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さすらいの天才不良文学中年

おいらの好きな藤田嗣治(続き)

今年観たフジタ(前篇)

 今年も来週で終わる。そこで、おいらが今年観た藤田嗣治を顧みたい。


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 なんと云っても秋田に出向き、秋田県立美術館で観た「秋田の行事」に圧倒されたことは特筆ものである(このブログのフリーページ「秋田探訪記(フジタの「秋田の行事」を観に行く)」参照)。

 続いて、名古屋市東区の堀美術館で観たフジタも捨てがたい。同美術館には4枚の油彩((「バラを持つ美女達」(写真下)、「占いの老女」など)が展示してあった。


バラを持つ美女達.jpg


 これは、ある意味で富の再配分である。堀氏がフジタや梅原龍三郎、棟方志功の作品を起業で得た利益によって購入し、同氏の美術館に展示しているからである。

 だが、秋田美術館や堀美術館の展示は常設展であったので、今年開催された美術展に絞って述べる。

 まずは、東京国立近代美術館での戦争画展示。


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 米軍に接取されていた戦争画が日本に返還され(無期限貸与)、国立近代美術館に収蔵されているのである。

 数年前の藤田展でもその一部が展示されていたが(このブログのフリーページ「おいらの好きな藤田嗣治」参照)、今回は同美術館にある25枚の絵(そのうち戦争画は14点)が全て展示されたのである。

 これを観ての感想は圧巻の一言だが、やはり「アッツ島玉砕」と「血戦ガダルカナル」は光る。なぜなら、フジタの戦争画は西洋の宗教画や戦争画を意識して描いたものだということがよく分かるからである。

 フジタの戦争画は、ルーブル美術館にあるジャンヌダルクの巨大な油彩画の隣に置いて一歩も引けを取らない大作である(写真は「アッツ島玉砕」)。


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 しかし、戦争中の日本では「アッツ島玉砕」の隣にさい銭箱が置かれ、フジタもこの絵の横に立って礼をしたのである。生い立ちからして不幸な絵であると云わざるを得ない。

 でも、フジタはそんなことはお構いなしだったのだろうなぁ。ただひたすら「絵がよければそれで全てよし」と思っていたに違いないのである(この項続く)。


今年観たフジタ(中篇)

 続いて、東京芸大での藤田展。


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 フジタの代表作とも評してよい「舞踏会の前」の修復が完成したのである(BNPパリバが金銭面での支援をした。こういう支援はいいよねぇ)。


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 この絵は大原美術館の所蔵で、このブログのフリーページ(「おいらの好きな藤田嗣治」)でも同美術館を探訪したときに感動したときの顛末を書きこんでいる。

 それが見事に修復され、絵の色調が全く変わってしまった。乳白色が強調され、全体が白っぽくなったのである。


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 おいらは大原美術館のときも観ているので、どちらがいいかと問われれば、大原美術館のときのほうがくすみがかって(暗い色である)凄みのある絵であった。

 これを一言で云えば、フジタは油彩が時代を経ると乳白色がどういう色になるのかを計算していたに違いない。

 人間は死ぬが、油彩は死なない。保存さえされていれば、100年先でも絵は立派に生きている。だから、フジタは100年先の色を計算して、そのときになる色を描いたのではないのか。

 そうだとすると、色のくすみを除去する修復は修復ではない。人間で云えば、アンチエイジングの美容整形と云えないこともない。

 だが、ピカピカの乳白色もこれもまたいい。何だ、結局どっちなんだとお叱りを受けるに違いない。

 つまり、それが修復の難しさなのだろう。

 もう一つ。

 君代夫人に残されたフジタの遺品約7千件が2010年に東京芸大に寄贈されたのである。


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 遺品は1930年から1968年までのフジタの日記や手稿・書簡、フジタ自らが撮影した写真や映像なども含まれている藤田の超一級資料である。そのうちの一部が整理され、今般公開の運びとなった。

 これも見どころ満載だったねぇ。フジタの几帳面な性格が分かる日記の公開はすごい。

 今後、日記などの全文の公開がなされれば、フジタの新たな人間像が判明する可能性は極めて大きい(この項続く)。



今年観たフジタ(後篇)

 そして、とどめは映画「FOUJITA」(小栗康平監督。主演、オダギリジョー)である。


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 一言で云えば、難解な作品。フジタのことをある程度知っていなければ意味がつかめないだろう。

 観客がフジタのことを知っていようがいまいが、構わない、おれは自分が創りたい映画を創るのだという小栗監督の映画である。

 だが、それにしてはスケールが小さい映画となってしまっている。フジタが脚光を浴びた1920年代の欧州はローリング・トゥエンティと呼ばれ狂乱の時代であった。

 1980年代のバブルどころではない。第一次世界大戦が終わってヨーロッパには春が訪れ、猫も杓子もユーフォリア(桃源郷)の様相となった時代である。

 そういう時代背景を考えなければ、フジタの真髄を理解することはできない。ところが、小栗監督が残念がっているようにその感じを醸し出すには映画の予算が少なすぎたのである。


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 映画の前半はみみっちい場面の連続となった。それが惜しい。

 次にキャスティング。

 主人公のオダギリジョーは、文句なく良い。しかし、リリーや岸部一徳などのキャスティングの必然性が分からない。あれでは誰でもよい配役である。本(脚本)が悪いのか。惜しい。

 だが、総じて云えば、一級か二級かは別にして芸術作品に仕上がっている。この手の映画はストーリーを追っても無駄で観る者の度胆を抜くというのが常套手段で、そういう作品としては成功している。

