1992年新聞投稿集



1992年9月に、新聞投稿で載って以来、書き溜めてきた随筆が百となったのを、一つの区切りとして記念して、限定200部自費出版することにした。「ワープロ時代」の随筆に始まるが、未だワープロを持っていない。

私の教え子たちが新聞に記事を寄せているのを読むのは、興奮する。前任校の生徒を5月28日(土曜日)、西日本新聞「こだま欄」で見つけ、投稿が良い方向で根付いているのを見てうれしかった。

この小冊子に収めたものは、ほぼ書いた順になっている。その投稿が新聞に掲載された場合は、文の終わりに【?月?日、??新聞掲載】と記している。百題の内、三十が掲載された。随筆集、自分史の新しい形態と思っ

ている。裸の自分をさらけ出しているので、ちょっぴり恥ずかしい。

出光良治

目  次

p 1  ワープロ時代        ハイキング

  2  自動車が少なかった時代   葬儀の簡素化を

  3  賃金比較を読んで      オランダの友

  4  鳩を捕らえる猫       不信の世のプロテクター

  5  LHRでこだまを使用     長男の父兄参観授業

  6  自費出版本に米国から注文  認知された文化―漫画―

  7  三者三様の死        貴花田の結婚宣言

  8  目上の人に対する言葉    個人主義と団結のアメリカ人

  9  11月から冬服の女子高生  文化の日に山登り

10  介護休暇制度を望む     食事の用意

11  健康は人生の宝       初十夜

12  世界の相撲         オランダからの手紙

13  七五三           献血

14  同和教育          人は数字にこだわる

15  人権週間に寄せて      死生観の転換点

16  子供が誘拐された夢     強調の大切さ、生徒よ学んで

17  テスト前の職員室掃除    お年玉のこと

18  夫婦別姓について      華々しく写真年賀状

19  鬼             七草粥

20  挑戦            朝ごはん

21  言葉遣い          受験

22  人間皇太子         戻ってきたエアメール

23  都会の暖房暑すぎます    スキー

24  偏差値批判は何かおかしい  テレビ

25  皇太子と貴関の二組の報道  教え子の記事に興奮

26  NHKのやらせに落胆     時事川柳/時事川柳

27  定年退職後は毎日登山    甥の合格に安堵

28  教育の究極の目標      時事川柳/時事川柳/時事川柳

29  地下水の心配        時事川柳/同級生

30  公私混同          偏差値は単なるデータ

31  捕鯨再開、大賛成      時事川柳/漢字マスター法

32  漢字は日本人の教養の尺度  贈る言葉は「新しい始まり」

33  所構わぬ携帯電話      収穫なしでも釣り教育充実

34  バイク           阿蘇

35  今年度の目標        昼食

36  私とスポーツ        若いときは一人で結婚後は家族と旅

37  週休2日制は私立校も必要  雑巾

38  国際貢献          目に輝き、女子高生

39  PKO即時撤退を!      父

40  東京            時事川柳

41  物書くは生きている証    世代交代で付き合いに遠慮

42  桜も切る時あり       時事川柳/抑圧された現代人

43  大相撲と夕食準備      アメリカを買う中国

44  裏金の作り方を知った    通信教育部は偏差値無用

45  自然葬所感         シドニーの山火事報告

46  現代の食事はボーダーレス  米飯固執せず

47  おにぎり          教えがい

48  市街化調整区域とは?    自分の時間

49  表彰            身の回り川柳

50  あと一息          埋葬所感


 



 

 

 

 

 

 

 

ワープロ時代               1992年9月4日

今や5軒に1軒はワープロを所有している時代となってきた。20年前は、和文タイプを個人で持つと家でアルバイトができるほど貴重な物であった。それが10年前からのワープロの大量生産、

需要増に伴い、和文・英文タイプはともにすたれてしまった。

生涯教育の時代である。技術の進歩の著しい時代である。私は37歳にして、時代の波に乗るべく、ワープロ講習会に行ったものだ。テレビのワープロの宣伝のように、講習会の先生は若い女性であった。

今では教員仲間は10人中7人がワープロを持っていて、家でも仕事ができる態勢を取っている。私は今、子育ての時期で、まだ購入できるゆとりはなく、学校のワープロを使ってテスト問題や報告などをきれいにまとめている。購入願望はあるので、いつの日か我が家にも入り、1軒に1台のワープロ時代も近いだろう。                           【西日本新聞 9月9日掲載】


