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2019.04.05
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カテゴリ:カテゴリ未分類
​世間的には概ね新元号「令和」は好意的に受けとめられているようである。出典となった「万葉集」の文章の元が漢籍にあるとか、「令和」を提案したのが誰それだとか、どうでも良いことで騒いでいるメディアに振り回されたくはないが、東大の某歴史学者の言には、かなり呆れた。以下はその主旨。

・・・「令和」以外の5つはケチのつけようがない。
​・・・「令」は上から下に何か「命令」する時に使う字。​
・・・「巧言令色鮮仁」(こうげんれいしょく、すくなし、じん)という故事。「口先がうまく、顔色がやわらかで、人を喜ばせ、媚びへつらうことは、仁の心に欠けている」という意味。
​​・​​・・普通に使うと使役表現となり、中世の人に読ませると「人に命令して仲良くさせる」となる。​​

 中国から日本へ帰化した評論家の石平(せき・ へい)氏がこれに反応した。以下はその主旨。
​​・・・「令」は尊称でもある。令息、令嬢。​中国では相手の父を令尊、母を令堂とも言う。​​​
​・・・孔子は、「令色」は悪い意味で使っているが、「令」の字が悪いとは言ってない。​
​​​​​・・・漢字は組み合わせによって、良くも悪くもなる。組み合わせによって、新しい意味が生まれる。​​
・・・二つの文字をばらして「令」の字だけを論げつらうのは、レベルが低すぎる議論だ。

 
どちらを良しとすべきかは、自明であろう。某歴史学者の言は批判のための批判で、他の候補(英弘、久化、広至、万和、万保)が選ばれても、難癖を付けるに決まっているから。







Last updated  2019.04.05 21:39:09
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2019.04.03
カテゴリ:カテゴリ未分類
仕事柄、江戸時代の古文書(こもんじょ)に触れる機会が、かなりある。以前、本州最北端の町に居た時に、教育委員会の方が訪ねてきて「これ、読めますか」と聞かれた。何かの借用証文であることが分かり、それはそれで済んだのだが、年月日が「文政十四年○月○日」と書いてある。文政13年12月10日(グレゴリオ暦1831年1月23日)に天保元年となったのだから「文政十三年」と書くのは有りとして、「文政十四年」とはねぇ。遠隔地までは改元の情報が伝わっていなかったという、これはお話。 
 ちなみに天保改元の当日は、和暦ではまだ新年でない。この年の西暦は、文政13年11月17日以前が西暦1830年、同年11月18日からは西暦1831年となる。文政13年と天保元年は和暦なら同じ年として良いが、西暦では年を跨いでいるのだ。それゆえ、歴史学でこの時期を扱う際は、太陽暦(通常はグレゴリオ暦)を併記することがある。