 しかし、それでは映画を評したことにならない。強いて云えば、小栗作品らしく、映像の美しさは秀逸であるということか。結論。不思議なエイガである。

 なお、余談だが、中谷美紀扮する君代夫人がところどころで「なにさ」と台詞を云う場面がある。


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「なにさ」

 いい日本語だねぇ。久しく聴いていなかった江戸弁である。こういう時代考証はさすがにきっちりしている(この項終り)。



祝アクセス数、900,000突破

 3月15日(火)、謎の不良中年のブログアクセス数が記念すべき節目の900,000を突破しました。

 900,000突破は偏に皆様のおかげのたまものです。深く感謝し、有難く厚く御礼申し上げます。

 お礼に、おいらの秘蔵コレクションから、「藤田嗣治 リトグラフに手彩『妻』」をお披露目します。


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 藤田嗣治の4番目の妻、マドレーヌをあしらったリトグラフで、手彩によって色付けがしてあります。

 おいらはマドレーヌの木版画も持っていますが(下)、このリトグラフの出来栄えには唸ってしまいます。


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 マドレーヌの美貌は、フジタが理想とする女性であったような気がしますなぁ。


 次回は、950,000ヒットを目指して精進いたしますので、これからもよろしくご指導のほどお願い申し上げます。


2016年3月23日(水)


 謎の不良翁 柚木 惇 記



黒田清輝展に行く(前篇)

 5月14日(土)、東京国立博物館(平成館)で開催されていた黒田清輝展に行ってきた(16年5月15日まで開催)。


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 閉展間際であり、若冲展が満員御礼だったので、清輝展もさぞや人が多いのだろうと思って入場券売り場まで行くと、閑散としている。入口はそれでも人だかりだろうと、受付で「何分待ちですか」と尋ねると「直ぐに入れます」との回答が返ってきた。拍子抜けである。

 どうやら観客は皆若冲展に行っているらしく、他の展覧会は皆ガラガラだという。お笑いである。

 さて、おいらは黒田清輝をさほど好きではなかった。いや、藤田嗣治のことを調べてみると黒田は美校(現在の芸大)在学中のフジタを評価しておらず、また、フジタも黒田の云う油彩を好きではなかった。そのお陰か、フジタは30人中16番のぱっとしない席次の成績で美校を卒業している。

 フジタの卒業制作の自画像は、黒田に悪い作例の一つにあげられた。


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「色が暗い」と酷評されたのである。また、フジタがパリでピカソに会った後、これまでの画家のマネをするのではなく、自分の絵を描けば良いのだと自分の進む道を見つけ出したときは美校時代の絵の具箱を床に叩きつけているほどである。

 だから、おいらも黒田清輝には興味を示さなかったのだが、ハタと思ったのである。キライはスキと同じである。反面教師と云う言葉もあるではないか。黒田が目指した美術と真反対の美術をフジタが目指したのであれば、黒田の絵を観ておいて損はない。


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 それに明治の後半、日本に西洋美術を導入したのは黒田清輝である。このブログで紹介した五姓田義松もそうではあるが、黒田が超一級の西洋絵画のテクニックを日本に導入した功績は大である。

 だから、黒田が西洋美術を日本にどう輸入し、日本の西洋画をどうしようとしていたのかを知っておかないと片手落ちである。

 また、教科書に掲載されている「湖畔」(黒田夫人がモデル)や焼失した「朝妝(ちょうしょう。元祖、裸体画論争の起きた伝説の絵)」の原寸大コピーも展示されているという。これは行かない手はなかろう(この項続く)。


黒田清輝展に行く(中篇)

 この展覧会は良くできていた。


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 黒田の生い立ちとパリの修行時代、日本への西洋美術の紹介・導入・発展への寄与が一目で分かるように構成されていたからである。

 黒田はパリ留学の当初、法律修学を目指していたが、人生をかけるのは法律を学んで官吏になることではなく、好きな絵で勝負しようとするのである。

 そのために彼がしたことは優秀な画家に師事することと、名画をその目で観ることであった。無論、彼にその資質があったからに違いないが、「読書」(写真上)がパリのソシエテ・デザルティスト・フランセのサロンに入選することによって彼は絵で身を立てることに自信を持つのである。

 展覧会に入場するとまず「婦人像」の大作が展示してある。


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 大きい。イメージでは大きめのポスター大であるが、畳一畳程度の大きさである。この作品はパリの美術サロンに落選するが、師が褒めているので黒田は自信を持ったという。

 おいらもこの絵を観て、落選する理由が分からない。技術力は申し分ない。強いて云えば、オリジナリティだろうが、この当時なら、十分なオリジナリティを持っていたのではないだろうか。

 余談だが、この絵のモデルは黒田の恋人である。「読書」も同じである。前にも書いたが、画家とモデルとはそういう関係である。それ以上の関係も当たり前の時代である。黒田は日本男児。見事である。

「湖畔」も見応えがある。これも大作。畳三分の二畳の大きさ。観ておいてよかった。文句なし。


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 しかし、本当に黒田が描きたかったのは、実際はどうであれ、お前にとって描きたいものがどう観えているかである。それを徹底的に追求したのが、西洋画の本邦への導入であったように思う。黒田は夕焼け空の下では夕焼け色の顔になるように、眩い(まばゆい)光のもとでは顔の色が眩く反射するように描くのである。


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 そこが黒田と五姓田義松の差である。五姓田は写真と同じように油彩を描いた(真似た)。しかし、それでは写真を撮るのと同じである。いや、写真以下である。黒田は西洋画の本質を印象派の絵に発見した。だから、光を当てようとしないフジタの絵を毛嫌いしたのである。

 そう思うと黒田の云わんとすることにも一理ある。後に黒田は白馬会を創設し、フランス外光派の画風を紹介する明治後半の代表的な洋画家となり、巨匠となる(この項続く)。


黒田清輝展に行く(後篇)

 さて、黒田展でやはり惜しいと思ったのが、「朝妝(ちょうしょう)」の焼失である。


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 前篇で書いたとおり、この作品の原寸大コピー(白黒しか残されていない)が展示されていた。これも想像以上に大きな絵であった。高さは2メートル近い。

