



今年の二科展の君田淳一先生

 今年も二科展に出向いた。「第98回二科展(9月4日~16日、六本木の国立新美術館で開催)」である。


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二科展2.jpg


 昨年もこのブログに書き込んだように、おいらの行きつけの歯科医である君田淳一先生(二科会会員)から今年も同展の招待状をいただいたのである。

 先生は、エキゾチックな国での何でもないと思われる、いわば日常の一場面をさりげなく撮られるのである。しかし、その光景が先生の手にかかれば、どきっとするような写真に生まれ変わるのである。

 おいらは思うのである。

 写真の持つ力には、二つある。

 その一つは、自分がその場面に出くわしたかのように思わせる写真である。

 その写真に心を吸い取られるのである。あたかも自分がその写真の中にいるかのように。


 もう一つは、写真が静止しているにもかかわらず、動いていると思わせる写真である。

 写真が動いたらそれは動画だが(当たり前だ)、たった1枚であってもその前の光景とその後の光景が鮮やかに目に浮かぶ写真である。

 どちらの写真も、写真の持つ凄みによるものである。

 さて、先生の写真(おいらによる撮影)である。お許しをいただいて今年の二科展出品作品を掲載させていただく。


リマの少女.jpg


 この写真を見た瞬間においらはリマにいるような感じになったのである。リマに行ったことがないのに、おいらはリマでこの少女に会ったような気になったのである。

 先生の作品は、お名前(君田淳一)をネットで検索すると二科展出品作品が掲載されているので訪問されると良い(「Gallery写真部>>君田淳一」)。

 その中の、第95回二科展の「祭りの後で」は、静止画面なのに祭りの前と後が鮮やかに浮かび上がるという、秀逸の作品である。

 君田先生、有難うございます。

 でも、これだから、写真はやめられないよなぁ。



伝説の洋画家たち 二科100年展

 先日も述べたとおり、ミニコミ誌「情報の缶詰」のS編集長と東京都美術館(上野)で開催中の「伝説の洋画家たち 二科100年展」に出向いた(15年9月6日(日)まで開催)。


伝説の洋画家たち 二科100年展.jpg


 二科展を飾った日本を代表する画家たちのオンパレードであったので、見応えは充分。

 おいらは特にフジタ(藤田嗣治)や佐伯祐三の絵に魅入ってしまい、絵の持つ悪魔性を存分に愉しんだのであるが、今回はそのことについては触れない。

 思い込みというものについて触れる。

 おいらの好きな画家に古賀春江がいる。代表作は、1929年に描かれた「海」(写真下)であり、このシュールな感じがたまらない。


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 女性でここまで描く画家は珍しく、古賀春江の絵があるといつもその前で立ち止まったものである。

 しかし、今回仰天したのは、古賀春江が男だったということを知ったことである。

 ヒエ~!! 何で女の名前なんだよ~!!

 調べてみると、詳細は不明だが、古賀は若くして僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名、「春江」はあくまでも通称だそうである。

 S編集長は元々は「はるえ」ではなく、「しゅんこう」のつもりではなかったのかと慧眼の推理をしておられたが、どうやら最初から「はるえ」のようである。

 世の中にはまだまだ不思議なことがあるものじゃのぅ。

 さて、この「伝説の洋画家たち 二科100年展」が教えてくれたことは、日本の洋画家も捨てたものではない、ということである。

 どの画家も西洋の絵をどうやって日本の絵にしようかと腐心した痕跡があり(絵によっては、巨匠のものであってもルノアールやセザンヌの影響が色濃く出ているものがある)、そういう観点から日本の洋画の揺籃期を観ることができるので面白い。

 ただし、それが成功したかどうかは、また別の問題である。おいらにキビシイ云い方をさせてもらえば、それに成功した画家は数が少ないと思うのである。極論すれば、フジタや佐伯以外に成功した画家を見つけるのは本当に難しい。

