宗像市長への手紙 

【当方発8.24.’03】

一度決まったものは元には戻しにくい。近隣商業地域、門柱の位置、赤間宿町並み案内板(庄屋恵比須の抹殺、蛭子屋の築年数の誤り、紺屋の屋号)を正しく直す事は苦難。一般の人にはどうでもいいことだから。

宗像を良くする為に、過ちを直すにはばかるべからず。

【市長発11.18.’03】

案内板の内容については、赤間宿関係の資料をもっとも多く所有している宗像市郷土資料室の職員と共に調べた結果、お話にあった点について確認できる資料がありませんでしたので、現在の案内板を修正する予定はございません。


【当方発12.17.’03】

宗像市郷土資料室の資料がいかほど値打ちがあるか存じませんが、我が家には江戸期の系図2巻、先祖画像2点、家図面1点、神社巻物2巻あり、その資料に基づき、正論を申し上げております。

その他、久戸長は、久戸から赤間に来た一代目船津長兵衛(嘉永元年~明治43年)家が庄屋と案内板にあるのは、江戸期を通じて庄屋に思えて、まずいのでは?明治時代も庄屋制度があったとしても。また、おもちゃ屋、植木屋は、江戸期には存在しないはず。築年も書いてない。

【市長発1.7.’04】

これらのご指摘につきまして、看板を設置した経緯を含め、今一度調査をさせていただきたいと思いますので、少し時間を頂き、改めて結果を報告致します。


【当方発1.8.’04】

今までの5点に加え、下記も調査して下さい。それは、勝屋(約110年前)の表記です。110年前に滝口新屋から山本勝屋にオーナーが替わっています。建物自体は江戸後期。どういう表記が望ましいのでしょうか?

2004年01月08日 16時52分12秒
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(次は3月2日に、非公式文書を携えて、市職員が2名、我が家を訪問)
【非公式文書】
1)江戸時代中期はまだ村庄屋であっても苗字を許された人は、少なかった。また許されたとしても「一代限り」が多く、「孫氏の代まで」というのは非常に少ない事が古文書等でわかる。出光家が内々では苗字を名乗っていても公文書等に記されていなければどこの家の人であるかは確定しにくいことがある。

 今回は「宗像市史通史編第2巻」巻末「付 近世参考資料 表3」を参考にし、さらにこの表作成後に発見された資料等を参考に考えたところ中期の庄屋名として

  宝永6       赤間村半三郎
  享保20      赤間町甚五郎
  天明1~きょうわ1 赤間村藤吉
  文化9       赤間村卯右衛門
  天保11      赤間村藤市
  嘉永5       赤間村勝三郎
  安政2       徳重村石松三郎平が入り庄屋
  安政6       赤間村甚平
  慶応1~明治4   石松三郎平

 大庄屋として
  文化14~文政1  赤間村卯右衛門
  文政2~3     赤間村出光卯惣太    となっています

 古文書は後年作成された資料と異なりリアルタイムで作成されたものですから他 のどんな資料よりも確実性は高いといえます。これらの史料から出光家に関する 確実なものは赤間村出光卯惣太のみですが、「卯」を通字としているらしいこと が推測できますので文化9年の赤間村卯右衛門も出光家の人であろうと思いま  す。家業を「酒造」とされていますが、当方ではその史料はなく、もしご存知で したら是非ご教示下さい。「宗像市民俗調査報告書第1集」では荒物・酢・醤油 醸造となっています。

2)「蛭子屋が築360年」は確かに間違いで前掲報告書によりますと改築時の指 図が残されていてそれには「文久2年」の銘があると、記されていますので築1 43年ということになります。

3)商店が屋号はないということはおかしく、三越や岩田屋をただ「デパート」と いうのと同じことです。紺屋は通称であくまで近隣地域でのみ通用するもので  す。出光家は徳島から藍玉を仕入れて久留米や博多におろしていたと「小説 出 光佐三」に書かれていますので、このような家業でただ紺屋だけでは仕事に齟齬 を来すでしょう。前掲報告書第3集(p.83)にあるのは「マツ屋」です。これを否 定する史料を私は見出しておりません。