 この絵は明治28年、京都で開催された内国勧業博覧会に出展されて大事件となる。

 黒田はこのとき28歳。この裸体画は海外でも認められ、日本でも明治美術会第6回展に出展されており、そのときは何の問題もなかった。

 ところが、東京朝日新聞はこの絵をワイセツとするのである。朝日は「『或る筋の人』の弁として、美術展などに出品されるような美術品の条件として、『両股相接する体勢を顕わし××を描かず』というようなものが一般的」とし、そのほかのメディアも「ワイセツ」「風紀を乱す」などとして作品と黒田の両方を攻撃するのである。
(作者注・××はヘアのことだが、これを漢字で表してしまうと楽天ブログでは自動的に掲載がオミットされるのである。したがって、××とした。お許しあれ)

 やれやれ、表現の自由を守るはずのメディアが官憲と同じというのは、昔も今も変わらない。おいらは今でも朝日がキライである。

 ということで、バカバカしい近代日本の裸体画論争が始まり、フランス人画家のジョルジュ・ビゴーは日本では裸体画を芸術ではなく、あたかも見世物を観るものと揶揄している。日本は二流国なのである。


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 しかし、このとき黒田は偉かったのである。黒田は「終始骨無しの人形ばかり描いていて美術国だといっていられるか」と主張し、この絵を展覧会に出品させるのである。

 このとき、黒田は内国勧業博覧会の審査員になっていたが、案の定、主催者から「いくら審査員で、しかもフランス帰りの画家だからといっても、この作品は刺激的すぎないか」と取り下げを要請されるのである。

 しかし、黒田は譲らない。「この作品はフランスの恩師の指導によって出来上がったものであり、私の記念の作品というだけでなく恩師へ思いも深いものだ」と熱弁をふるい、「出品できないのであれば、自分は審査員を辞退する」とまで主張する。

 この黒田の絵は、外光描写を取り入れた西洋印象派の作品である。明るい光をふんだんに取り入れ、従来の日本画にはこのような手法はない。黒田の自信作である。

 最後には、この絵の展示の可否をめぐって官憲の問い合わせにまで発展する。警察に対し、審議委員総長の九鬼隆一は「排斥すべき理由を見出し得ず」との書翰を送り、展示は認められるのである。

 この顛末についてのメディアの紹介をしておかなければ片手落ちである。東京日日(今の毎日新聞)の明治二十八年五月一日付新聞は、この顛末を「美術品と認め陳列した以上、俗見にまどうことは不要」と結論づけている。まともである。

 さて、この絵は住友家が300円という破格の値段で買い取った後、神戸で保存されていたが、壁にはめ込まれていたため空襲で焼失している。米軍による犯罪である(この項終わり)。


黒田清輝展番外篇

 黒田清輝展で目からうろこが落ちたことがある。


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 それは、点のようなタッチを規則的に並べる、点描派の絵のことである。

 今回の展示ではシスレーの「モレのポプラ並木」(写真上)がそうであった。

 おいらは点描の絵を「奇をてらう」絵だと思っていたのである。だって、変でしょう。点ばかり描いて。山下清じゃないんだから。

 しかし、それは教科書や絵画集で点描の絵を観ていたからだと気付いたからである。

 本物の点描の油彩は、点描がそれほどの違和感を感じさせないのである。あれは、絵を写真で撮った平板なものを観ているからそうだと思ったのである。本物の絵は油彩で立体的であり、点描にしていても適度の距離から観ると点は気にならなくなるのである。

 点描派の代表格であるシニャックの絵もそうである(写真下は「マルセイユ港の入」)。これも本物は点描が気にならないに違いない。


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 こうしてみると、印象派の中の点描派は当時の科学に立脚した理論的な絵だと分かる。

 それは、使う絵具の色を原則として三原色しか使わないという光学理論に立脚していること、人間の脳は目で観たものを補正するということを熟知していたからである。

 人間の網膜も突き詰めれば、無数の点で物を観ており、それが集合して一つの図像になっている、ということでもある。

 う~む、点描派、あなどってはいけない。


鶴川の白洲正子邸に行く(前篇)

 藤田嗣治のことを調べていると、フジタは白洲正子とも会っていることを知った(左が白洲正子。撮影場所不詳と云われるが、恐らく白洲邸)。


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 白洲正子で印象的なことは、作家の車谷長吉氏との出会いである。彼の作品を褒めた関係で車谷が白洲邸に招かれたときの話しはすこぶる面白い。

 そのときのことは後で触れることにして、白洲邸が武相荘(ぶあいそう)とされて一般公開され(2001年)、邸の一部がミュージアムとなっていると知り、鶴川まで出向いたのである。

 戦火が都内まで及ぼうとする昭和18年に白洲次郎と正子は田舎の養蚕農家を買い、都心から疎開するのである。田舎とは南多摩郡鶴川村のことである。

 今でこそ町田市内となり、東京のベッドタウンとして住宅地になっているが、昔は田畑以外何もないところであったようだ。

 白洲正子自伝によれば、

「私たちは、〔太平洋戦争開戦の〕二年ほど前から、東京の郊外に田圃と畑のついた農家を探していた。食料は目に見えて少くなっており、戦争がはじまれば食べものを確保しておくのが一番必要なことだと思っていたのである。

 その頃、タチさん〔幼少より正子についていたお手伝いさん〕の親戚におまわりさんがいて、南多摩郡鶴川村の駐在所につとめていたが、彼は至って好人物で、秋は栗拾いに、春は苺(いちご)狩と筍(たけのこ)掘りに、子供たちを誘ってくれた。

 万葉集の東歌(あずまうた)にも詠まれている「多摩の横山」の丘陵ぞいに、茅葺(かやぶ)きの農家が点在するのどかな農村で、戦争が近いことなどどこにも感じられない。おまわりさんは、もし郊外に家を探しているならぜひ鶴川村へ来るようにとしきりに誘った。

