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2018.08.15
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カテゴリ:カテゴリ未分類
数年前に三戸小学校の書類を調査した折、学校日誌に、終戦の日の様子が記してあった。なかなか興味深い記事なので、紹介してみたい(読みやすいように現代文風に直し、一部は省略した)。
 昭和20年8月15日の水曜日。青森県三戸町の三戸国民学校(現三戸小学校)では、特別幹部少年飛行兵採用検査が行われることになっていて、前日から陸軍大尉神源一ら関係者が来校し、準備作業を進めていた。当日も弘前から陸軍大佐加藤三郎が視察に来るなど、慌ただしく人が出入りしていたが、一方で「15日正午に特別重大放送があるので、国民は皆、聴くように」とのラジオ放送が前日から繰り返されており、「天皇陛下のお言葉だそうだ」「9日に満州を攻撃したソ連への宣戦布告じゃないか」などと人々は噂し合っていた。
 正午前、宿直室のラジオの前に集まると「天皇陛下の御放送があります」との挨拶があり、国歌の演奏に続いて、昭和天皇の玉音が流れた。極度の緊張の中、玉音は微かに震え、しかも所々ハッキリとは聞き取れず、聴き終った皆々も茫然とするばかりで、一言も無かった。「これはポツダム宣言の受諾ではないか」「大東亜戦争は終ったのだ」「しかも惨敗だ」と、人々は正しく感無量。特別幹部少年飛行兵採用検査官の将校の控室にこのことを告げたが、彼らでさえ「まさか」「本当か」と疑う始末。本当のことと分かると溜め息ばかりで、皆、心ここにあらずの姿であった。
(『沿革誌』第四号/昭和十六年四月より昭和二十九年三月まで)
 ちなみに16日と17日、特別幹部少年飛行兵採用検査はそのまま実施された。戦争が終わったとはいえ、仕事や行事もいきなり無くなるということにはならなかったようだ。








Last updated  2018.08.17 20:13:55
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2018.08.06
カテゴリ:カテゴリ未分類



 富岡製糸場で最も重要な施設はカイコの繭から糸を巻き取る「繰糸所」だが、その最大の特徴は、揚返器を156窓も備えていた点である。揚返(あげかえし)とは再繰のことで、小枠に巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程である。湿度が低いヨーロッパの場合は1回だけ巻き取る直繰(ちょくそう)式が一般的だったが、湿度の高い日本の場合、そのままではセリシンの作用で再膠着することがある。ブリュナはそのために、再繰式器械を特注したのである。また、日本人女性の体格に合わせて器械の高さを調整するなどの工夫も施した。器械は時代と共に更新された。現在の「繰糸所」は、昭和62年(1987)の閉業時の姿のまま残されている。
 工女募集は明治5年(1872)2月に行われたが、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの噂が広まり、当初は思うように集まらなかった。しかし、工女たちの労働環境はかなり充実していた。当時としては先進的な七曜制が導入され、日曜日は休日とされた。1日8時間程度の労働で、年末年始と夏期には10日ずつの休暇があった。食費・寮費・医療費などは製糸場持ちで、制服も貸与された。
 群馬県では明治10年(1877)に変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、明治11年(1878)までに工女余暇学校が設置された。県令楫取素彦は教育に熱心で、しかも楫取の妻は吉田松陰の妹の杉文である。そうしたことも学校設置の背景にあるのだろう。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に、繰糸の方法を伝授する役割も果たした。『富岡日記』の横田英(和田英)もその一人である。