Last updated  2019.04.06 07:49:50
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2019.04.02
カテゴリ:カテゴリ未分類
西暦2019年4月30日に平成31年が終わり、5月1日から令和元年が始まる。改元があった時、1月1日に遡って新元号を用いるか否かが、しばしば話題になる。元号を1月1日に遡らせる場合を立年改元、翌年の1月1日まで遅らせる場合を踰年改元(越年改元とも)という。Wikipediaの「改元」の項を参考に記すと、
 ①立年改元…改元布告の時点で、布告年の元日に遡って新元号の元年と見なす。
 ②即日改元…改元布告の日を新元号の元年とする。
 ③翌日改元…布告の翌日を新元号の元年とする。
 ④踰年改元…布告の年の末日までを旧元号、翌年の元日から新元号とする。越年改元とも。
​ ⑤踰月改元…布告の月の末日までを旧元号とし、翌月一日から新元号を用いる。​
となる。日本の改元は概ね①か②か③のパターンで、明治改元は①、大正改元・昭和改元は②、平成改元は③だが、令和改元は⑤である。
  慶応4年は9月8日に明治と改元したが、「慶応4年をもって明治元年とする」との詔書が出されたため、旧暦1月1日に遡った立年改元である。ちなみに、慶応4年9月8日は西暦1868年10月23日である。
 明治45年は7月30日に天皇が崩御し、その日に新天皇が即位したから、即日改元である。「明治45年」と「大正元年」はほぼ併用される。
 大正15年は12月25日に天皇が崩御し、その日に新天皇が即位したから、即日改元である。一般に「大正15年」と称しても、「昭和元年」とは滅多に呼ばれない。
 昭和64年は1月7日に天皇が崩御し、その日に新天皇が即位したが、元号法の規定により改元は翌日の1月8日となったから、翌日改元である。一般に「平成元年」と称しても、「昭和64年」とは滅多に呼ばれない。
 平成31年は4月30日に天皇が譲位し、5月1日に新天皇が即位する。翌日改元のように見えるが、元号の布告は4月1日に済ませてあるので、踰月改元である。
 元号の発祥地である中国は、既に元号を廃止した。漢字文化圏の朝鮮半島では、極々たまに元号を用いることがあったが、今は使用していない。元号は日本の歴史の長大さを示す文化的表徴であり、国家の安寧、民衆の幸福、厄災の防除、凶兆の隔離など、平穏な社会の実現を期待する意味が込められるものである。そこのところを理解していないから、新元号について「令和の令は、命令の令」「政府の押し付け、上から目線だ」「右翼的、国粋的だ」とする頓珍漢な意見が出てくるのだ。これを特定の某国が言うならまだしも、日本の一部の国会議員の声なのだから、情けなくなる。歴史を正しく勉強してほしいと、切に願う。
 日本の学校は4月からが新年度なので、卒業年度の表示に少し、思い悩むことになりそうだ。例えば、今年の3年生は平成31年度卒なのか。彼らは令和2年3月の卒業だから令和元年度卒で良いと思うが、そんな細かいところは未定、ということ。いずれ政府のお達しがあろうが、これは命令ではなく、共通理解を図る、と言わねばなるまい。







Last updated  2019.04.02 20:14:04
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2019.04.01
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 「嘉辰令月」というコトバがある。「嘉辰」は「めでたい日」、「令月」は「めでたい月」で、合わせて「めでたい月日」だが、要は「縁起が良い日々」「縁起が良い歳月」ということである。新元号に決まった「令和」に期待されるのは正しく、「めでたく、平和に」という願いの実現である。
 菅義偉官房長官は「万葉集」が出典だと言っていたが、それはすなわち、同書巻五の「梅花の歌」の序文に拠る。
 初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす
 「梅花の歌」は、大伴旅人(おおとものたびと)が催した梅花の宴の際に詠まれた32首を集めたもの。大伴旅人は「和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母」と詠んだ。漢字の音を借りた万葉仮名で記されているので、現代的には「わが苑に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れくるかも」と読み、「屋敷の庭に梅の花が散る。遙かに遠い天の高みから雪が流れて来るようだ」と解することになる。梅の花びらが散る様を九州の雪の軽やかさになぞらえたものだが、暗に「都の雪とは降り方が違う」と言いたいのだろう。
 大伴旅人は藤原氏と長屋王の抗争に巻き込まれ、神亀5年(728)頃に太宰府へ左遷された。宴には山上憶良(やまのうえのおくら)も参加していて、「春されば まず咲くやどの 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ」と詠んでいる。二人して望郷の念に駆られていたのだろうか。ちなみに、九州国立博物館の入口に、旅人の歌碑が立てられている。







Last updated  2019.04.01 22:54:18
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2019.03.26
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諺に「以て他山の石とすべし」というのがある。元は中国の古典『詩経』小雅・彤弓(とうきゅう)之什の「鶴鳴」と題された一篇に「他山の石、以て玉を攻くべし」(たざんのいし、もってたまをみがくべし)とあることによる。

    鶴鳴
 鶴鳴于九皋、声聞于天。魚在于渚、或潜在淵。
 楽彼之園、爰有樹檀、其下維穀。他山之石、可以攻玉。

  鶴九皐に鳴いて、声天に聞こゆ。魚渚に在り、或は潜んで淵に在り。
  彼の園を楽しむ。爰に樹てる檀有り、其の下は維れ穀。他山の石、以て玉を攻く可し。


 「攻」は磨いて加工することで、ここでは「みがく」と読む。ゆえに「他所の山から出た粗悪な石でも、砥石として利用すれば、自分の宝玉を磨くのに役立つ」という意味になる。自分への批評に耳を傾けることが自分の知徳を磨く助けになる、と言えば聞こえはよいが、要は、どんなアホな言葉でも知識や教養を増やすのには役立つ、ということだな。
 「他山の石」は粗悪品なのだから、引用する時は注意が必要である。例えば「他山の石、以て玉を攻くべし、と言います。先生の言葉をお手本にします」などと言うと、これは大変な失礼に当たる。幾ら「師を乗り越えていけ」とは言っても、生兵法はケガのもと。気を付けなくちゃ、あかんよ。はは。