 折も折、次郎がつとめていた日産系の会社をやめたので、退職金が入った。たしか一万円か、二万円足らずであった。そのまま持っていればどうせ私たちのことだからなしくずしに使ってしまう。それなら、土地でも買っておいた方がいいということで、おまわりさんの世話で鶴川の付近を見て歩いていた。売家はいくらでもあったが、いずれも帯に短かく襷(たすき)に長しで、探すだけに一年以上もかかってしまった。

 ある日の帰り途(みち)に、こんもりした山懐にいかにも住みよさそうな農家を発見した。駅からもそんなに遠くはない。あんなところがいいな、住んでみたいなあと、ひとり言のように呟(つぶや)くと、おまわりさんは私の帰ったあとで、直ちに交渉してくれた。
(中略)

 その家には年老いた夫婦が、奥の暗い六畳間に、息をひそめるようにして住んでいた。息子さんはどこか遠くへ出稼ぎに行っているとかで、ぜんぜん構って貰えなかったらしい。そんな哀れな人たちを、追い出すようなことはしてくれるなと、おまわりさんにはくれぐれも頼んでおいたが、彼らはむしろ喜んでおり、せめて電車の見えるところに住みたいと、快くゆずって貰えたのは倖(しあわ)せなことであった。
(中略)

 そんな風であったから、家の中は荒れ放題だった。茅茸屋根は雨洩(あまも)りがしていたし、床も腐って踏みぬくというあんばいである。買ってはみたもののそのままでは住めなかったが、さすがに骨組だけはしっかりしており、大黒柱や梁(はり)などは見事なもので、それだけで私たちは満足した。
(中略)

 で、私どもは水道町の家から鶴川へときどき通っていたが、そうしたある日のこと、突然東京にアメリカの艦載機が現れて、何発か爆弾を落して行った。

 空襲警報は鳴る。兵隊さんは駆けつける。隣組の人たちが右往左往する。私はどうしていいか判(わか)らず、子供たちを抱いてぼんやり眺めていたが、飛行機は数発爆弾を落しただけであっさり引上げてしまった。そのあとから黒煙が上るのを見ていると、とてもこうしてはいられないと思い、直ちに鶴川村へ引越すことに決心した。なまじヨーロッパの状勢を知っていただけに、臆病になっていたのと、そうでなくても私ども夫婦はせっかちだったのである」

 これを読んだだけで居ても立ってもいられなくなり、おいらは小田急線に乗車したのである(この項続く)


鶴川の白洲正子邸に行く(中篇)

 鶴川駅ができたのは昭和2年のことである。小田急電鉄小田原線が開業したのと同時である。


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 正子伝にもあるように、正子邸に住んでいた住民は電車の見えるところに移ったのだろう。そうだとすると、武相荘は駅から相当遠いところに違いない。

 おいらはJR横浜線で町田駅に到着し、小田急線に乗り換えて町田から二つ目の駅である鶴川で下車した。当初は車で行こうかと考えたが(駐車場有)、駅から徒歩でどれくらいかかるか、また、現在の街並みをこの目で観ておきたいからである。

 余談だが、おいらは未だに町田が東京都であることが不思議である。

 どう考えても地形からは相模(神奈川県)なのだが、武蔵(東京)なのである。武蔵と云ってもはずれだから、白洲次郎は武蔵と相模の中間ということで両方の頭文字を取って「武相荘」と命名したとうから面白い。

 さて、ネットで武相荘を検索し、地図も手に入れていたが、鶴川駅の駅員に武相荘の道順を尋ねてもよいだろうと声をかけたら、直ぐに地図をくれた。


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 徒歩で何分かと聞くと20分程度だと云う。遠くはないが、近くではない。おいらは駅前を眺めながら、そろりと歩き始める。

 鶴川駅東口交差点に立つと左手前方に石垣に囲まれた巨大な住宅地が見える。豪農だったのだろうか、やたらでかい。なるほどこの地域は昔、農地だったのだろう。


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 鶴川街道を北上すると、街道沿いに分譲マンションが続く。駐車場を併設する大型店舗も目立つ。かなり歩くと左手に「ココ一番」が見え、その先に「ユニクロ」の店舗が現れた。その先に武相荘の看板が出ている。


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 いよいよ武相荘に到着である。少し小高い丘に大きな邸宅が見えた。しかし、ここではない。その先に武相荘の入り口が見えた(この項続く)。


鶴川の白洲正子邸に行く(後篇)

 正面の左側に入場券売り場兼ミュージアムショップがある。


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 1,050円払って中に入る。敷地はかなり広い。門構えの左手前にガレージのようなものがあり、手前が休憩所、奥に車が展示してある。

 車はペイジのフリートウッド、1916年(大正5年)製で白洲次郎が乗っていた現物である。


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 車好きにはたまりませんなぁ。未だに動くものかどうか不明だが、リヤを見たら練馬ナンバーのナンバープレートが取り付けてある。ということは動くのだろう。

 門をくぐり、右手に「離れ」、その先に茅葺の母屋がある。白洲次郎と正子が住んでいた家である。


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 家の内部が当時のまま保存されており、ミュージアムとなっている。靴を脱いで、玄関から家に入る。車谷長吉氏もこの玄関をくぐったのだろう。


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 玄関を開けるとすぐに洋間がある。白洲次郎はここに客人を招いたのである。

 応接テーブルの上にホワイトホースの当時ものが未開封のまま置いてあるが(レイベルに時代がある。今のレイベルと全く違う)、残念なことに館内は撮影禁止である。

 母屋は昔の農家の造りで間取りは田形である。右下がこの洋間で、右上が小部屋、左上が書斎で左下が居間と床の間である。居間には白洲正子の趣味の良さを表している書画骨董や着物などが展示してある。

 どれもこれも良いものばかりである。眼福のほかに表現なし。白洲正子は骨董の目利きである。その選りすぐりをおいらは丹念に拝見した。どれだけ時間があっても足りないよなぁ~。

