八甲田の夏 その四
蔦沼の情景に感激した妻は、「秋の紅葉の時節はもっと素晴らしい」と聞いて、また来る心算になったようだ。それはそれで喜ばしいが、歴史学をやってるワタシとしては、後藤伍長の銅像の方に関心を持ってもらいたかったのである。 明治35年(1902)1月23日午前6時55分、歩兵第五連隊第二大隊210名は、厳冬期の八甲田山で行軍演習を行うため、青森駐屯地(現青森高校)を出発。約20km離れた田代温泉を目的地とし、2泊3日で三本木(現十和田市)へ抜ける計画だった。中間地点の小峠までは何事もなかったが、荷橇(そり)の遅れと天候急変で、ついに軍医から「行軍中止を」との声が上がる。しかし、血気盛んな若い兵士達の声に押され、上層部は行軍継続を決定。過酷な運命が待ち受けているとは知らずに。 …結果、この行軍は199名の死者を出す大惨事となり、後世に記憶されることとなる。とは言え、この事件の顛末を知る人は、今の日本にどれほど居るか。ましてやこの銅像のことなど、余程優秀なツアーガイドでなければ、紹介もしないだろう。ワタシにしたって、ここに来るのは12,3年ぶりのこと。思い出した時に来ておかないと、それきりになってしまう。 この辺りは日本海、津軽海峡、八甲田から風が吹き込み、局部的に特殊な気候を作り出す場所だという。冬の積雪は10m近くなり、頻繁に猛吹雪となる。入り込んだ人はホワイトアウトで方向を見失い、リング・ワンダリング(円形に歩いて元に戻ってしまう)というさまよい現象を起こすことになる。加えて、当日(1902年1月25日)は超寒波が到来し、旭川では-41.0℃を記録した(日本気象観測史上の最低温)。八甲田山中では-20℃前後だったが、秒速20mほどの風が常時吹いていた。風速1mにつき体感温度は1℃下がるから、兵士らは-40℃超の極寒の中で食えず、眠れず、動けずの三重苦を味わったのだ。 銅像がある馬立場からの眺めは素晴らしく、爽やかな風が吹き渡って心地よいが、その景色が一瞬で白い地獄に変わる八甲田山の冬の恐ろしさ。「こんなに綺麗な場所なのに、大変だったのね…」との妻の呟きに万感の思いがこもっていて、わかってくれたかな、と心の中で兵士と妻に掌を合わせた。 この銅像は明治39年(1906)、大熊氏広が制作した。台座の前面には陸軍大臣寺内正毅による撰文を記した銅板が、後面には行軍参加者の名を記した銅板が、それぞれ嵌め込まれている。像の脇にも説明板があったので、何が書いてあるか興味が湧き、部屋に戻ってから読んでみた。青森市指定文化財(有形文化財)歩兵第五連隊第二大隊遭難記念碑(八甲田山雪中行軍遭難後藤伍長銅像)○指定年月日 平成十一年二月二十二日○員数 一基○地域 青森市駒込字深沢(通称:馬立場)○管理団体 青森市 この記念像は、世界の山岳遭難史上犠牲者の多いことで例を見ない青森歩兵第五連隊第二大隊の八甲田雪中行軍の事実を後世に伝えるものである。 制作者の大熊氏広は、明治から昭和初期にかけて活躍した洋風彫刻の第一人者であり、我が国を代表する彫刻家である。 本作品は、的確な技量に支えられ、細部に至るまでその時代考証は確かであり、作者の作品の中でも、最も彫刻性が高く、記念碑彫刻としての観点からも日本有数の傑作群に数えられている。像全体が力と気品に溢れ、台座とのバランスも見事であり、八甲田山を背にしての立像は、この上ない景観となっている。 青森市では、歴史的にも芸術的にも高い価値を有しているものとして、文化財に指定するものである。