Last updated  2018.08.07 22:20:16
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2018.08.05
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 建物・施設は他にも西置繭所(国宝)、蒸気釜所(重要文化財)、鉄水溜(重要文化財)、首長館(ブリュナ館、重要文化財)、女工館(重要文化財)、検査人館(重要文化財)、揚返工場、乾燥場、繭扱場、糸蔵、計算所、男子寄宿舎、蚕種製造所、浅間寮・妙義寮(女子寄宿舎)などがあり、1日ではとても回り切れるものではない。
 昭和14年(1939)4月から経営を引き継いだ片倉には、明治24年(1891)6月の工場払い下げ入札に失敗した過去があり、富岡製糸場には相当の思い入れがあったようだ。昭和62年(1987)3月の閉業後も「売らない、貸さない、壊さない」と一般公開しなかった。固定資産税は年間2000万円、維持・管理費を含め年間1億円以上かかったとも。修復も当時の工法で復原することにこだわったといい、だからこそ、富岡製糸場は良好な状態で保たれたのである。
 「東置繭所」と通路を挟んだ所に、繰糸の体験コーナーと企画展示コーナーが設けてあった。カイコは、立体的な場所に繭を作る。そのため、木の枠を格子状に組んだ「簇」(まぶし)を用意する。生産地で使用される「回転蔟」は、カイコが一箇所に集まってしまった時に、カイコ自体の重みでゆっくりと回転し、空いている枠に振り分けられるように出来ている。繭は熱湯に入れてほぐし、筆で糸の端を探す。カイコの糸は切れ目がない1本糸で、800~1000mはある(長いものだと1500m)。これを小枠に巻き取るのだが、妙齢の女性が楽しそうにハンドルを回していたので、写真を撮らせてもらった。鍋の中に残ったサナギは魚の餌や畑の肥料になる。昔は乾煎りし、塩を振って、人間が食べていたこともあったという。






Last updated  2018.08.07 20:47:08
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2018.08.04
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 今日は東京まで戻るが、台風の雨風がまだ残っているので、早めに宿を出て渋川駅行きのバスに乗った。ここから前橋・高崎を経由し、富岡製糸場へ向かうつもりだ。
 「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録は、平成26年6月のこと。絹は日本の近代化を支えた重要輸出品で、生糸生産の中心が富岡製糸場だった。東洋一の規模を誇り、生産量・品質ともにフランス・イタリア・清を圧倒した。政府→三井家→原合名会社→片倉製糸紡績会社と経営主体は転々としたが、基本的な建物配置は変わっていない。
 政府は横浜で生糸検査人をしていたフランス人ポール・ブリュナに製糸場建設を依頼した。ブリュナは富岡を建設地とし、横須賀製鉄所の設計者エドモン・オーギュスト・バスチャンに設計図を依頼した。その上で器械購入と技術者雇用のためいったん帰国し、明治4年(1871)11月に家族を連れて再来日した。
 正門を入ると、国宝の「東置繭所」だ。互い違いに積んだレンガ造(フランス積み)が美しい。カイコはサナギになって10日程すると羽化し、繭に穴をあけて外に出るから、冷蔵・冷凍して成長を止めるか、熱をかけて殺さなくてはならない。その後も、カビや腐敗を防ぐため乾燥させる必要があるが、乾燥したばかりの繭は水分率にバラツキがある。最低1か月は貯蔵し、性質が安定してから繰糸するのが普通だ。長期貯蔵するとセリシン(生糸を繭として固めている成分)が結晶化するなど変性が進み、繭糸のほぐれが悪くなることがある。温度・湿度が低く安定している環境が望ましく、2階部分が風通しの良い広々とした空間になっている。