 館内のもぎりをする女性に聞くと、白洲正子は来客があると洋間と居間の間の仕切り(扉)を外して大広間のように部屋を使ったとのことである。

 贅沢な使い方である。興が乗ると、さぞや友と愉快な時間を二人は過ごしたに違いない(この項続く)。


鶴川の白洲正子邸に行く(番外篇)

 武相荘は養蚕農家だったので屋根裏部屋もあり(居間の上と思われる)、そこに白洲正子は書画骨董を置いていたようだ。


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 車谷長吉氏が平成4年にこの家を訪ねたとき、白洲正子は歓待している。そのくだりは平成13年11月11日の日本経済新聞文化欄に「骨董について」として、車谷氏がエセーを書いている。

 正子は車谷の小説「吃りの父が歌った軍歌」を読み、心を打たれたのである。車谷に手紙を送り、正子邸に招待したのである。歓待だから、正子は車谷に書画骨董を観せる。前回も書いたとおり、正子は骨董の目利きでしかも、選りすぐりを車谷に観せる。

 車谷は目を奪われて呆然としていると、正子は次から次へと名品を車谷に観せるのであった。

 しかし、車谷はなおも呆然としているので、正子は一階だけでは飽き足らず、屋根裏部屋に昇り、これでもかこれでもかと名品を観せ続ける。そうしてとうとう白隠禅師の「日々」という書を観たとき車谷は思わず「これは凄いですね」と発したのである。

 ふと車谷が正子を見ると、正子は憑き物が落ちたようになっている。

 そこで車谷ははたと気付いたのである。もっと早く感嘆の声を上げていれば、何も屋根裏部屋から蒐集品を持ち出さなくてもよかったのであると。

 しかし、お蔭で車谷は正子が生涯かけて蒐集した名品の大半を鑑賞させて貰ったと述懐するのである。

 おいらはその話しをもぎりのおばさんに話しをしたら、「ええ、この和室にお通しなされたはずです」との応えが返ってきた。

 おいらはそれを聞いて嬉しくなった。車谷長吉氏が拝見された器や書画をおいらも今観ているのだと感慨に耽ったのである。眼福じゃのぅ~(この項終り)。


特別付録

 中篇で「余談だが、おいらは未だに町田が東京都であることが不思議である。

 どう考えても地形からは相模(神奈川県)なのだが、武蔵(東京)なのである。武蔵と云ってもはずれだから、白洲次郎は武蔵と相模の中間ということで両方の頭文字を取って「武相荘」と命名したとうから面白い」

 と書いたら、全オム連会長のM氏から、次のようなメールが届いた。許可を得て、要約を載せる。

「1 町田を含む「三多摩地域(北多摩、南多摩、西多摩)」は当初神奈川県でしたが、明治26年に東京府に移管されました。水源である多摩川や玉川上水を東京が管理下に置きたかったなどが移管の理由です。

2 しかし、廃藩置県(明治4年)以前、町田は相模だったか、というとそうではありません。境川が武蔵と相模の境界であり、今の町田市の南端あたりまでが武蔵でした。

 だから、現在の横浜市や川崎市の大部分は武蔵の国でした。南武線(川崎市)に、武蔵小杉とか武蔵溝ノ口とかの駅があるのはその名残りです」

 なるほどそうだったのか、町田は武蔵==>神奈川県==>東京都と変遷したのだ。おいらはまたしてもM氏の博識にひれ伏すのであった(以上、本当にこの項終り)。


本日と明日はお休み

 本日と明日は休日につき、お休みです。


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 上の地図は、現在の東京都と神奈川県の境界を武蔵国と相模国の境界とオーバーラップさせたものです。全オム連会長のM氏より紹介してもらったブログの地図から転載させてもらいました。

 これを見ると、横浜のほとんどが武蔵の国だったことが分かります。知らなんだ。


 それでは、皆様よろしゅうに。


平成28年6月11日(土)


 謎の不良翁 柚木惇 記す



祝アクセス数、1,000,000突破

 平成28年6月21日(火)、「謎の不良中年」のブログアクセス数が記念すべき大台の1,000,000を突破しました。

 1,000,000突破は偏に皆様のおかげのたまものです。深く感謝し、有難く厚く御礼申し上げます。

 お礼に、おいらの秘蔵コレクションから、「私家版『藤田嗣治スクラップブック』」をお披露目します。


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 フジタの展覧会チラシや絵葉書、新聞雑誌の切り抜き等をクリアブックに入れたものです。実際に訪問した美術展を中心としており、かれこれ30年分に渡りますので、現在は7冊目になっています。

 1冊あたり約50の資料で総計300程度の資料が入っており、中には貴重な資料も含まれています。今や、おいらの宝物ですなぁ。


 さて、このブログを開設したのがおよそ10年前ですので、ならせば毎年10万人見当のお方がアクセスしていただいた勘定になります。

 しかも、最近は1日平均1,200人から1,300人来訪していただき、多いときは1日1,600人のアクセスになっています。

 アクセスされる方を意識してこのブログを書いている訳ではありませんが、やはり、アクセス数が多いと力が入るのも事実です。

 今後も日ごろ気にかかっていることを中心に思索し、精進いたす所存でありますので、これからもよろしくご指導のほどお願い申し上げます。


2016年6月23日(木)


 謎の不良翁 柚木 惇 記


「レオナール・フジタとモデルたち」展(前篇)

 持つべきものは、友である。


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「佐倉市にあるDIC川村記念美術館で『レオナール・フジタとモデルたち』展が開催されている」とおいらの旧友Nくんが教えてくれたのである(17年1月15日まで開催)。

 佐倉と云えば、歴博(国立歴史民族博物館)で有名である。このブログでも昨年、歴博で開催されたニセモノ展のことを書いている(フリーページ見世物小屋「大ニセモノ博覧会に行く」参照)。横浜から佐倉は少々遠いが、リピーターたるに相応しい博物館である。

 それにDIC川村記念美術館を運営しているDIC(大日本インキ)は、おいらが勤務していた会社の重要得意先でもあった。ここには創業家である川村一族が蒐集した美術品(名品)が展示してあり、行かない手はない。