 とまれ、この美術展、日本の洋画を知る上では欠かせないものとなっている。上野に急げ。本日も竹原探訪を中断してのブログである。



二科展に出向く

 第100回記念二科展が9月2日から国立新美術館で開催された(14日まで)。


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 二科100年展として「伝説の洋画たち展」が東京都美術館で開催されていた(15年9月6日まで。このブログで紹介済)が、それに続いての開催であった。

 おいらはこのブログでも取り上げている二科会写真部会員の君田淳一先生から招待状(写真上)をいただいたので、早速愚妻とともに会場に出向いたのである。

 二科展の雰囲気については、フリーページ「自由人 事始め『二科展 君田淳一』」を参照していただければと思うので、今回は君田先生の写真を中心に述べる。

 二科展の会場は広い。

 絵画、彫刻、デザイン、写真の4部門から成り、国立新美術館のほとんどのスペースを使うのである。端から端まで観ていると日が暮れる。

 おいらと愚妻は君田先生の写真を観るために会場を訪れたのである。


2015二科展2.JPG


 昨年までの記憶では、撮影が認められていたと思ったので会場の入り口(写真上)で撮影の可否を確認すると写真部門は今年はダメだと云われる。

 招待状をいただいた経緯を述べて君田先生の写真も無理でしょうかと聞くとそれならOKとのこと。お許しをいただいたので、先生の写真を探す。

 あった、神奈川県の会員の一角に先生の写真が輝いていた。題して「マドラスの少女」(写真下)。


君田先生マドラスの少女2.JPG


 2年前も「マドラスの少女」だったので、今回はそのシリーズのようだ。

 綿を運ぶ少女である。

 綿帽子と少女の眼のコントラストが秀逸である。この手の写真は先生の独壇場である。マネができない。一昨年もこのブログで書いたが、この写真を見た瞬間においらはマドラス(インド南部の大都市)にワープしたのである。マドラスに行ったことがないのに、おいらはマドラスでこの少女に会った気持になったのである。

 写真の持つ力は無限であるが、このように思わせる写真がそうそうあるものではない。力量のある写真だけが持つ力である。

 君田先生、今年もまた写真の何たるかを教えていただき、ありがとうございました。



二科展 君田淳一先生

 今年の二科展が終わった(9月6日~18日。於・国立新美術館)。


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 おいらは横浜在住のときからお世話になっている君田淳一先生から二科展の招待券をいただいたので、愚妻ともども9月14日(木)、国立新美術館に出向いたのである。


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 君田淳一氏(二科展会員)のことはこのブログでもたびたび取り上げているので繰り返しはしない。

 だが、ひと言で述べると、本業は歯科医であるが、プロの写真家が歯科医を兼業しておられる、とでも云うべき人ではないかと思っている。

 この先生の手にかかると、日常の何でもない空間が絵に生まれ変わるのである。

 これまで先生が二科展に出品された作品はいずれもエキゾチックなものばかりであり、今回も場所はちょっと分かりにくいが恐らくは中東ではないだろうか。

 その写真である。


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 子供たちが水汲みに行っている写真である。笑顔が溢れている。彼の地ではこういう光景が日常なんだろうなぁと思わせる、ほのぼのとした絵である。

 いいよねぇ。浮世を忘れる。

 だけど、先生、忙しいのにいつ海外に行ってるんだろう。


(追伸)
 君田歯科は東急東横線某駅前(ネットで検索)にあり、歯科医院の待合室と治療室には先生の写真が展示してあります(随時、展示替え)。先生の腕前(もちろん、歯科医の)はおいらが保証します。看護師さんも美人です。引っ越ししても通いたいほどです。




日展にいく(前篇)

 先週の日曜日まで日展が開催されていた。


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 六本木の国立新美術館である。

 二科展にはこれまで何度も足を運んでいたが、日展に出向いたのは今回が初めてである。高校時代の友人Dさんが日展の洋画部門に初入選したからである。

 Dさんが入選したことはフェイスブックで知っていた。めでたいと思った。おいらの記憶では、一昔前は日展に入選することは大変名誉なことで町中が喜んだはずである。

 他方で、日展の悪いイメージも思い出された。

 曰く、審査員の派閥がある。日展に入賞するためには、その色のかかったお師匠さんに師事しなければならない。曰く、エコひいきがある。曰く、高額な賄賂がいるなど、裏の話しも多い。