 

 

ハイキング                 1992年9月20日

同じ位の小高い丘みたいな山に登るのに、家族で行けばハイキング、学校で行けば遠足と言っている。長男(7歳)、次男(5歳)、長女(3歳)の子供たちと妻、私のニューファミリーで登るときは、20分毎に休まなくてはならない。17歳、18歳の生徒たちとの遠足では、休みなしで頂上まで登る。

4月に地元の城山(標高369M)に家族とともに登った。長男、次男と私はほとんど休みなしで頂上まで登った。頂上は素晴らしい眺望で、北九州市、遠賀郡、宗像郡の海岸が見えた。30分もすると、長女と妻がやってきた。途中で帰ったと思っていたので、2人の努力に感服した。

9月には、今宿の叶岳(標高341M)に、学校の遠足で生徒たちと登った。頂上には叶岳神社があり、眺めは絶景であった。山からは何といっても海を見るのが一番美しい。当日クラス出席者42人の落伍者がでなかったことがとてもうれしかった。


 

 

 

 

自動車が少なかった時代         1992年9月26日

30歳以下の人たちは、車のない時代を想像することができないでしょう。38年前、私が5歳のとき、赤間の通りはまだ馬が時折そりをひいて通っていました。私はいたずら盛り。そりに乗って5Mほど、足をそりの下にはさまれてひきずられ、何針も縫いました。その傷痕がちょうどやけどの跡のように未だに右足に残っています。

現在西鉄バスが通っている赤間の通りで、子供のころはだんちんやパッチを近くの仲間と楽しんだものです。又、33年前、祖母の葬儀ではリヤカーで遺体を焼き場まで運びました。焼き場は徒歩15分の所にありました。

私の住んでいる所は交通の便も良く、日常生活に自動車はいらないのですが、やすきに流れるのが人の常で、この10年間、私も車に頼った生活をしています。自動車のない時代の方が、ゆとりがあったと思うのは私だけでしょうか? ミヒャエル・エンデの時間泥棒のお話「モモ」を思い出します。


葬儀の簡素化を                         1992年9月27日

毎日どこかで葬儀があっています。およそ生まれてくる人の数だけ亡くなっているはずです。私は昨年11月に伯母、12月に父、今年1月に弟と、立て続けに肉親を亡くしました。伯母、父の葬儀は私が喪主で、伴僧の数、霊柩車などの決定をしました。伯母の通夜での席で、和尚さんから「何人で読経しましょうか?」と伴僧の誘いがあったが「和尚さんお一人でお願いします」と答えました。霊柩車は、宮型はぎんぎらぎんで好みではないので、黒のワゴン車をお願いしました。

弟の葬儀では私は親族でした。3人の読経、宮型の霊柩車、何十という花輪(告別式の日の未明、弟の意志か、突風がすべて吹き飛ばしました)、きらびやかであるほど、むなしさを感じました。

昨今の葬儀の華やかさを見るにつけ、もっとつつましさをと、いつも思っています。

                         【西日本新聞 10月4日掲載】





 

 

 

 

 

 

賃金比較を読んで                      1992年10月7日

民間調査機関がまとめたモデル賃金調査で、27歳の全産業が24万3千円に対し、金融保険業は26万6千円の賃金であるという。

賃金の一覧表や、細かいデータが出ると、私はいつもうつ病になる。なぜなら、私の月々の給料は同じ年配諸氏より確実に10万円は少ないからである。というのは、ユーターンで福岡に帰ってきて今の定職にありついたのが35歳である。大学時代に教員免許を取得していなかったので、34歳で母校・宗像高校で教育実習をした。

賃金という現実の問題に直面すると、私はいつも過去を思い出し自己満足する。サラリーマンの誰もが夢見る社長にはなれなかったけど、大きな夢であった海外勤務をしたことを誇りに自己満足するのである。

人はいつでも自己満足をしないと生きてゆけないものだ。自己否定は自殺につながる。


 

 

 

オランダの友                          1992年10月7日   

レインボープラザを通してオランダからカップルがやってきたのは、昨年の3月1日であった。アンナさんは、あんま免許を持った看護婦さん、そして夫君のヨーストさんは、ホテルマンであった。2人ははるばる日本まで、合気道の修業にやってきたのだ。

初日、彼らはプレゼントとして日本語で説明のある、美しいオランダ紹介の写真集やテーブルクロスを我が家に、風車の印のあるネクタイを私にシールや塗り絵を子供たちにくれた。