 前回の佐倉訪問は日帰りで電車であったが、佐倉は車がなければ不便であり、また、宿泊しても十分観光のし甲斐がある町である(余談だが、佐倉は佐倉藩や佐倉連隊、また、長嶋茂雄の生地でも有名である)。このため車で愚妻との一泊旅行と決め込んだ。

 16年10月某日午前10時に横浜を出立する。横浜から千葉に行くためには都内中央を通過しなければならないのが辛いが、それでも首都高は空いていたので2時間程度で佐倉インターチェンジに到着した。

 最初に訪問したのが、印旛沼サンセットヒルズである。


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 ここは印旛沼を西に見下ろす絶好の立地に恵まれ、晴れているときは富士山や東京スカイツリーが見える格好の名勝地である。

 家族そろって楽しるオートキャンプ場とテニス場もあり、特に空を茜色に染めながら沈んでゆく夕日は映画のワンシーンのようであり、夜景は周辺の灯りが水面に映ることからお薦めスポットとある。


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 そこで、夕日が沈む前に一度訪問しておきたい場所と思い、車を駐車場に入れる。

 印旛沼を見下ろす。


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 オフシーズンなので、おいらたち以外にはひと組のグループがバーベキューをやっているだけで、閑散としている。行楽地での人混みは避けたいのでサイコーである。

 おいらは日が沈む時間に再びここに来ようと車を美術館に向けた(この項続く)。


「レオナール・フジタとモデルたち」展(中篇)

 印旛沼サンセットヒルズからDIC川村記念美術館までは車で約30分。


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 到着し、入場券を購入する。

 大人一人1,300円、65歳以上1,100円。JAFの会員だと100円引きで1,200円と1,000円。有難い。なお、この半券を歴博で提示すると、団体割引が適用される。嬉しいのぅ(現在、府中市美術館で開催中の「生誕130年記念藤田嗣治展-東と西を結ぶ絵画-」も団体割引になる)。

 ここの美術館にはイタメシレストラン「ベルヴェデーレ(イタリア語で「美しい眺め」)」という店が併設されており、窓からの景色を愉しみながら食事をすることができる。

 実は前回の佐倉訪問では、食事に困ったことを記憶している。駅前には全国チェーンの居酒屋以外ぱっとした店がなかったのだ(佐倉市民の皆さま、お許しあれ)。

 だから、美術館内のレストランであればそれなりの期待ができるだろうということと、この美術館は庭園美術館になっており、庭園散策もお薦めになっているということから、レストランから庭園を眺めながらの食事もまた愉しいだろうと目星をつけていたのである。

 そう云う考えで、美術館に入る前に食事をとることにした。

 これが大正解。

 ランチタイム(2時半まで)のコースは前菜の盛り合わせに始まり、スープ、パスタと続き、メインディッシュはお肉料理(またはお魚料理)で最後にデザートとイタメシ定番のフルコースである。

 おいらは愚妻とパスタやメインディシュを別々のメニューにし、二人で取り分け(シェア)して堪能した。無論、美味であったことを付け加えておく。

 しかも、庭園内には池があり、白鳥が泳いでいるのである。


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 こういうのはいいよなぁ。浮世を忘れ、旨いものを喰いながら、庭園の草木を愛で、ゆったりと時間を過ごすのである。

 それにこれからおいらの好きなフジタの名画を観ることができるのである。至福じゃのぅ(この項続く)。


「レオナール・フジタとモデルたち」展(後篇その1)

 レストランでゆっくりと時間を過ごし、美術館に入った。


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 外観はサイロのようである。右側に巨大な彫刻のオブジェがある。こういうのは日本人には造れない。


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 入場する。

 結論から述べると、見甲斐のある企画展であった。

 まず、フジタの作品数が90点と多い。おいらはせいぜい50点程度でお茶を濁しているのではと思っていたものだから脱帽。100点近いフジタが集まっており、これは立派なフジタ展である。

 この企画展の構成は、4部からなる。

 第1部は1910年代「画家フジタ誕生」、第2部は1920年代「パリ、成功の時代」、第3部は1930年代以降「世界をめぐる旅」、第4部は1950年代以降「フランス帰国後、追憶と祈り」とそれぞれ代表作が展示されている。

 また、描かれたモデルに関する資料も150点用意されており、絵への理解が深まる。

 特筆すべきは、フジタの最初の妻であったとみ宛のフジタの膨大な書簡の一部が展示してあったことである。


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 フジタはとみを棄てるのだが、筆まめなフジタはパリから膨大なハガキ、手紙、雑誌などを妻宛に送り、とみは離婚されていた後もそれらをすべて保管し、また、とみの遺族もそれらを行李に入れて保存していたのである。

 この膨大な書簡類は数年前に私家版と云う形で出版されていたが(三分冊で古書価格は二万円程度)、最近、人文書院から林洋子監修によって整理され、「藤田嗣治 妻とみへの手紙」(2016年、上下2巻)として出版された。

 極めて興味のある書簡であり、それらを分析すればフジタのパリ初期時代の知らざれる一面(フジタは「二股」の連続である)が分かるはずである。だが、おいらもそこまで知るには時間が足りないので、この本までは手が回らないのが残念。

 いずれにしてもこの展示会でフジタの魅力を十分に味わうことができること受け合いである(この項続く)。


「レオナール・フジタとモデルたち」展(後篇その2)

 また、フランク・シャーマン旧蔵のフジタが愛用した眼鏡(現物)も展示してある。


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 フランク・シャーマンはGHQの民政官で、フジタと親しく交流していた人物である。フジタはシャーマンに作品のほか写真や日用品などを譲り渡している(その遺品は流転し、現在は某NPOが保存管理している)。

