ラッキー/ありがとう日記

2013/05/26(日)22:12

物の哀れ

物の哀れについて、ラッキー節を聴いて見たいとおっしゃられる方が居るんですが、テレビを見て思いついたとか!物のあはれと言うのは、平安時代の文学をとらえる為の文学理念、美術理念で、しみじみとした情趣や哀感の表現の世界なんですが、最近では、この様な趣に興味を持つ人が少なく成っていることに物の哀れを感じます。有名な言葉に「柿食えば鐘が鳴る鳴る法隆寺」と言うのがありますが、秋の日の法隆寺の鐘の音を聴いて無常の響きを感じたんでしょう。そんな情緒に疎い人は、秋の日に柿を食べながら法隆寺の鐘の音を聴いても、鐘の音がうるさいだけかも知れません。もぅー、今、テレビで面白いこと言ってたのに聴き取れなかったじゃ無い、もぅーと、こんな調子かも知れません。 ラッキーが住む街岡山市では、今でも、朝・昼・夕・夜と県庁がサイレンを鳴らして時刻を伝えて居ます。時刻を知らせるサイレンには哀れは感じませんが、県庁で働くネクタイ族に哀れを感じることは多々あります。彼らもラッキーを見て哀れを感じているかも知れませんが、それはそれとして、昨日の日記の春乙女さんからのコメントに、>すべては自分を基準にして判断しているわけだから その自己基準さえ あいまいな 今の世の中で「変わっている」といわれても 意味がないんじゃないかなと思います。 そうは言っても 今の時代に生きていかなくてはならないのですから  変わっているというレッテルを貼られると 生きにくい・・・ ちなみに 自分はごくごく ノーマル人間だと思っていますが・・ だって ラッキーさんの日記は 真理だもの・・ラッキーの日記を読んで真理だと気づく処が常人では無く、変わって居る人と言うことに成るんですが、それはさて置き。>そうは言っても 今の時代に生きていかなくてはならないのですから 変わっているというレッテルを貼られると 生きにくい・・・ここの心情はよく解ります。矛盾の真っ只中で生きて行くには、レッテルやラベルは貼られたくはない、確かに。これも物の哀れなんだなぁー、世間一般では、それにつけても金の欲しさよと、その後につづいて落ち着くんでしょうが!何れにしても、私達がこの世で暮らすことは、物の哀れ無くしては成り立たず、しみじみと物の哀れを感じるから、ラッキーなどは、雑草にまで肥しを与えているんです。今一度、読者の皆さんも、物の哀れについてちょっと考えて見ては如何でしょう。自分なりの新しい視点に出会えるかも知れませんから・・・あなた幸せと健康祈ります(^^)v【ラッキーの一言】今日は、夕方に餃子を食べ過ぎたのか胸やけやら何やらで体も熱っぽくて体がシャンとしないので此れから寝ます。ラッキーでした(^O^)/

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