Last updated  2018.08.07 20:34:05
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2018.08.03
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 伊香保温泉がある榛名山はこの地域の山々の総称で、上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)の一つである。山頂には榛名湖(カルデラ湖)と、中央火口丘の榛名富士(溶岩ドーム、1390m)がある。最高峰は掃部ヶ岳(いわゆる榛名山=1449m)で、天目山(1303m)、相馬山(1411m)、二ッ岳(1344m)、烏帽子岳(1363m)、鬢櫛山(1350m)がこれを囲み、さらに水沢山(浅間山1194m)、鷹ノ巣山(956m)、三ッ峰山(1315m)、李が嶽(杏ヶ岳1292 m)、古賀良山(982m)、五万石(1060 m)など多くの側火山がある。
 伝承として、榛名富士が富士山より低いのは、国づくりの巨人ダイダラボッチ(「もののけ姫」のあの神様だ)がもう少し土を運ぼうとしたところで夜が明け、途中でやめたため、というのがある。榛名湖は、榛名富士をつくるため土を掘った後が湖になったものという。ほかにも、榛名神社が諏訪神社から井戸を通して食器を借りたという話、弘法大師が杖を刺して井戸を掘ったという話などがあり、山岳信仰が盛んだったことをうかがわせる。榛名湖は『万葉集』の時代から、上野国を象徴する歌題「伊香保の沼」として知られ、江戸時代以降は榛名神社とともに、関東地方を中心とする雨乞い信仰「榛名講」のメッカとなった。
 昭和の高度成長期、榛名湖には1日3万人の行楽客が押し寄せたという。夏の水上スポーツやボート遊び、冬のスケートや氷上ワカサギ釣りなど。湖畔に土産物屋がならび、対岸に温泉があり、榛名富士や沼ノ原にキャンプ場・スキー場がつくられ、ロープウェーも設置された。近年は湖上の花火大会やイルミネーションイベントも催されている






Last updated  2018.08.07 12:17:54
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2018.08.02
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 記念館を出たところで昼になった。折角なので、周回のタウンバス(100円先払い)で石段街の中腹まで行き、昼食の場所を探した。途中で「黒船屋」の暖簾を下げた店があったので、思わずパチリ。伊香保の名物に「水沢うどん」というのがあるらしいが、こだわる性質でもないので、その辺のラーメンで済ませた。
 伊香保の温泉街が形成されたのは、戦国時代のこと。長篠の戦で負傷した武田兵の療養場として、真田昌幸が整備したという。明治以降は竹久夢二、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情など多くの文人が訪れた。老舗の「千明仁泉亭」は、明治の文豪徳富蘆花の常宿で、小説『不如帰』の冒頭にも登場する。名物の茶色の温泉饅頭(湯の花まんじゅう)は伊香保温泉が発祥とされ、明治44年(1910)から売り出された。戦後は歓楽街として栄え、今でも芸妓組合がある。365段の石段があり、温泉街のシンボルとなっている。石段の両側には温泉旅館、土産物屋、遊戯場、飲食店などが軒を連ね、石段の上に伊香保神社がある。石段の下には黄金の湯の源泉が流れ、小間口と呼ばれる引湯口で各旅館に分湯されている。
 ところどころの店を覗いている内に雨が上がり、遠くに青空が見えてきた。「これなら榛名湖に行けたなぁ」と思ったが、山の天気は変わりやすいし、台風の雨雲は依然として関東一円に広がっている。伊香保神社は見えていたが、ちょっと疲れていたので登る気力がなく、坂を下ってバス停に出ることにした。
 夕方近くにまた雨風が出てきて、「避難所に入る方は着替えを持参してください」とかなんとかの町内放送が流れた。ホテルは流石に大丈夫だろうが、先日の広島豪雨のこともあり、なかなか気が休まらない。早めに風呂に入り、食事を済ませ、テレビを見たり漫画を読んだりして無聊を慰める。11時ごろに寝床に入ったが、夜中の3時にハッと目が覚めた。雨は強くなっていたが、風は思ったほどでもなく、少し安心して再び眠りに就いた。