 考えてみれば、日展はもともとは文展、つまり「文部省美術展覧会」であり、その後「帝展」とも呼ばれていたキャピキャピの官製公募展である。

 だからであろうか、官に反発するグループが出てくるのは自然の流れである。大正3年に文展の審査に不満を持った画家たちが文展から独立して在野の美術団体「二科会」を結成したのである。

 だから、片方の展覧会では受かり、片方では落ちると云う当たり前の事象が出てくる。

 しかし、本当に素晴らしい作品であればどちらの展覧会でも入選すべきである。思い出すのは、パリのサロン・ドートンヌ展に出品した6点とも入選した藤田嗣治に第4回帝展で発表するなら公募にさせようとしたという日本画壇の歴史である。

 だが、自分たちの縄張りの基準に合致しなければ絵を評価しないという展覧会では世界は相手にしてくれないだろう。


 前置きが長くなった。おいらが云いたいのは、おいらが観た二科展の絵と日展の絵とにどういう差があったかである(この項続く)。


日展にいく(後篇)

 さて、二科展と日展の差である。


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 日展にいく前は、漠然と日展の方がレベルが高いのではないかと思っていた。

 しかし、おいらの結論はどちらも同じであった。どちらも一定以上のレベルの絵になっており、双方とも優れた絵が2割、酷い絵が2割程度である。

 例えは悪いが、一流企業と二流企業とを比較した場合、一流企業がいつも勝つとはかぎらないのと同じである。一流企業にもなさけない人はいるし、二流企業にも優秀な軍師はいる。

 おいらの見立てでは、どちらの展覧会の合格基準も「構図がどうか」、「配色はどうか」、「大きさは最低100号程度あるか」、「時代性があるか」、「技術レベルは最高か」、「独自性・オリジナリティがあるか」だと思う。

 これらの全部が揃っていれば文句なしの優秀作品だろうが、そういうのは数点あれば御の字である。つまり、日展も二科展も変わりはない。

 さて、そう思いながら、Dさんの作品を探した。

 あった。洋画部門の2階の会場に彼女の油彩は鎮座していた。


日展3.jpg


 これが、できぶつ。巧い。素人の作品ではない。

 実は海面を題材にするのは、油彩の定番である。今回の日展でも多くの海面(または海中)の作品が入選していた。しかし、Dさんの作品の出来栄えは突出している。しかも、シンプルである。シンプル イズ ベスト。

 惜しむらくは、手前の(実際の色に近いと思われる)濃い藍色の部分を少し明るくした方が全体のバランスが保てるように思えたのだが、それは作者の意見も聞いてみなければ公平ではない。

 いずれにしてもこの作品は傑作である。

 彼女の作品が絵葉書になっていたので、おいらは文句なく購入した。

 ところで、日展で良かったことが二つ。

 一つ目は、16時以降に入場するとトワイライトチケットとして、300円で入場できたことだ。これは助かる。勤務先から早めに退社して4時過ぎに入場しても2時間弱は堪能できる。

 海外ではこういう時間帯はアドミッションフリー(入場無料)が普通だが、まだまだこういうことをする美術展は少ない。他の美術展も見習うべし。

 二つ目は入り口で写真撮影の許可を貰ったことである。これで大手を振って写真撮影が可能となった。

 以上、愉しいひとときを過ごすことができた、Dさん、ありがとう(この項終わり)。





S編集長と上野の国宝展に行く(前篇)

 本日より3日間は、関ネットワークス「情報の缶詰12月号」に掲載された「S編集長と上野の国宝展に行く」をおおくりします。


S編集長と上野の国宝展に行く

 11月5日、S編集長と上野の東京国立博物館で開催中の「日本国宝展(祈り、信じる力)」に出向いた。今回はそのご報告である。


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1.見ないと損。国宝がてんこ盛り

 過日、S編集長から国宝展を観に行かないかとのお誘いを受けた。おいらは好奇心を刺激されたので二つ返事で了解した。

 考えてみれば、教科書で観たことのある国宝は枚挙に暇がない。だが、おいらの鉄則である本物を観るという観点からは、今までどれほどの国宝を観たか自信がない。

 しかも、国宝は一箇所にまとめられているわけではなく(当たり前だ)、日本全国を行脚しなければ観ることができないのである。今回、国立博物館に120点の国宝が集合するのであれば、行かない手はない。