4)4の質問はよく理解できませんでした。久戸郷土誌がどのような史料をもとに 書かれているのかも分かりませんので正しいか否かの判断もつきません。また  「宗像市民俗調査報告書第1集」の図6.町並み復元図には「久戸長」の屋号は 記載されておりません。私の理解不足であれば、もう一度詳しくお話を伺いたい と思いますが・・・。

5)この「唐津街道案内絵巻」はご存知のように商工観光課で発行されたもので、 学術的な側面よりも観光マップとしての意味合いで作成されたものと、私は受け とめております。ここにおもちゃ屋や植木屋があるのは厳密に考えれば陳腐なこ とですが、これを書き入れることで現在この図を手にする人が理解しやすい側面 もあるでしょう。できることなら、現在と過去を別の座標で示すのが最善である とは思いますが。
 (また、歴史を研究する者として言わせていただきますとこのような学術的には 陳腐なものでも50年、100年後にはとても貴重な、この絵巻作成の時代を語 る史料になっていきます。)

6)この図に書き込まれているのはあくまで建物の築年であって、数字としては何 も問題はないと思います。また、明治6年(1873)の筑前竹槍一揆の書上  (宗像市史史料編4,p807)げではすでに勝屋の屋号があり、また1)の宗像市史 通史編第3巻の庄屋一覧でも「安政4年 三郎丸村山本善五郎」と勝屋のご先祖 の記載があるので「築110年 勝屋」の表記で異論を唱える人はいないと思い ます。以上取り急ぎまとめましたので誤字脱字がありましたらご容赦下さい。ま た、これについてお尋ねがありましたら郷土資料室Iまでご連絡下さい。
                    (2004.2.13)

ーーーーー以上が2004.3.2.に職員2名が持参した文書ーーーーーーーー
ーーー日付見てもらうと分かるけど、2月13日の文書を3月2日に持参ーーーー
ー当日朝、2時間費やして、全面的に文書の誤りを指摘。正しいのは庄屋名のみー
ーーー3月2日の朝のやりとりを、メールで昼送付、それを後でアップするョーー

【3月2日のまとめメールを改訂、I文書に対する回答】2004年7月1日アップ
I文書に対する回答
1.5行ほど、根本的に誤り。出光戎屋(恵比須屋、蛭子屋)をご存じない。
 出光蛭子屋は、何代も、出光姓を使用。

 6行目以降:多分に正しい情報?
 赤間村甚五郎⇒蛭子屋本家(酒屋・宿屋・農業)・・・現在の我が家の隣。
 赤間村卯右衛門⇒蛭子屋分家(酒屋)・・・現在の高梨、村山、大和電器の3軒の位置。 
 赤間村勝三郎⇒萩尾鎌屋(醤油屋または荒物屋または宿屋)・・・現在、江藤歯科の隣に子孫あり。
 赤間村甚平⇒滝口新屋(酒屋)・・・現在の山本勝屋の位置。

 大庄屋 赤間村卯右衛門、赤間村出光卯惣太ともに、蛭子屋出光(酒屋)中家
  大正年間に赤間を去って、山門郡(柳川市の近く)に居住。現在の高梨、村山、大和電器の3軒の位置。 

石松三郎平(徳重村)は、多分に蛭子屋出光本家の武右衛門(甚次郎)が徳重村の庄屋になってるから、相互に入り庄屋、出庄屋となったのかも?他に、陵厳寺村の吉田が赤間の入り庄屋になっている筈。そのときの執務館が調査報告書第1集のp21図6、江戸末期の町並み復元図の庄屋。

 赤間村藤吉、藤市、については、存じません。
 また、参考資料として宗像郡誌の藤助の項目を、お読みください。
赤間村卯右衛門⇒蛭子屋分家(酒屋)の手代・藤助のことが書かれてます。蛭子屋の系図の知識があれば、簡単に読み解けます。酒屋蛭子の繁盛とその手代の話です。


2.築143年ではありません。京都府立大學の先生が研究室として調べられた結果、259年、240年、230年と、3期に分けられるそうです。文久2年の銘は、出光運平(9代目)の娘の結婚を祝して、すなわち、10代目のために、系図つくり、家の図面整理をしたから。