Last updated  2018.08.07 12:15:45
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2018.08.01
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 朝から雨が降っていたので、宿の人に榛名湖行きを打診してみると、「今日の天気で、遠出するのはねぇ」との返事。伊香保から榛名湖まではバスで小1時間かかるというのでやむなく諦めたが、近くに「竹久夢二伊香保記念館」があると聞いたので、そっちに出かけてみることにした。
 大正期を代表する画家で、挿絵・装幀・グラフィックデザイン、詩作・童謡にも才を発揮した竹久夢二(1884-1934、本名は茂次郎)は、岡山県の造酒屋の出。夢二と言えば美人画だが、その嫋やかさは、西洋の豊満な肉体美やエロチシズムからはかなり遠い。たまき・彦乃・お葉という3人の女性と重ねたロマンスが、「夢二式美人」の背景にあるのだろう・・・と言ってる傍から、夢二作の裸体画が展示してあったりするんだけど。はは。
 入館してすぐにオルゴールの生演奏があり、夢二の詩に曲を付けて大ヒットした「宵待草」も流れた。夢二は中央画壇に目を向けず、あえて大衆の中に身を置いた。絵画はよく売れ、挿絵や装幀の依頼も多く、浴衣や日用雑貨のロゴデザインも手がけ、詩作や童謡も能くし、各地に支援者が居た。時代の最先端を行く多才な芸術家として、成功したのである(夢二自身は「芸術家」という言い方を嫌ったようだが)。記念館にExliblis(蔵書票。本の見返しに貼って持ち主を示す小紙片)が展示してあったが、それを見て、昭和40年代まで青森市浅虫にあった旅館「東奥館」(今はない)にも夢二作の蔵書票があったのを思い出した。「こんな仕事までやってたんだ」と、妙に感心させられたことである。ちなみに、この記念館が所蔵する夢二の代表作『黒船屋』は、本館に設えられた「夢二黒船館」で、期間限定(9月中旬の2週間だけ)で公開される。
 伊香保を愛した夢二は昭和5年(1930)5月、「榛名山美術研究所」の設立を宣言し、周囲に協力を仰いだ。榛名湖畔にアトリエを建て、ここで冬を越している。しかし、翌年から外国に遊んだ夢二は帰国後に体調を崩し、昭和9年(1934)9月に永眠する。夢二の死により計画は頓挫したが、昭和56年(1981)5月23日、有志によって私立「竹久夢二伊香保記念館」が開館した。夢二研究家の長田幹雄の収集品に浦本政三郎・村井田比呂志のコレクションを加え、絵画・版画、浴衣などのデザイン原画、日記・スケッチ帖など16000点余の資料を所蔵している。夢二の想いは、ほぼ半世紀後に実現したわけだ。






Last updated  2018.08.07 12:13:59
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2018.07.31
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 実は、旅行に出る前から台風12号が変な動きをしていて、関東・東海に上陸した後、近畿・瀬戸内・九州へ抜けるのではないかと言われていた。本州を東から西へ縦断するというとんでもないコースだが、その話で行くと、今日の夕方辺りから北関東(群馬県・栃木県)に雨雲がかかる可能性が大である。宿に早めに入って、天候を見て明日の動きを決めようと、今日泊まるホテルニュー伊香保に電話を入れ、バス停まで迎えに来て貰った。
 伊香保温泉は、草津温泉と並んで群馬県を代表する名湯。発見はかなり古く、『万葉集』巻14に9首ほど、伊香保の名が登場する。
 伊香保ろに 天雲い継ぎ かぬまづく 人とおたはふ いざ寝しめとら(巻14-3409)
 伊香保ろに 沿ひの榛原 ねもころに 奥をなかねそ まさかしよかば(巻14-3410)
 伊香保ろの 夜左可のゐでに 立つ虹の 現はろまでも さ寝をさ寝てば(巻14-3414)
 上つ毛野 伊香保の沼に 植ゑ小水葱 かく恋ひむとや 種求めけむ(巻14-3415)
 伊香保せよ 奈可中次下 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも(巻14-3419)
 伊香保嶺に 雷な鳴りそね 我が上には 故はなけども 子らによりてぞ(巻14-3421)
 伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありと言へど 我が恋のみし 時なかりけり(巻14-3422)
 上つ毛野 伊香保の嶺ろに 降ろ雪の 行き過ぎかてぬ 妹が家のあたり(巻14-3423)
 伊香保ろの 沿ひの榛原 我が衣に 着きよらしもよ ひたへと思へば(巻14-3435)
ちなみに「伊香保ろ」とは、榛名山のことである。
 これらの歌碑が、伊香保温泉のそちこちにあるので、捜しながら周ってみるのも一興か。