 早速、編集長の掌の中で動いてみたという次第である。


2.仏像のエロティシズム

 午後三時に上野駅公園口で待ち合わせ、国宝展を二時間ほど観覧してその後は現地で懇親にしようというスケジュールである。

 切符の手配は編集長が行われた。平日の午後だが、万が一、入場券売り場が行列なっていたら、そこでの時間ロスはたまらない。そういう苦い経験をしたことのある人は多いだろう。

 だから、編集長は事前にネットで入場券を購入し、プリントアウトされていた。準備万端である(入場料は一人1,600円)。

 当日の入場券売り場はさほど混雑していなかったが、会期終了近くなると入場券を買い求めるだけで一時間も待たせられることがある。編集長の用意周到ぶりには脱帽である。

 スムーズに入場し、国宝とのご対面である。

 ところが、入場してから展示されている最初の国宝からくぎ付けになった。「玉虫の厨子」(飛鳥時代)である。

 くぎ付けになるのは編集長とおいらだけではなく、周りもそうなので(皆、玉虫を探している)、列は前に進まない。しかも、編集長と二人でこの国宝を品評したり、バカ話しをしながら進んでいくので時間だけがどんどん経過していく(この項続く)。


S編集長と上野の国宝展に行く(中篇)

2.仏像のエロティシズム(続き)

 例えば、おいらが一番気に入ったのは、平等院の「雲中供養菩薩像」(平安時代)である。


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 これは写真でしか観たことがない。その実物が目の前にある。しかも、本来は頭上高いところにあるはずの菩薩像が約50センチほどの近くで展示されているのだからたまらない。

 編集長とおいらはこの菩薩像の前で立ち止まり、絶句する。それほどの見事な出来栄えである。二人とも動くことを忘れている。

 不謹慎かも知れないが、おいらは仏像を上質のエロだと思うのである。菩薩像にエロティシズムを感じるのである。何ともなまめかしい弁財天様に出会うのは至福のときである。

 実は編集長もその意見に反論はなく、この雲中供養菩薩像の二の腕が実に艶っぽいと高く評価されているのである。

 平安時代に創られた菩薩像であるが、当時の民衆をとりこにするのにエロティシズムが有効な手段であったことは想像に難くない。しかし、あからさまなエロでは困る。民衆を惹きつける魅力としてなまめかしさが重宝されたと思うのである。

 なお、この見解は何もおいらだけが云っているのではなく、金沢大学森雅秀教授も「エロスとグロテスクの仏教美術」(2011年、春秋社)で同様のことを云っておられるので付言する。


3.時間がない

 こういうことだから、国宝の一点、一点について二人で感嘆驚愕することになる。ただし、大声で騒いでいるわけではない。二人で鎌倉時代の国宗の刀を論評していたときである。隣で鑑賞していた妙齢のご婦人までがいつの間にか二人の話しに入ってきて、話しの輪が拡がっているのである。

 気付いてみると、あっという間の二時間である。最後は駆け足で観なくてはならないというお粗末さになった。

 おいらたちは時間設定と配分を間違えたのである。この展覧会は最低半日かけてゆっくりと観たい。最低でも三時間は必要だろう(この項続く)。


S編集長と上野の国宝展に行く(後篇)

4.是非とも観たいもの

 この国宝展で是非とも観たいものはやはり仏画である。

 圧巻は「仏(釈迦)涅槃の図」(平安時代)。


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 教科書で観た記憶ではこんなにでかいとは思わなかった。圧倒される。不謹慎だが、買うとすると数十億円は下らぬだろう。おそらくゴッホのひまわりより高い。いや、金銭に換算などできぬ。