6月末日、別れの日、私は書道の易しい本を贈った。彼らは滞在中に写した我が家や家族の写真を、彼ら流にファイルしてくれた。

最近オランダでイスラエルの貨物飛行機が団地に突っ込んだ写真を見て、又たまたま10月6日から12日まで国際文通週間なので、年に1回位はアンナさんとヨーストさんに手紙を書かねばと思い立った。


 

 

 

 

 

 

 

鳩を捕らえる猫                 1992年10月15日   

1週間前に猫が鶏の首をくわえて学生アパートの2階に持ってきたと、妻は仰天した有様を話してくれた。そして今日は、多分同じ猫であろうが、鳩を捕らえてアパートの2階に来たとの妻の話であった。

前回は鶏を埋葬したが、今回は鳩は生きていて、アパートの学生が病院に連れていって一命をとりとめたらしい。猫は、餌をくれる人に褒めてもらおうと、鶏や鳩をとって見せにくるようだ。

ここで私はロシアの老人の新聞記事を思い出した。その老人は年金生活者で外にも出て行く元気がない。飼い猫が毎日鳩を取ってくる。そこで、その猫に保険を掛けたいという内容であった。

日本とロシアでは猫の評価は全く正反対となろう。日本ではこの種の猫は破廉恥な野良猫と呼ばれ、ロシアでは忠犬ハチ公扱いされよう。


 

 

 

 

 

 

 

 

不信の世のプロテクター         1992年10月20日

機械と話をするというのはぎこちない。留守番電話だと分かって、さあ今からメッセージを残す段になると、自分の口調が変わっているのに気が付く。相づちをうってくれるわけでもなく、ただ一方通行で声の伝言を記録させているのだから、当然と言えば当然である。人が留守番電話と話をしているなというのも、その人の口調ですぐ分かる。

ほぼ 全家庭に電話が普及している便利な世の中がこようとは、30年前には思いもつかなかった。ましてや留守番電話などは全く夢想だにしなかった。

留守番電話は誰か家に居る場合や、夜には帰ってくる場合には不要である。留守番電話の効用は、いやがらせ電話の撃退であろう。又、話したくない場合は居留守が使えるのも利点であろう。不信に満ちた世なればこそのプロテクターかもしれない。


 

LHRでこだまを使用         1992年10月20日

こだま「若者特集」は、バラエティに富み、同世代の私のクラスの生徒に読ませたいと常々思っていた。いろんな新聞がある中で西日本新聞の読者投稿欄は社説と同じページにあり、定位置を占めていて見やすく分かりやすい。いかに読者からの声を大事にしているか、比較すれば一目瞭然である。

10月17日は中間考査最終日で、1時間のホームルームが組まれていた。その日の「若者特集」のテーマは環境3件、教育2件、言葉1件、政治1件、季節1件、死1件であった。空き時間に早速コピー印刷した。手はインクで汚れ、石鹸で洗っても少し残っていたが、教室に急いだ。コピーを全員に渡し、1人に立って読ませた。

毎日のクラスでは返事、漢字、掃除の大切さを説き、人間社会の基本として協力と競争の必要を話している。根幹は同じことを、折に触れ、いろんな機会に話している私である。

                        【西日本新聞 10月24日】


 

 

 

 

自費出版本に米国から注文   1992年10月20日

国立国会図書館法という法律の存在を、1年ほど前の天声人語で知った。図書館員が週に千冊の新刊書を集めているが、それでも出版物の8割にしかならない。自費出版、社史の類が、集まりにくいという。

私は、昨年春、私の家の300年史について自費出版で30冊発行した。沢山の人に読んでもらいたいとは思わないが、100年、200年、保管できたらとは思っていた。そこに天声人語の情報であった。渡りに船、と早速納本をした。お礼状が届き、そしてまもなく日本書誌録が届いた。

そして14日、自民党前副総裁の金丸氏が議員辞職を表明したその日に米国議会図書館からの注文状が某出版貿易会社から届いた。その夜の我が家の食卓は、民主主義の勝利と、海外からの私の処女作に対する注文にわいた。ジュースでの乾杯も楽しかった。

誰もが本を出版できる世の中である。後世に残したい本は是非、国会図書館への納本をお勧めする。

                        【朝日新聞 10月25日掲載】


 

 

 