Last updated  2019.03.26 12:29:51
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2019.03.22
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3月21日に東京ドームで行われたMLB開幕第2戦、マリナーズvsアスレチックスの試合中に「試合後にイチローが記者会見」との報が流れた。「マリナーズHPにイチローが引退、と出てる」との話もあり、テレビ観戦中のワタシも「嗚呼、やはり」「来るべきものが来た」と、感慨も一入。「日本でならまだできる」との声もあるが、花も実もある内に退くのが、大選手の身の処し方だろう。
 日本で  4098打席、 3619打数、1278安打、打率0.353。
 米国で 10734打席、 9934打数、3089安打、打率0.311。
 通算で 14832打席、13553打数、4367安打、打率0.322。
「数字は誰かが超えて行くだろうから」とイチローは言うものの、これだけの結果を出した、出し続けたという点に、スーパースターへの道の途方もない長さを思う。辛口・毒舌の評論家張本勲をして「1世紀は出ない」と言わしめた高度な打撃技術は言うまでもないが、それ以上に、野球への取り組み方の真摯さ、夢を持ち続けることの大切さを有形無形に知らしめてくれた点で、傑出した存在であることに、疑いはない。
 延長12回の熱戦だったため、試合が終わったのは結構遅い時間だったが、観客は誰も帰ろうとしない。終了後20分ぐらいして、イチローがグランドに戻ってきて、ファンのコールに応えた。グランド一周の際、イチローの周りを取り囲んだカメラが邪魔で「こんな時ぐらいは自制したら」と思ったが、イチローは「それじゃ、お客さんには見えないよ」と軽く制するぐらいで、取材側にもそれなりの気遣いをしていた。最後の所はダイヤモンドに入って一人で挨拶していたので、ファンも一応は納得したかな。記者会見は、0時少し前に始まった。「こんなに居るの?」とイチローはおどけて見せたが、それも、最後の言葉を聞き逃すまいと緊張する会場の雰囲気をほぐそうとの、彼一流の気遣いなのだろう。
 「貫いたものは?」 「野球を愛したことです」
 「後悔は?」    「後悔など、あろうはずがないです」
 引退を決めた時期の話になって、「日本に来る前のオープン戦終盤に」と答えたイチローだが、「クビになる覚悟はいつもしていた」と続けたのが、強く印象に残った。2012年7月にマリナーズからヤンキースへトレードされ、2015年にはマーリンズへ。2018年にまたマリナーズへ、移籍のたびに「クビになっていてもおかしくなかった」と、結果が出せない自分を冷静に見つめていたのだ。昨年5月に出場機会を失った時も、球団側はクビとは言わず、特別補佐として契約を継続し、今季出場の可能性を残してくれた。その配慮があったからこそ日本で引退発表ができたわけで、マリナーズは何とも粋な計らいをしたものである。その期間をイチローは「ギフト」と表現した。
 「印象に残った最高のシーンを挙げてみろ」と言われたら、さて、何と答えよう。2001年4月11日のアスレチックス戦、8回1死1塁でライト前ヒットを捕球し、3塁へのノーバウンド送球で走者テレンス・ロングを刺した「レーザービーム誕生」の瞬間か。2004年10月1日のレンジャーズ戦第2打席にシーズン258本目のヒットを放ち、84年間破られなかったジョージ・シスラーのMLBシーズン最多安打記録を更新した際の興奮か。2009年3月23日のWBC決勝・対韓国戦で、延長10回表2死2・3塁から放った勝ち越しセンター前ヒットの熱狂か。
 どれも名場面だが、ワタシは敢えて、2017年4月19日のマリナーズ戦、9回の最終打席で放った本塁打の場面を挙げたい。マリナーズの本拠地シアトルは、MLBにおけるイチローのキャリアがスタートした地であり、フランチャイズのセーフコ・フィールド(現T-モバイル・パーク)は、イチローが最も多くプレーした球場である。イチローはこの時、43歳。力の衰えは隠しようもなかった。周囲が「いつ引退か」と危ぶむ状況の中、「まだやれるぞ」と必死にもがいていたその最中のシアトル遠征だった。右腕マーシャルの真中高めの直球をフルスイングし、白球が右中間スタンドに舞う。大歓声が起き、球場内のすべての人の想いが交錯する。何度見直しても、目頭が熱くなるシーンだ。