3.屋号は、生業を元とするもの、出身地を元とするもの、抽象的なものの3種に分けれる。紺屋も屋号です。
 松屋を屋号として使っていた証拠をみせてください。
うその資料、戦後の資料(調査報告書第3集p83)では駄目です。
なぜなら、調査報告書第3集の屋号は、30年前の丁度その時点の甲板だからです。
私の記憶では、多分数ヶ月の間、クリーニングチェーンで使用。調査報告書で他の屋号 も確認して下さい。

4.赤間町並み案内板には、久戸長とあります。「久戸長、約105年前、庄屋宅」と明示。
 問題は、このマップを元に、アマチュア歴史家のネット族が世に知らせているということです。
 99%の地元の人は関心ないけど、間違った資料が世に出回っていて、その責任は宗像市だということです。

5.赤間町並み案内板は、観光マップとして作られたにせよ、それが赤間史の基礎資料として出回るわけですから、宗像市の責任は大きいと思いますよ。
 観光マップだから、ちょっとしたミスは許されると考えられていたら、公務員失格です。
 蛭子屋は江戸期4件(上、中、下、本家)だが、我が家だけしか、書かれていない。
 鎌屋は3軒だが、1軒も書かれていない。
 油屋は3軒だが、1軒しか書かれていない。⇒町茶屋として掲載。
 
6.山本勝屋:建物は、江戸期後期だが、赤間町並み案内板には約110年前とある。
 南郷・赤間を一緒にまとめた最新の宗像市のカラーマップでは、築210年前となっている。市が一般向けに出しているプリント自体、変容している。
 私が言っている事は、どういう表記がのぞましいか、です。
滝口新屋は、庄屋もしている。そういう家を無視していいのか?

7.吉野屋(酒屋)、30年前に酒造りを廃業。吉野屋も載せて然るべき。
ただし、オーナーが変わっている。始めは、幸福屋。姓は不明。

8.町茶屋(油屋)のイラストは、庄屋恵比須だ。我が家の系図では、何代も庄屋をしている。庄屋恵比須(酒造り、おまさ事件後宿屋に転業、幕末から農業、海軍大佐佳之助/海軍中将万兵衛/九州大学講師勝兵衛/富の寿社長武夫を輩出、現当主浩は宗像市役所退職、浩一は獣医)を無視するのは非道。
町茶屋(油屋)は、今の直方線の位置。だから、イラストの蛭子屋の右2家を、我が家から順に、庄屋恵比須、町茶屋とあらたむべき。

9.道に関しても、問題含み。
今のセブンイレブンから交叉点”赤間上町”、そして交叉点”赤間西”に至る道は削除。
また、今の江藤歯科・白石鮮魚・しんくみの四つ角から赤間公民館に至る道も削除。
旧国道3号線も削除して、「至 芦屋宿」を赤間街道の北端に書くべき。
鉄道は残す。
上の構え口は、位置は未確定だが須賀神社と法然寺の間の曲がり角(安部さんの家の前)あたりに絵巻では書いておいた方が無難。今、ネットで、アマチュア歴史家は駅の門柱を赤間宿の起点にしています。その責任は宗像市にあると思っています。観光のため、宣伝のためでしょうが、間違った歴史を広めるのが市の仕事ではないはず。門柱には、しっかりと、「観光用であり、実際の位置とは異なります」の表記をしましょう。

10.出光佐三生家を大きく載せるのが趣旨のため、油長や酒屋蛭子が無視されてます。
大庄屋の酒屋蛭子を無視しては非道。また、油屋本家の油長を無視できません。
両家とも、家は現存しませんが、大黒屋本家のような表記はできます。載せるべき。

出光良治
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2004年7月9日受領【「市長への手紙の回答」2004/07/08】
市長への手紙の回答を下記のとおりご回答いたします。
ご質問等がありましたら、担当係までご遠慮なくお問い合わせ下さい。
よろしくおねがいいたします。

                記
先日は、お忙しい中、ご訪問させていただきありがとうございました。

赤間宿街並み案内板の件につきましては、訪問させていただきましたときに回答い

たしましたとおり、案内板を建てかえる際に、出光良治様のご意見を踏まえ、専門

家、宗像市教育委員会障害学習課文化財担当職員をまじえ、内容を検討したいと思

います。

その際、出光良治様所有の資料をお借りする場合があればご協力よろしくお願いい

たします。

最後に、回答が遅れましたことについてお詫び申し上げます。

                         差出人 宗像市長
                    担当係 商工観光課商工観光係


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