長男の父兄参観授業          1992年10月25日    

日曜日、長男の父兄参観授業に行った。30数年前、父が学校に授業を見に来たことはなかった。父は農業、商業をしていたから、平日でも行けるはずなのに、父兄会には母が来ていた。我が家だけではなく、全般的にどこの家庭も母親が子供の教育を受け持っていて、父親はノータッチであったと思う。

運動場は車で一杯であった。これも30数年前には考えられなかったことである。投稿欄でも、先生方に学校まで徒歩をとの投書を読んだが、校区の父兄も運動会や父兄参観日に実行できないでいる。そういう私も、車で時間ぎりぎりに乗りこんだ。幼児を2人連れているからとか、この後、長男をボーイスカウトに連れて行くのに車でないと間にあわないとか、自己弁護をしている。

楽しい授業であった。子供の伸びやかな顔を見て安心した。


 

 

 

 

 

 

認知された文化―漫画―      1992年10月27日  

私達団塊の世代は、漫画産業と共に成長した。小学生のとき、月刊「少年画報」の赤銅鈴之助に熱中していた。弟から、「兄ちゃん、鈴之助画くのがうまい」と褒められ、ずにのって地面によく似顔絵を画いた。中学時代は、週間「少年マガジン」、「少年サンデー」を読んだ。手塚治虫、雨森章太郎、横山光輝、ジョージ秋山各氏の作品が好きだった。

30年前には書店にずらっと漫画の単行本が並ぼうなんて夢にも思わなかった。それが20年前から書店の半分を占める店が現れる等、世の中急変していった。今ではどの書店も漫画の単行本が大きなウェートを占めるようになった。

いろんな科学物、歴史物、法律物等、硬い内容のものでも、漫画で若い世代に易しく語られている。漫画は今や完全に社会から認知された一つの文化形態だ。


 

 

 

 

三者三様の死                 1992年10月28日

昨年の暮れから正月にかけ、ひきつづき3人の最も近い肉親を失った。

11月、我が家の長老の伯母が86歳で癌による体力低下で急性肺炎を起こし他界した。病を発見して残り半年くらいの命と言われ、是非とも伯母の自伝を残そうと発心した。1年後、本が出来上がり伯母は何度もまくらべで読んでいた。最後まで気丈で死の1週間前、近所の葬儀に行った私をねぎらい、私の子や甥姪を本当の孫みたいに一人一人抱きしめてくれた。

12月、父が79歳で老衰で鬼籍に入った。約3年間、痴呆症で入院していたが、伯母が他界してすぐに自宅に引き取った。母は老人介護の勉強会に通って二人とも、面倒みるつもりだった。

この1月には弟が数えの43歳で、函館の大浴場で心臓麻痺で彼岸へ逝った。寝耳に水であった。弟は私の誇りだった。財産、命、名誉(あるいは名前)に執着がなかった。

どういうふうに死にたいかの願望はきっと実現する。私は四苦八苦しながら、伯母のように直前まで選挙権を行使して、百歳を超えて死にたい。


 

 

 

 

貴花田の結婚宣言             1992年10月29日

「若武者毅然、記者騒然」に納得。春秋の「称賛と羨望とやきもちの入り混じった複雑な気持ち」を抱いた。

このところ、政治不信の記事、派閥争いの記事ばかりだっただけに、貴花田関のニュースはさわやかだ。国民が共通の嬉しい話題を持つことは素晴らしい。そんな観点から、マスコミが全力を挙げていろんな角度から二人の事を取り上げるのを支持する。

私の家は、父も私も長男もみんな丑年生まれで、36歳で一回転している。花田家はサイクルが短い。遺伝にもよろうが、その人個人の成熟度の問題だ。貴花田はりっぱに、心、技、体が成熟している。何よりも小気味いいのは、貴花田関が「結婚は二人で決めました」と言っている点だ。憲法の精神を有名人の二人が身をもって示したわけだ。私はハワイ勢のファンだが、九州場所では花田君も応援したい。


 

 

 

目上の人に対する言葉         1992年10月29日

小学校1年生の息子は、「いちいち、うるさい」と母親に向かって言う。多分、その原点は、親が彼に対して「うるさい」と言った為と思われる。子供は真似をして覚え、今度は自分の言葉として使う。私の子供の頃、使った記憶が全くないのだが、実は使ったことを忘れたか、または私が反抗心のない従順な子であったかのどちらかだろう。