Last updated  2019.03.26 07:01:28
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2019.03.21
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 昨日の話に関連して、小泉八雲『知られざる日本の面影』の中に、こんな話があったのを思い出した。「第二十六章 日本人の微笑」その二から、その大意を記す。
​ 明治の頃、横浜に住んだ英国人商人Tが、侍上がりの老人を召使いとして雇った。老人は髷を結い大小を差していたが、礼儀正しく節度もあり、商人Tは大いに気に入った。ある日、老人が大刀を差し出し「これを抵当にして、少し金を貸して貰いたい」と頼んできた。それは美事な物だったので、商人Tは金を貸してやった。数週間後、老人は金を返し、大刀を取り戻した。​
​ ある日、商人Tは何かのことで老人を叱責した。老人はお辞儀と微笑みでその叱責に服していた。それが一層、商人Tの怒りを煽り、Tは老人に出て行けと命じた。それでも老人は微笑むばかりだったので、商人Tは遂に老人を殴った。その刹那、老人の大刀が商人Tの頭上を一閃した。刀を修めた老人は、そのまま退出した。​
​ Tは老人がくれた珍しい小さな贈り物や、その正直さを思い出して、恥ずかしさを覚えたが、「まあいい、あれが悪いんだ。おれが怒って居る事を知ってゐておれを笑ふやつがあるものか」と、自分を慰めようとした。それで、機会があったら、何か埋め合わせをしようと思った。​
​ しかしその晩、老人は切腹した。遺書にはこう書かれていた。「侍として、理不尽な暴力を受けて反撃しない、ということは耐えられない屈辱である」「しかし、ご主人には金を貸して貰ったこともあり、その恩人に刀を振るうなど、あってはならない」「とすれば、自ら死を選ぶことが、名誉を保つ唯一の方法である」と。​
 商人Tと同様、当時の欧米人の多くは、日本人の微笑の意味を理解できなかっただろう。ギリシャ生まれのアメリカ人ラフカディオ・ハーンはそれを理解できる感性をもっていたからこそ、小泉セツを妻として日本に帰化する道を選んだ。辛抱する。じっと耐える。それこそが日本の美学であり、その臨界点を越えた時に、すなわち微笑が失われた時に、「切れたら怖い」という現象が現れるのだ。堪忍袋は、日本以外にはないものなのである。






