2006/12/20(水)22:56
ブラームスは恋の歌
「以前、南の島を旅したとき、
現地の色の黒い男が、不思議な太鼓を叩きながら、
ひとり歌を歌っていた。
その歌があまりにも切なく、美しかったので、
思わず、私はその男に
『これは恋の歌ですか』
と聞いてみた。
すると、その男、
『いいえ、これは恋の歌ではありません。』
一呼吸置いて、
『でも、歌というのは、音楽というものは、或る意味ではすべてラヴ・ソングだといえるのではないのしょうか』
とその男は答えた。」
というような文章を、むかしどこかで読んだ記憶があるのだが、
今となっては出典は定かでない。
たとえば、色恋沙汰の書かれていない文学など存在しないように、
音楽とはすべて、とどのつまりは恋の歌。
と言い切ってしまうとさすがに極論かもしれないが、
音楽には「そのような側面」がたしかに存在していると思う。
上手く説明できないけど、僕はそう思う。
少なくとも、ヨハネス・ブラームスに限って言えば、
この「公式」は見事に当てはまる。
なぜなら、ブラームスの音楽には必ずクララ・シューマンがいるからだ。
クララのいないブラームスなど存在しないし、
クララのことを考えずに作曲したブラームスの音楽など存在しないのだから。
ブラームスとクララとの関係を、「恋」と言い切ってしまうのはちょっと抵抗があるけれども、
あの複雑で特別な関係をそのように呼ぶことは(少なくとも、ブラームスの側から見て)そう不適当な表現ではないであろう。
ブラームスの音楽には、いつもクララがいる。
壮大な交響曲の響きの中にも、洒脱な協奏曲の掛け合いの中にも、室内楽のちょっとした間の中にも、孤独なピアノ曲の中にも。
僕が冒頭の文章を思い出したのは、
最近ずっと彼のヴァイオリン・ソナタを聴いているからです。
中でも僕は、第2番のソナタが好きです。
この最も「ブラームスらしい」ソナタの名曲は、
第1楽章の遠い憧れ、第2楽章の親密な戯れ、第3楽章の別離の悲しみ
という不思議なストーリーが流れています。
この曲にある「なぜ?」は、
すべてクララに向かって発せられているものです。
でもそして同時に、ブラームス本人に対しても。
「なぜ?」
彼らは答えてくれません。
その答えのない問いは、私たちのまえに美しく提示されたままです。
このブラームスの恋の歌、
研修中も繰り返し聴いていました。
僕が今聞いているのは、前掲のズッカーマンです。
ほかの人のヴァイオリンも聴いてみたくなりました。
どなたか、お勧めのCDがあれば、是非教えてください。