今の高校生は、「むかつくー」と友達同士でよく言い、そして時には教師に対しても言うようになった。2,3年前の卒業生までは、教師には「むかつくー」という言葉を使っていなかった。私はこの言葉が一種の流行語なのか知りたいと思い、HRで意見を書かせた。意味も把握しており、この言葉が感情を表すのに必要だと答えた者は全体の3割もあった。目上の人に対しては使うべき言葉ではないというのが5割を超えていた。理屈では分かっていても、それでも使った者が大半だった。

私の息子にしろ、生徒にしろ、どちらも相手をどんな気持ちにさせるかの理解が欠けている。


 

 

 

 

 

個人主義と団結が同居のアメリカ人                1992年10月29日

毛利衛氏の乗ったスペースシャトル「エンデバー」には「努力」あるいは「試み」という意味がある。「エンデバー」で思い出すのが、約25年前に佐世保市に入港した原子力潜水艦「エンタープライズ」。それには「事業」あるいは「冒険心」という意味がある。

「エンデバー」や「エンタープライズ」に、アメリカ人の気質が実によく表されている。努力、試み、事業、冒険心がアメリカ国民の好きな言葉といえよう。

米国人の個人主義は有名であるが、その対語の「ユナイテッド」(団結した)という単語も結構好まれている。私は18年前に米国に派遣されて日本資本の不動産会社設立に加わったことがあるが、会社はユナイテッド・デベロップメント・コーポレイションと命名された。個人主義尊重と同時に団結、協力するわけで、これは人間社会の基本であろう。

                          【読売新聞 11月1日掲載】


 

 

 

11月から冬服の女子高生                 1992年11月2日

電気コタツを出してもう1週間になる。夕食後はコタツがいい。石油ストーブはまだまだだが、そろそろ電気ストーブも欲しい。

先月22日に生徒諸君に、「冬服は11月から。準備しておくように。」と言ったところ、「先生方は、冬服着てていいかもしれないけど、私達は寒いですよ。」と数名に言われた。冬服にすぐしてほしい人に挙手させるとクラスの大半であった。中間服のままで構わないという生徒は数名であった。結局、翌週から準備期間ということで冬服、中間服が入り混じり、校内ではカーディガンを脱いだ元気な夏服姿もあって、3種類の制服を同時に見ることができた。

暑さ、寒さの感覚は人によって様々だ。季節の移り変わりのとき、風邪が流行る。大学、短大、専門学校の推薦入試の季節だが、受験生諸君、体調を崩さないように頑張ってください。


 

 

 

文化の日に山登り             1992年11月3日

文化の日に城山に登った。標高369M。トイレ休憩所のある起点より1010M.。次男(5歳)、長女(3歳)、母(68歳)と共にいろんな花や景色を満喫した。自宅より頂上まで1時間10分。帰りは40分。その間、城山を守る会の標札の言葉にいつもながら心打たれた。

急がず登り、下りは足元注意。

登山は苦しくても楽しさ一杯、喜んで登りましょう。

根気よく徐々に馴らし、登山を楽しみましょう。

山歩き、こだましてくる健康が。

挨拶は見知らぬ人との心のふれあい。

挨拶はいつでもどこでも誰にでも。

健康は人生の宝。

降り際に、犬を連れた家族が登って来られたが放してあったので子供が怯える一幕がありました。「犬はつないでください」の標札が登り口にあります。

又、「60歳を過ぎたら登山に親しもう」の標札が見当たりません。「城山を守る会」でわざとはずされたのでしょうか? 私はあの標語が好きでした。

介護休暇制度を望む            1992年11月4日

11月4日の社説「老親介護で休める制度を」を読んで、全く同感。

私の敬愛する伯母が癌と分かって、あと半年の命と宣告された。初め、4ヶ月間、大学病院で検査と放射線治療。車で30分の産業医科大学付属病院に週に2,3回見舞いに行った。病院が治療に見切りをつけてからは自宅療養。月に1回、病院へ検査で母、伯母と共に行った。第4木曜日、HRのある日だが、私は有給休暇を取った。病院の帰りは、弟のいるレストランや、先祖が絵馬を寄贈した若宮神社に行ったりと、残りの日々を最大限に活用した。

死の数日前、伯母は私に「いくら給料もらいよるとね。私が払えたら、居って欲しいけど。」と言ったことがあった。辛かった。伯母は午前2時に昇天したが、急性肺炎を起こして前日より明日までの命と言われていた。だから、その夜は、ずっとついていた。最後の息の瞬間、「伯母ちゃん、有難う。」と私は叫んだ。