 今回の企画展では、そのシャ-マンがフジタから譲り受けた銅版画の原版を使用した猫とクリスマスカードの銅版画が展示販売されている。


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 少々値がはるが、一見の価値はある。

 フジタの猫は有名だが、特筆すべきはこの猫が他の油彩でもそのまま使いまわしされていることである。

 少し分かりにくいので説明すると、普通はまず油彩を描き、その油彩の人気がいいとその絵そっくりの版画を創るのである。つまり、油彩==>版画の順である。

 ところが、この猫は銅版画創作の2年後に同じ猫が油彩に描かれており、版画==>油彩と順番が逆なのである。

 何が云いたいかと云うと、画家はデッサンの成功した絵を他の絵でも使いたくなるのだ、と云う事をおいらは発見したのである。


 なお、常設展では17世紀のオランダを代表する画家レンブラントの「広つば帽を被った男」も展示してあった。どきりとさせられる絵である。こちらと目が合うのである。


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 余談だが、この絵はもともとは夫婦の対の肖像画で、夫が向かって左、妻が右に四角の板に描かれていた。だが、後に楕円の肖像画が流行ったので、ともに楕円に切り抜かれたと云われる(妻の肖像画は米クリーヴランド美術館所蔵)。

 美術館にはキスリングもシャガールもピカソもルノアールもモネもある。時間配分を考えないと閉館の5時には間に合わない。

 おいらと愚妻も閉館時間の眼一杯まで在館したものだから、印旛沼サンセットヒルズの日没を観に行くのは翌日にしようということになった。絵は実物に勝つのである(この項終わり)。


府中市美術館のフジタ展

 今年は、フジタ生誕130周年である。


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 各地でフジタ展が開催され、今年最後のフジタ展は府中市美術館で行われた(「東と西を結ぶ絵画」12月11日まで)。

 このブログでも述べたとおり、秋からはDIC川村記念美術館でも「レオナール・フジタとモデルたち」が開催されている(こちらは、来年1月15日まで)。

 おいらは時間を創って、先週木曜日の12月8日に府中市美術館に出向くことができた。

 どうでもいいことだが、DIC川村記念美術館の半券を持参すると府中市美術館の入場料が割引となる。同じフジタの美術展だからという粋な計らいである。

 DIC川村記念美術館のときは、フジタの作品数がそんなに多くはあるまいと思っていたのだが、予想に反して多数の絵が展示してあったので時間が足りないという失敗をした。

 そこで、今回はゆったりと観ることができるように充分な時間を取って府中市美術館に向かったのである。

 これが大正解。

 予期しない「パリのマドレーヌ」(下関市立美術館蔵)まで展示してあったので、おいらは大満足。このブログでも書いているが、おいらはこの絵の木版画を持っているのである。

 実は、この絵に会うのは2度目。前回は約30年前の85年4月にプランタン銀座で開催された「エコール・ド・パリ展」以来である。


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 おいらはその絵の前で10分以上立ち止まった因縁の絵である(頁右。だから、大枚をはたいて木版画を購入した)。


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 今回の美術展ではその上、フジタの代表作が目白押しであったことも付け加えておきたい。至福の時間であった。

 ただし、いただけなかったのは図録の売り切れである。聞いてないよぅ~。

 実はおいらが訪問した8日に完売したとの貼り紙があった(駆け足で見学していたとしたら、まだ残部があった可能性がある。ゆっくりと鑑賞したのがアダとなったようである)。

 これには大不満じゃのぅ。図録売り切れとは、府中市美術館の来館者数の予測が誤ったのである。画竜点睛を欠いちゃうよ~。

 ただし、これだけフジタのいい絵を集めていたことについては充二分に評価してよいと思う。フジタはやはりすごい。


フジタ(藤田嗣治)を観に迎賓館へ(前篇)

 フジタ(藤田嗣治)が「銀座コロンバン」に描いた天井画(壁画)が迎賓館に寄贈されて眠っていたが、このたび、新たに公開されることになった。


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 このことを教えてくれたのは、おいらの敬愛する映画評論家S氏である。某国営放送のお宝番組でフジタのことを取り上げており、短期間だがフジタの未公開の天井画が一挙に開陳されるというのだ。

 おいらは今、故あってテレビを観ていない。そのことはまた機会を改めて述べるが、テレビのない世界に慣れるとこれもまた風流である。

 だから、おいらがテレビを観ていないということを知っていたS氏からの情報は貴重である。詳しくは迎賓館のウエブでというので覗いてみた。

 そうすると、内閣府の特設サイトにあった、あった。


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 17年8月11日(金)から29日(火)までフジタの天井画6枚が展示されるとある。

 おいらの記憶によれば、この天井画は何度か観ている。

 そのことをS氏に話すと、それは1,2枚のことで6枚全部を公開するのは今回が初めてだという。

 これを見逃す手はない。フジタの天井画が期間を区切って一堂に展示されるとしたら、次の展示はいつになるか分からない。

 参観方法をみると事前予約はすでに終了しており、当日受付しかない。予約していないので入り口で待たされるかも知れないが、少々のことならやむを得ない。

 それに、8月11日(金)から29日(火)の間にかぎり、参観者へフジタの天井画の絵葉書1枚をくれるらしい。

 おいらは8月22日(火)、いそいそと迎賓館のある四谷を目指した(この項続く)。


フジタ(藤田嗣治)を観に迎賓館へ(中篇)

 四谷に到着したのは昼過ぎであった。

 既に食事は済ませているので、そのまま迎賓館に向かう。

 正面玄関を観ながら、西口の門を目指す。


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 途中、警備員と会ったので待ち時間を聞くと「今日は比較的入れますよ」というので安心する。

 並ぶ。二列である。空港の金属探知機と同じものが置いてあり、そこを無事通過。約10分で入場することができた。ラッキー!!