Last updated  2018.08.06 22:36:16
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2018.07.30
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 今日の宿の伊香保温泉は、渋川市の郊外にある。沼田駅から渋川駅まで電車で20分、渋川駅から伊香保温泉までバスで20分というところだが、早く着いてもしかたないので、途中でバスを降り、伊香保グリーン牧場でランチを取ることにした。1970年10月に開業した観光牧場である。この種の施設は大概がファミリー向けで、中年男性が立ち寄るにはいささか気が退けたが、羊やヤギにエサをやったり、ウサギを抱っこしたり、牛の乳搾りを体験したり、乗馬を試したりと、なかなか工夫が凝らされている。私は「シープ・ドッグ・ショー」を観覧したが、牧羊犬が100頭余りの羊を丘上に追い立て、そこから丘下に向かって追い下げ、囲いの中に誘導する様は実に面白かった。途中、羊の毛刈りの実演もあって、これは見ておいて損がないと思った。
 アトラクションを仕切っていた外人さんはニュージーランドの出身で、「その羊の毛を触ってみて、何なら持って帰って」と、人なつこい笑顔で質問に答えてくれた。「刈ったばかりの羊の毛って、オイリーだね」と話しかけると、「そう。毛の下にはたっぷり脂肪があるからね。刈った後が寒そうで可哀相、という人が居るけど、1日経つとさらに脂肪が厚くなるから、寒くないんだよ」と、まるで自分が羊になったようなことを言う。もう1人の外人さんは「毛刈りの時期は、手がすべすべになるよ」とウィンクする。ちなみに、今日刈り取った毛は時期外なので、捨ててしまうんだそうな。それで、少しちぎって貰ってきたが、白い毛に仕上げるには、洗ったり乾燥したり漂白したりしなくちゃならないそうな。






Last updated  2018.08.06 22:52:29
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2018.07.29
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 伍楼閣は朝食もかなり良かったが、面白いのは、御飯とは別に、お粥が出てきたこと。群馬県といえば高崎駅の駅弁「上州の朝がゆ」(高崎弁当株式会社=たかべん)が有名だが、後で泊まった宿でもお粥が出たし、そういう食文化なのかなぁ。沼田の後は榛名湖を観に行く予定で、今日は伊香保温泉へ向かう。老神温泉の共同バスで沼田駅に送って貰ったが、肝心の沼田城に行く時間が無かったのは残念だった。
 沼田城と言えば、真田信幸の妻の稲姫(小松殿)が、義父昌幸の突然の訪問を謝絶した逸話がある。慶長5年(1600)の関ヶ原戦の直前、下野国犬伏(現栃木県佐野市)で父昌幸・弟信繁(いわゆる幸村)と面会した信幸は、西軍に走ろうとする昌幸らと袂を分かち、家康の東軍に残った(犬伏の別れ)。直後、昌幸は小勢を率いて沼田城に現れ「孫の顔が見たいから城内に入れてくれ」と叫ぶが、稲姫は固く門を閉ざして「お立ち去りなくば弓矢になりますぞ」と撥ね付けたという。しかし、秀吉は天下掌握の一貫として諸大名の妻子を伏見や大坂に居住させており、稲姫も早くから上方に住んだ。さらに、沼田城には以前から信幸と婚姻関係にあった清音院(真田信綱女)が居て奥向きを差配していた。従って、この話の真否は稲姫が上方を出て沼田城に入った時期がカギになるが、そこまで突き詰めなくても、稲姫の賢夫人ぶりを語るエピソードぐらいに見ておけば良いだろう。
 関ヶ原戦後の論功行賞で信幸は沼田領3万石を安堵され、さらに昌幸の上田領6万5千石を加増された。昌幸と信繁は死罪になるはずが、信幸と本多忠勝の嘆願により助命され、高野山へ流罪となった。信幸はその後も昌幸らへの金銭的援助を続け、赦免を願い出るなど、孝養を尽くした。贈答品の手配などは稲姫がしていたようで、昌幸から信幸の家臣に宛てた書状に「御料人(=稲姫)によろしく」と礼を述べる文言がある。稲姫と真田一族との関係は良好だったのだ。






Last updated  2018.08.06 22:32:23
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