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カテゴリ:歴史
昨日の話に関連して、小泉八雲『知られざる日本の面影』の中に、こんな話があったのを思い出した。「第二十六章 日本人の微笑」その二から、その大意を記す。 明治の頃、横浜に住んだ英国人商人Tが、侍上がりの老人を召使いとして雇った。老人は髷を結い大小を差していたが、礼儀正しく節度もあり、商人Tは大いに気に入った。ある日、老人が大刀を差し出し「これを抵当にして、少し金を貸して貰いたい」と頼んできた。それは美事な物だったので、商人Tは金を貸してやった。数週間後、老人は金を返し、大刀を取り戻した。 ある日、商人Tは何かのことで老人を叱責した。老人はお辞儀と微笑みでその叱責に服していた。それが一層、商人Tの怒りを煽り、Tは老人に出て行けと命じた。それでも老人は微笑むばかりだったので、商人Tは遂に老人を殴った。その刹那、老人の大刀が商人Tの頭上を一閃した。刀を修めた老人は、そのまま退出した。 Tは老人がくれた珍しい小さな贈り物や、その正直さを思い出して、恥ずかしさを覚えたが、「まあいい、あれが悪いんだ。おれが怒って居る事を知ってゐておれを笑ふやつがあるものか」と、自分を慰めようとした。それで、機会があったら、何か埋め合わせをしようと思った。 しかしその晩、老人は切腹した。遺書にはこう書かれていた。「侍として、理不尽な暴力を受けて反撃しない、ということは耐えられない屈辱である」「しかし、ご主人には金を貸して貰ったこともあり、その恩人に刀を振るうなど、あってはならない」「とすれば、自ら死を選ぶことが、名誉を保つ唯一の方法である」と。 商人Tと同様、当時の欧米人の多くは、日本人の微笑の意味を理解できなかっただろう。ギリシャ生まれのアメリカ人ラフカディオ・ハーンはそれを理解できる感性をもっていたからこそ、小泉セツを妻として日本に帰化する道を選んだ。辛抱する。じっと耐える。それこそが日本の美学であり、その臨界点を越えた時に、すなわち微笑が失われた時に、「切れたら怖い」という現象が現れるのだ。堪忍袋は、日本以外にはないものなのである。
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Last updated
2019年08月01日 22時18分35秒
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