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 でも、待たされないということは、藤田嗣治の人気はあまりないのか。

 入場料1,500円払い、約束の絵ハガキも貰っていよいよ入場である。

 今年の春に赤坂離宮は来ているので、箱物にはあまり感動はない。

 ただし、今回はフジタの絵に合わせてか、前回の観光コースにはなかった正面玄関の内側が順路の中に組み込まれていた。

 国賓などは皆、正面玄関から入るので、その雰囲気を味わうことができたことは素直に嬉しい。おいらはその場所でしばし佇み、正面玄関から赤坂離宮に入った感触を堪能した。


 さて、フジタの天井画である。

 入館してすぐに「葡萄畑の女性」が展示してあった。今回はこの絵を含めて6枚が展示してある。


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 昨年10月から12月まで府中市美術館で開催された藤田嗣治展(東と西を結ぶ絵画)でも「貴婦人と召使い」「田園での音楽」の2枚が展示されていた。

 この「田園での音楽」が今回のちらしにある「犬を抱く女性と楽士」のタイトルの絵だろう。

 さて、今回のフジタの6枚を観ての感想は、月曜日の後篇で(この項続く)。


フジタ(藤田嗣治)を観に迎賓館へ(後篇)

 45歳になったフジタは4番目の妻マドレーヌと南米、メキシコなどを経由して昭和8年11月に日本に帰国する。


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 その2年後、銀座コロンバンの天井画を描くのだが、それまでのフジタは壁画には目もくれなかった。それがなぜ、天井画を描くことになったかというと、メキシコなどで観た壁画の影響だと云われている。旧知の画家リベラやオロスコらがメキシコで推進した壁画運動に影響を強く受けたのである。

 青臭い話しだが、芸術は誰のためにあるのかというテーマがある。

 芸術はその昔、金持ちの余興で成り立っていたのである。絵を買う余裕は貧乏では生じないのである。芸術家のパトロンになりたくてもカネがなければ無理である。

 庶民が芸術を愉しむには印刷技術の発展が不可欠であった。江戸時代の錦絵は、木版技術の進展によって安くて品質の良いものが一気に普及することになる。

 それでも肉筆画などの購入は高根の花である。

 それが壁画であれば、誰でも観ることが可能となる。メキシコや南米の壁画は庶民にとって身近な芸術だとフジタは考えるようになる。

 そこで帰国したフジタは、銀座教文館内のブラジル珈琲宣伝所の壁画(昭和9年)を皮切りに、大阪十合(そごう)特別食堂壁画(昭和10年)、銀座コロンバンの天井画(昭和10年)と制作に精力を注いだのである。

 だが、おいらはこの絵「犬を抱く女性と楽士」(写真上)を観て違和感を持ったのである。

 それは、秋田県立美術館の大作「秋田の行事」を観たときと同じような感覚である。

 それは、ひと言で云えば、乳白色と線描のフジタではないということである。

 あの乳白色の下地と透きとおるような肌。洋画なのに浮世絵のような線描でくっきりと輪郭を描く手法がこの壁画ではことごとく見当たらないのである。

 画風は確かに変わるだろう。しかし、これほどあからさまに変わるのも珍しい。

 しかも、この天井画にはお手本があって、それは18世紀のロココ時代に活躍したフランス人画家、アントワーヌ・ヴァトー(Antoine WATTEAU)とされる。

 彼は自然の中で優雅にくつろぐ貴族の恋愛場面を描いた「雅宴画(フェート・ギャラント)」を得意とする画家(作品はルーブル美術館収蔵)であり、フジタはその著作「地を泳ぐ」の中でもそのことに触れている。

 だから、フジタの絵を描く方法はお手本を探し、そのお手本を凌駕する絵を描く方法ではなかったのか。

 乳白色と線描も考えようによっては、浮世絵の手法を西洋画に採り入れたのである。浮世絵というお手本をフジタは凌駕したのである。

 そう考えると腹にストンと落ちる。それが今回のフジタの天井画を観ての感想である。


 なお、前回の中篇で「この『田園での音楽』が今回のちらしにある『犬を抱く女性と楽士』のタイトルの絵だろう」と述べたが、「犬を抱く女性と楽士」は今回が初公開と分かったので誤りである。お詫びして訂正する(この項終り)。


祝ブログアクセス数、170万達成

 平成30年2月1日(木)、「謎の不良中年」のブログアクセス数が記念すべき170万を達成しました。

 170万達成は偏に皆様のおかげのたまものです。深く感謝し、有難く厚く御礼申し上げます。


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 お礼に、おいらの秘蔵コレクションから、「藤田嗣治肉筆サイン入り『藤田嗣治畫集(昭和4年、東京朝日新聞社)』」をお披露目します。

 藤田嗣治の署名本です。

 この画集は朝日新聞社の出版で、フジタのパリ滞在に関する貴重なエセー「在仏17年」のほか、和田英作と有島生馬の寄稿文も掲載されており、古書店では1万円前後で取引されているものです。

 おいらはフジタ好きのため、以前からこの画集を持っていました。しかし、サイン入りのものが某オークションで出品されましたので、少々値が張りましたが、ゲットしたものです。

 画集の見返しに藤田嗣治の毛筆(墨)で「嗣治」と「Foujita」の署名がしてあり、自画像ページに万年筆で「明治祭(注)」「嗣治」「1929 Foujita」の署名がしてあります。


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(注)明治祭とは11月3日が明治天皇の誕生日であったことから、昭和2年から昭和22年まで「明治節」という名の祝祭日とされた。

 フジタの肉筆はこの書籍以外にもいくつか持っていますが、この画集でのフジタの毛筆の力強い筆跡には惚れ惚れとしてしまいます。

 さすがに天才、レオナルド・フジタ。


 閑話休題。

 最近は1日平均1,500人程度(多いときで2,500人)来訪していただいています。

 アクセスされる方を意識してこのブログを書いている訳ではありませんが、やはり、アクセス数が多いと力が入るのも事実です。

 今後も日ごろ気にかかっていることを中心に思索し、精進いたす所存でありますので、これからもよろしくご指導のほどお願い申し上げます。


2018年2月5日(月)


 謎の不良翁 柚木 惇 記


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