 

 

 

 

 

食事の用意                  1992年11月7日

日ごろ職場では現代女性の典型みたいな人が家では亭主、子供に食事の支度をさせたことがないという話を聞いてびっくりした。

私は学校では「5時の会」の会長なので、特別な仕事がない限りは、6時半には帰宅する。妻に用事があったりすると、私が30分で夕食のおかずを作り、7時には子供を食卓に着かせる。私のおかずは、いつもりんごやみかんの輪切りが付いていてカラフルでお子様ランチ風なので、子供が非常に喜ぶ。ご飯は電気釜で既に炊きあがっているのが前提だ。

結婚が遅かったので、同世代の人のライフ・サイクルと違うようだ。結婚とは二人にとって相手の家庭文化に出くわすカルチャー・ショックで始まる。義父が現代的・民主的なので、私は見習っているつもりだ。食事の用意は男性がしても女性がしても構わない。食器の後片付けには、子供も参加する。自慢の家族である。


 

 

 

 

 

健康は人生の宝               1992年11月8日      

日曜の朝、こたつで寝ていると、「パパ、調子はいい?」と娘から聞かれた。「いいよ。」と答えると、「んな、城山に登ろう!」と言われてしまった。「今日はね、昼はお十夜でお寺に行くからね、城山は行けないよ。」私は娘の丈夫さ、健康さに感心するばかりだ。

文化の日に城山に家族で登った。家から頂上まで、3歳になったばかりの娘の脚に合わせて息は1時間10分、帰りは40分歩いた。標高369Mの城山の起点である水呑場まで降りてくると、疲れを感じた。子供達は水呑場から、教育大学付属幼稚園に至る道筋を元気に走った。

よく風邪をひいて寝込んでいる私を知っている娘から山登りの催促を受けて、健康が人生の宝だと痛感した。定年退職後は毎日、山に登りたいものだ。目下は体質改善の為、毎週1回は水泳をしようと心がけている。


 

 

 

 

 

初十夜                       1992年11月8日

久しぶりにお寺の本堂でお説教を聞いた。子供の頃、祖母に連れられよく行ったものだ.この30年間は、お寺でのお説教に出たことがなかったが、父と伯母の初十夜だったので家族総出で聞きに行った。

子供達は、1時間程して声を出し始めたので妻がいっしょに連れて帰った。そのころになると聴衆はほんの10数人に減っていて男子は3人だった。どうやら、聞き手の中で私が一番若いようだった。

お説教の途中、別室のお寺の世話役の方々の話し声がよく響いた。「宮沢は馬鹿ですよ。」「いやいや宮沢さんも大変だ。」等の声から、今の政治講談があっているなと直感した。

人の話をしっかり聞くことの大切さは,幼児よりずっと言われ続けている筈なのに、いい年をした立派な方々が、お説教中に、隣室で政治講談とはびっくりした。一緒にお説教を聞けばいいのにと思った。


 

 

 

 

世界の相撲                    1992年11月8日

NHKスペシャル「土俵の鬼が見た世界の相撲」を見た。二子山親方が、アフリカ2カ国、アジア2カ国、ヨーロッパ2カ国の相撲に似た、その土地の格闘技を実際に見物してコメントをした。モンゴル相撲は知っていたが、その他は全く新しい情報であった。

二子山親方は、相撲の原型はどこも同じだということをしきりに強調していた。アフリカのピンクの湖のほとりでの相撲大会には、相撲取りが神の使いとなる儀式が延々1時間も続くなど、原始宗教的色彩の濃いものであった。

韓国の相撲は、10年前にプロ組織ができた。ズボンの上にまわしの代わりとなる紐を巻く。お互いが組んだ時点で競技が始まる。

いろんな型のその地方の相撲を尊重していこうと言いたいのか、それとも統一的な文化「例えば、日本の相撲」を広めたいのか、趣旨がもひとつ理解できなかった。日本の相撲を知ってもらうことは大切だが、無理強いは良くない。


 

 

 

 

オランダからの手紙             1992年11月9日

国際文通週間最後の日(10月12日)に、オランダの友人宛に出した手紙の返事が来た。オランダには国際文通週間はないらしい。

例のアムステルダムでのイスラエルの貨物飛行機の事故について情報をもらった。死者総数は1週間後、63人となった。4万人が胸を打つ葬儀に参列した。女王や大臣も出席した。