「孔雀明王像」(平安時代)も必見である。これは大傑作。明王が孔雀の上に鎮座しておられる。この孔雀が正面から描かれているのがミソである。余談だが、アフラックの宣伝を彷彿とさせる。

 また、骨董好きの人には安宅産業が収集していた「青磁の花入れ」(中国・元時代)も見応えがある。「井戸茶碗」(朝鮮時代)や「志野茶碗」(安土桃山時代)も展示してある。

 志野茶碗は国内で創られた茶碗である。国宝に指定されている茶碗は八点あるが、国産で国宝に指定されている茶碗はわずか二点しかない。そのうちの一点がこの志野茶碗である。

 本好きの人には、やはり「日本書紀」の巻物だろう。残念ながら日本書紀の本物は現存していないが、最古の写し(平安時代)を岩崎財閥が保管していたものが国宝になっている(通称、岩崎本)。その現物が拝めるのだからたまらない。

 こうして国宝展をみると、断然多いのが仏教関連だと気付く。当時の国家は、仏教を巧みに利用して為政をしていた。国家の威信をかけてこれらのものを創ったからというわけではないが、民衆の心を鷲づかみにする宗教のパワーを感じさせるものばかりである。

 見知らぬ外国に行っても、教会にひとたび入ればキリスト教徒でもないのに荘厳な気分になってしまうのと同様、神社仏閣に入れば信心が自然に湧き出るようになるのは仏像や仏画の持つ力であろう。

 皆の衆、この国宝展の開催は12月7日まで。残り期間はわずかである。上野にお出向きあれ。

 なお、帰路、上述のとおり、上野の牡蠣専門店で編集長と牡蠣食べ放題の貴重な懇親をしたのは云うまでもない。上野の夜は更け行く。秋の夜と芸術は長し(この項終わり)。


ピカソは80才で最後の愛人ジャクリーヌと結婚する(前篇)

 本日より三日間は、関ネットワークス「情報の缶詰2017年5月号」に掲載されました「ピカソは80才で最後の愛人ジャクリーヌと結婚する」をお送りします。


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ピカソは80才で最後の愛人ジャクリーヌと結婚する

 物事の要諦は思いつかないところに転がっている。

 おいらは山田風太郎の「人間臨終図鑑(87年徳間書店、上下2巻)」を拾い読みするのが趣味である。

 風太郎は、松岡洋右(享年66)の外交のことを「麻雀で相手三人(米独ソ)の手を全然見ず、自分の手ばかり見て勝負しているようなものであった。彼は役満を志して役満を打ちこんだ」と記している。

 外交とは麻雀なのだ。今の日本は、米追従の麻雀では永遠に麻雀には勝てない。

 ところで、今回はピカソの話し。人生の要諦は異性にあり、である。


1.天才ピカソ

 箱根のポーラ美術館で開催中のピカソ展を観に行った。いまさらピカソと思ったが、同美術館開館15周年記念展であり、シャガールの作品と対比させるという初の試みを行うなど力が入っていた。

 さて、おいらが云いたいのはその美術展のことではない。

 天才ピカソの作品にあふれるあのエネルギーの源は何かといつも考えていたのだが、それが異性だと気付いたからである。

 ピカソは生涯絵を描き続けた。8才で描いた絵は完璧で、画家の父親に絵筆を折らせたほどである。

 その天才ピカソの絵のスタイルは変わり続ける。おいらたちがピカソだと思っているあのロンパリの絵は一時期にしか過ぎない。

 それはあたかも昨日までの女を棄て、新しい女に移るたびに新しい作風が生まれたのと同じではないか。彼は過去など見向きもしない。いや、過去には興味がない。それは絵も女も同じである(この項続く)。


ピカソは80才で最後の愛人ジャクリーヌと結婚する(中篇)

2.セックスの超人

 では、ピカソの女性遍歴をおさらいしてみよう。


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 ピカソは分かっているだけでも終生9人の女性と付き合い、そのうち2人と結婚している。

 結婚が2回というのは芸術家にしては少ないが、宗教的な理由を含め、妻が離婚しなければ物理的に結婚できないからである。実際、浮名を流した藤田嗣治は妻が分かれてくれたので5回も結婚した。だから、ピカソは9回結婚したと思えばよい。