Last updated  2019.03.21 08:36:21
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2019.03.20
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 「チャンネル桜」平成24年11月20日放送の「日中武力衝突論議の落とし穴」という番組が、ニコニコ動画にUPされていた。その中の「防人の道~今日の自衛隊」というコーナーで、元海上自衛隊特別警備隊先任小隊長の伊藤祐靖という人が、なかなか面白いことを言っていた。政治向きではなく、歴史学的、民俗学的な話である。以下はそのまとめだが、大略を記したものなので、正確なところは上記を視聴してもらいたい。
​ 伊藤さんが韓国へ行った時、焼肉屋のおばさんが寄ってきて「日本人に言いたいことがある」と話しかけてきた。何かのクレームかと思ったら「あなた、パハンって知ってるか?」と聞いてくる。知らない、と答えると「じゃ、カイラギは?」と言う。それも知らない、と返すと、漢字で「八幡」「海乱鬼」と書いてくれた。おばさんはさらに言う。「日本人は、怖い。人が良いからすぐに騙されて、お金を貰えずに商品を手放して、ションボリ帰るのさ。でも次の年もまた来て、また騙されて。次の次の年も騙されて…とやってるうちに、ある日突然、裸になって、乗ってきた船と一緒に服を焼いて、刀を抜いて、その辺に居る人を全部殺して、最後は切腹する。だから、日本人は騙しちゃいけない」と。​
 「八幡」も「海乱鬼」も日本の倭寇、つまりは海賊のことである(写真は東大史料編纂所蔵「倭寇図巻」より)。この場合の「八幡」は「バハン」と発音するが、まあ「パハン」でも。海賊と言っても、掠奪ばかりしているわけではない。手漕ぎ船で半島や大陸の沿岸に現れ、まずは商売をやる。条件が折り合わない時は帰るか暴れるかするわけで、いろんなパターンがあったようだ。歴史的な説明はひとまず措くとして、要は、日本人は辛抱強いが、切れたら怖い、と言っているのだ。この話には後日談がある。今度は、伊藤さんがラオスに行った時のこと。
​ 伊藤さんが現地で若い女の子と話をしていたら、「ワタシはフランス人と中国人が嫌い」と言い始めた。なんで?と聞いたら「フランス人は、ラオスがまだ植民地だと思ってる。だから威張る」「中国人は威張る上に、騙す。騙さない分だけ、フランス人の方がまし」と。じゃ、日本人はどう思うの?と聞いたら「ワタシのお爺ちゃんが言ってたけど、日本人は騙しやすい。だから何度も騙せる。騙せるが、ある日突然、殺しに来る。だから、日本人は騙しちゃいけない」と。…この話、どこかで聞いたなぁ。​
 インドシナ半島で独立を保ったのはタイ王国だけで、ラオス・カンボジア・ベトナムはフランスの、ビルマ(現ミャンマー)はイギリスの植民地だった。また、マレー半島をイギリスが、インドネシアをオランダが、フィリピンをアメリカが支配していた。太平洋戦争の際、日本はこれらの国々の独立を標榜し、欧米勢力の駆逐を図るのである。その辺りについて、伊藤さんの懐旧談はまだ続く。
​ 伊藤さんがある時、チャーチルの回顧録を読んでいたら、こんな行があった。「日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる」「しかし、これでは困るのである。反論する相手をねじ伏せてこそ、政治家としての点数があがるのに、それができない」「英国は太平洋戦争開戦劈頭、マレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを日本海軍航空隊の航空攻撃で撃沈され、シンガポールを失った」「日本がこれほどの力をもっているとは衝撃的であった。私にとって最も憂鬱な日であった」「日本にこれほどの力があったのなら、もっと早く発言して欲しかった」「日本人は外交を知らない」と。​
 日本人は辛抱強いが、切れたら怖い。あのウィンストン・チャーチルをして「日本人は、怒ったら怖い。だから怒らせちゃいけない」と言わしめているのだ。同じ話が3つも続けば、それはもう真実だろう。そう結論づけるのが性急だとしても、他の国にも同様の見方があるのかどうか、「日本人観の探究」というテーマには格好の題材と言えそうである。








Last updated  2019.03.20 13:36:44
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2019.03.05
カテゴリ:カテゴリ未分類



初型と終型の双方が、何かの文字やカタチになっているものを「立体曲詰」という。柏川悦夫「二上」や安達康二「NHK」は真の名作だが、本作はその足下にも及ばない。及ばないが、そんなことは承知の上で、可愛い自作に某かの意味を見出したいのが、作家というものなのである。素材102と作意が全く変わらない15手詰。

【作意】
35金、同と、23金、25玉、34角、同と、
36金、16玉、26金、同玉、27金、15玉、
16歩、25玉、36馬   まで 15手詰






Last updated  2019.03.05 00:00:14
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2019.03.04
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素材101が余りに単調なので、序の2手を付け加えた。持駒が金4枚と分かりやすく、構図もスッキリし、角捨ても見えにくくなって、こっちの方が考え所がある。もう少し何とかできそうだが、今はとりあえずの15手詰。

【作意】
35金、同と、23金、25玉、34角、同と、
36金、16玉、26金、同玉、27金、15玉、
16歩、25玉、36馬   まで 15手詰






Last updated  2019.03.04 06:54:07
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