11月1日現在、オランダでは雨がよく降っていて、次のアメリカの大統領は誰にならかが目下の話題である、と我がオランダの友は書いてきた。

封筒のスタンプを見ると、アムステルダム11月3日となっていた。オランダから、日本の福岡まで、たったの6日で届いたことになる。今まさに、航空機の時代だ。


 

 

 

 

 

 

七五三                    1992年11月11日

百科事典によれば、七五三とは11月15日に、5歳の男児、3歳と7歳の女児を神社に連れて参る祝いであるという。子供の成長に関する重要な関門で、これに類する行事は室町時代から行われていた。3歳を髪置、5歳を袴着、7歳を帯解といって、奇数の年に決めたのは江戸時代の中期から。

我が家の子供達は満で7歳(男子)、5歳(男子)、3歳(女子)となった。満と数えで毎年、七五三のどれかに当てはまるので、11月初旬は神社参拝が定例化している。満にこだわる家庭もあれば、数えにこだわる家庭もある。そしてどっちでも都合で採用する家庭、七五三に無関心な家庭といろいろだ。

昨年は、近所の葬儀、我が家の葬儀とたまたま日曜がずっと詰まってしまって、神社に行けなかった。今年は、文化の日は長男のボーイスカウトの日、第2日曜はお十夜と詰まっているので、早めにと思い早速11月1日に行った。低頭して祝詞を聞くと、しみじみと来て良かったと感じた。子供たちも雅語ながらも何となく分かっているようだった。


 

 

 

献血                        1992年11月11日

献血講和を聞き、翌週に父兄の承認を貰って希望者は献血をした。私は教員になってずっと献血をしてきた。体重53キロ、身長174センチの典型的なやせ型だが、年に1回献血をしている。昨年初めて400ccとってもらった。今年も献血に良好な血液ですから、400ccにされませんかと言われたが、初めての寮での宿泊の上、朝補習が重なっていたので、200ccにした。

女性は献血不適格となる確率が高く、5人に1人は駄目のようだ。私の受け持ちのクラスに、『献血できること自体が健康の証だし、その上に社会に貢献でき、血液検査もしてもらえる』ことを説明した。翌日が入試の生徒も参加してくれたことが特に嬉しかった。皆さんも、献血してみませんか? 血を抜くと新しい血ができますよ。


 

 

 

 

 

 

同和教育                    1992年11月15日

夕刊で上杉佐一郎氏が小郡市の名誉市民となった記事を読んで感激していたら、翌朝の新聞には某高校での同和特設授業のお粗末が記事になっていた。8年前の上杉氏の講演は熱気に満ちていた。昨年の講演では、温厚なお年寄りになられていた。同和教育は人権教育であり、国際的な取り組みを訴えられた。部落出身者はもっともっと自分の出自を明らかに世に示して欲しいと主張し、特に有名人にそのことを求められていた。出自を隠す風潮に問題があるわけで、飯塚市の高校での同和教育は、まさにこの点がポイントである。

クラスに数人、同和教育のないほうがむしろ世の中が良くなっていくと考えている生徒がいる。そんな時、私は歴史の有為転変を説き、今いかなる時代に生きているかを認識させるなどを通して、問題点を浮き彫りにしている。


 

 

 

 

 

 

人は数字にこだわる              1992年12月2日

西日本新聞夕刊のシリーズ「中国世間話」に八八八の見出しがあった。車のナンバーが888というのは、「蓄財」の発音につながる数字だからすごく縁起がいい。このナンバーを手に入れるために高額のお金が支払われるらしい。中国の社会が「金儲け」の華僑哲学を受容している様子が述べられていた。

巨人の長島監督は、33番に「さんさんと輝く」思いを馳せた。私は、平成3年3月3日発行の日付けで自費出版本を出した。記憶しやすいのと、なにか数字に魔力がありそうな期待で、その日を選んだ。

三三が「さんさん」と輝くか、それとも「さんざん」と泣くか? 八八八が「ぱっぱっぱ」と散財になるか、末広がりの蓄財となるか? これは全くその人の運である。


 

 

 

 

 

 

人権週間に寄せて              1992年12月3日

昨日は、学校で1月の性教育の準備にと、むかい治英氏のコンサート風の家族論・人権論をビデオで1時間半見た。団塊の同世代で素晴らしい人もいるものだと感心した。自作の歌をギターの弾き語りで時々入れるのだが、胸にジーンとくる。