 付き合った女性を時系列に述べてみよう。

 1人目、ジェルメーヌ・ガルガーリョ(ピカソの絵のモデル)

 2人目、フェルナンド・オリヴィエ(夕立を避けてピカソのアパートの軒先に入ってきた女性)

 3人目、マルセル・アンベール(ピカソ30才のとき、フェルナンドを捨てピレネー山地の避暑地セレに移住したが、マルセルは結核で死ぬ)

 4人目、ギャビー・レスピナス(マルセルが入院中に関係)

 5人目、オルガ・コクローヴァ(ピカソ最初の妻。
 ピカソ35才のとき、上流階級育ちのロシア・バレエ団のバレリーナ。
 ピカソが舞台装置を手がけた際、社交界に食い込みたいため口説く。オルガはピカソをパリの上流階級に紹介し、ブルジョワ趣味を教える。二人の間に息子パウロが生まれた。しかし、育ちの違いから後に破綻)

 6人目、マリー・テレーズ(ピカソ45才のとき、デパートの前にいたマリー(当時17才。ピカソより28歳年下)に対し君の絵が描きたいからと誘惑。パリ郊外に古城を購入し、愛欲に耽る。結婚を信じ1女を生む)

 7人目、ドラ・マール(ピカソ55才のとき、退廃的な知性をたたえた美貌の写真家(当時29歳))

 8人目、フランソワーズ・ジロー(ピカソ62才のとき画学生だったフランソワーズ(当時21歳)にカフェで出会い、デッサンを見せるよう誘う。結婚を信じ1男1女を生む)

 9人目、ジャクリーヌ・ロック(ピカソが72才のときからの愛人(当時35歳)。最初の妻オルガが亡くなり、2度目の正妻となる)

 いやはや、すさまじい(この項続く)。


ピカソは80才で最後の愛人ジャクリーヌと結婚する(後篇)

3.作風は一生変わる


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 ピカソの絵は幼少から巧かったが、最初は他人の模倣である。

 そのピカソが表現することを覚えたのは「青の時代」からである。親友の自殺にショックを受け、暗青色を基調とした売春婦、乞食、裸婦などを描き、3年続く(写真上)。

 続いて、「ばら色の時代」。明るい色調で、サーカスを題材にすることが多かったので「サーカスの時代」とも云われる。

 そして、「キュビズムの時代」。キュビズムとは、動くはずのない絵に動きを導入した点で革命的であった。

「新古典主義の時代」は、ピカソがイタリア旅行中にギリシャ・ローマの古代美術に大きな影響を受けた時期。小太りの肉体、豊満な乳房や尻、大地にしっかりと根付く腿などが特徴である。

「シュルレアリスムの時代」は、超現実主義的な手法で描かれた子供の落書きのような絵。戦争、平和、死、生、愛というテーマを見たままではなく、思ったように描いた。「泣く女」や「ゲルニカ」の頃であり、この頃の絵をおいらたちはピカソの絵だと教わっている。

 晩年は好んで自画像や剥き出しの性器などを描いた。評価が分かれる晩年の作品となる。

 繰り返すが、それぞれの時代にそれぞれの異性。そう理解するとピカソの絵の遍歴は理解しやすくなる。


4.ピカソの死

 80歳でジャクリーヌと結婚したピカソは、南仏カンヌそばの古城で半隠遁生活を送る(ピカソは古城を3つ所有し、作品数約4万点を遺す)。創作意欲は旺盛であった。

 そのピカソも1973年、91才で死ぬ。ピンピンコロリであった。だが、ピカソが死ぬと、妻ジャクリーヌはピカソの元愛人フランソワーズやピカソの子どもたちと泥沼の遺産争いとなる。最終的にその遺産はパリでピカソ美術館を設立することで合意した。

 しかし、ジャクリーヌは、その後1986年に謎のピストル自殺を遂げるのである(享年59)。

 ピカソの一生は好きなように生き、好きなように異性と過ごし、好きなように絵を描いた人生であった。さて、あなたの人生は(この項終り)。


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