今日は、人権啓発アニメ『忘れるもんか!』をテレビで子供3人と一緒に見た。40分アニメで、3歳の長女は途中で退出。7歳の長男と、5歳の次男は一生懸命最後まで見た。アニメの後、10分ほど、製作者のお話があったが、2人は集中できなかった。内容は、盲目の教え子と、歌の好きな幼稚園の先生との10数年後のギター演奏会での再会をテーマにしている。当然、子供たちが良く知っている曲が沢山出てくる。私は大変感動した。私の、いわゆる大人の視線で子供に「面白かったか?」とたずねた。返事はあっさりと、「なーもおもしろなかった。」私の問いかけがまずかったようだ。


 

 

 

 

 

死生観の転換点               1992年12月13日

昨年の正月は喪に服していた。一昨年11月に伯母、12月に父を亡くした悲しみ故に。1月下旬、父の四十九日の法要を済ませた翌々日、弟が旅行先で亡くなった。夜中の12時に連絡を受け、朝の6時に車で福岡空港、そして羽田から函館空港まで行った。弟が前日に乗った同じ便で母、弟の嫁と子供たち、そして私は、地獄の暗闘の中に居た。函館空港の貨物置場で弟の死に顔を見た。その後、1週間、朝起きる時そして点滴を受ける間中、私は泣いていた。

弟は頼り甲斐があった。私の生身の片腕をもぎとられた痛みが未だに消えない。この1年間、痛惜の念で気分が滅入った。

3人の死、とりわけ弟の死は、私の死生観を変えた。生への執着からいつ死んでもよいと思うようになった。弟の亡くなった直後は、あいつは生にも財にも名にも執着がなかったから早く神に召されたのだと理解し、私は俗物として今まで通り、生に固執しようと思った。それが時の経過と共に、達観してきた。もうすぐ弟の1周忌だ。


 

 

 

子供が誘拐された夢           1992年12月17日

恐い夢だった。私の3歳の長女が誘拐されたのだ。私はうなされていた。誘拐犯を殺すと口走っていた。

その日の電車での行き帰りに、何て変な夢だったことかと思い出した。そして、そういう状況に陥れば私はやはり誘拐犯を殺そうとするだろう。絶対に許さないであろう。奈良で起きた短大生誘拐事件のご両親の気持ちがよく分かる夢であった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

協調の大切さ、生徒よ学んで                  1992年12月25日

はや2学期が終わってしまった。高校3年生は、1月の学年末試験が済むと教科書をもってくる通常の授業とはお別れだ。

今年も反省させられることが多々あった。その第1は、生徒諸君に弁当を食べた後、お茶を飲ませる習慣づけに挫折したことだ。みんなには、ジュースやコーヒー牛乳を買うよりお茶がいいから、湯呑かコップを持ってきなさいと勧め、クラス用に水切りフードを購入した。それが使われないまま眠っているのを見るとき、自分の指導力、説得力のなさを痛感する。

反省の第2は、掃除である。日ごろ返事、漢字、掃除について口をすっぱくして重要性を説いているが、朝の掃除に関して教師の監督なしで班員全員がそろうことはなかった。競争と協力を唱えたのに、競争のみが染み込んでいったようだ。あと1ヶ月、いかにしてこの協調の精神をクラスのみんなに教えていけるか? 頑張ろう。


 

 

 

テスト前の職員室掃除          1992年12月26日

定期考査の1週間前から、生徒諸君は職員室の入室を禁止される。その間、教師が掃除をする。昔は女先生が掃除するのが当たり前であったようだ。男先生は、生徒指導で夜遅くなったりするから、その穴埋めをと年配の女先生が言われたことが頭に焼き付いている。

勤務して数年、朝の8時からの掃除に参加することが度々あったが、その都度、女先生からの冷やかしがあった。

「まあ、珍しいですね。」

「まあ、お家では、ほうきは握られませんでしょうに。」                   掃除仲間を増やそうという意欲が感じられなかった。

老若男女取り混ぜて働いている職場で、それも男女平等の最先端と目されている教員の世界で、保守的な考えがまだまだ根を張っていた。この数年、20歳台の若い男先生が率先して、朝の職員室掃除をするので非常に民主化が進んだ。男も女も他を寄せ付けない排他的なグループを作っては駄目である。


 

 



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